第19章 父の愛した、母

「安蘭、家にお仏壇がないの、どうしてか知ってる? 私を生んで、私のお母さんは亡くなったって、お父さんはそればかりを繰り返し話して聞かせたの。だったら仏壇を置くとか、写真を飾るとか……お兄ちゃんや私のために、もちろん、お父さんのためにも。手を合わせる場所を拵えようとは、思わなかったのかな?」

 知らないことの不幸って、きっとある。

 だけど、知るのを恐れて、気付かぬ振りで、幸せな振りは、卑怯でしょう。

「ねえ、砂羽。どうして俺に聞く? どうして仏壇がないのかって、お父さんに聞いたら? 砂羽さあ、お父さんとも、面と向かって、目を見て、話さなくっちゃ。逃げていたら、いつまでも、守られてばかりの子供だよ。大切なもの、何も見えては来ない」


 幸せになりたきゃ 態度で 示そうよ

   ほら みんなで 足 ならそう


 安蘭が、歌詞を変えて歌う。思い切り床を踏み鳴らす。

 ダン ダン

「キャハハハー、ダン、ダン」

 相撲取りが、四股を踏むみたい。足を思い切り上げて、振り降ろす安蘭に、羅伊太も大喜びで真似をする。

 ダン ダン

「ほら、砂羽もやれ! 元気が出るぞ!」

「砂羽も、やれ! やれ! ダン ダン」

 私も、四股を踏む。でも、思い切りが悪い。

 思いきりが悪いと、四股を踏む姿もカッコ悪い。

 私は、カッコ悪い!

「うん。お父さんに……聞いてみる」

 腫れ物に触るように、父にさせていたのは、私だ。ふにゃふにゃして、思い切りが悪く、自分の気持ちを吐き出せない私に、誰も真実を伝えてはくれない。

 知らない真実が、きっとまだある。

 安蘭の家に泊まった。

「僕が、真ん中! 僕が、真ん中! はい、お父さんがこっちの手を握ってねえ。砂羽ちゃん、こっちの手。離さないのよ。みんなで、お手々繋いで、寝ーるーの!」

 真ん中に羅伊太を挟んで、手を繋ぐ。

 羅伊太は、安蘭のほうを見ては、ぎゃははと笑う。私を向いても、ぎゃははと笑う。

 ばたばたしていた羅伊太が静かになった。眠ったようだ。羅伊太と繋いだ手が、振り解かれた。

 私は必死に、汗ばんだ羅伊太の手を握る。

 向こう側には、安蘭がいる。安蘭もきっと、羅伊太の手を握っている。

 強くなりたい。小さな羅伊太の手を握り、思う。

 羅伊太と、その向こうに繋がる安蘭にも、貸せる肩を持ちたい。困難を超える、己の力が欲しい。

 目の前の、束の間の幸せに、甘んじてはいられない。

 明くる日、目覚めたばかりの羅伊太に、別れを告げる。

「また来るから。砂羽ちゃんね、お家に帰って、お父さんに聞かなきゃいけないことがあるの。羅伊太と楽しくしてると、聞く勇気がなくなっちゃうから。だから、きちんとお父さんとお話できたら、また来るから」

「砂羽ちゃん、帰っちゃうの? 砂羽ちゃんも、お父さんとお話するの?」

「そうだよ。また来るってさ。だから、今日はバイバイしようね。砂羽、また来いよな! 鱗太には、宜しく伝えて。でも、鱗太には……」

「解ってる。黙っとく。お兄ちゃんが、安蘭と向き合う問題なんでしょ? 安蘭とお兄ちゃんの関係は、私の出娑張るとこじゃない。余計な口は、挟まないよ。でも、もし……お兄ちゃんが弱っていたら、安蘭から手を差し伸べてあげて。お兄ちゃん、頼れる人、きっといない」

「そうね。さすが、砂羽。兄ちゃん子」

 私の向き合うのは、まだ、安蘭じゃない。

 買い物を済ませ、家に帰った。夕飯を作って、父を待つと決めた。

 ハンバーグとサラダ。サラダったって、レタスとキュウリとトマトだけ。

 いいんだ! シンプル イズ ベスト!

 私は、あんがいと、稚児ややこしい。サラダは、単純で扱い易いがいい。

 しまった! ドレッシングはあったっけ?

 冷蔵庫を開ける。

 あったよ。賞味期限ぎりぎりの、胡麻ドレッシング。

 買い物の前は、父の好物を作ろうと思った。でも、父の好物なんか、まるで知らなかった。

 父はいつも、私を優先し、兄を優先したから。自分の好きな物なんか、いつも後回しで、結局、出番はない。

「ただいまー。砂羽ちゃん、帰ってたんだね? 昨日は、友達のとこに泊まったんでしょ? 今日もその子と遊んで来るのかと思ってたよ。高校の友達?」

 安蘭と羅伊太といたとは伝えられない。

 嘘吐き、万歳? 違うよね。

 ごめんね、お父さん。安蘭や羅伊太については、後回しにさせてね。私の気持ちは、いつか、きちんと話すから。

 今は、ここから。

「早くに帰って来たんだ。お父さんと、どうしても話をしたくてさ。私、この前ね。仏壇屋のお爺さんと、会話する機会があってね」

 少し焦げたハンバーグを皿に盛り付け、食卓に運ぶ。

「おお? 夕飯、支度してくれたのかい? 砂羽ちゃん、ハンバーグ作れるの! サラダまである。ご馳走だな。こりゃあ、すごいなあ」 

 サラダも並ぶと、父は、大袈裟に喜ぶ。

「美味い。こりゃあ、上出来だ。父さんが今まで食べた、何より美味い」

 そんなはずねえだろ! 嘘も方便か?

 お世辞にしても、下手過ぎる。ずっと、料理を担当して来た兄がいたら、私のハンバーグごときで褒める父に、憤慨しただろう……

 違う!

 兄は、私が褒められれば、黙ってた。ずっと、自分より、私を優先してたから。

 父は、だいぶん、歯がぐらついている。むしゃむしゃ必死に食べる父の姿に、胸が痛む。

「ねえ……サラダ、無理に食べなくっていいよ。固いよね」

「なーに言ってんだよ。無理なんかしてない。新鮮で美味い! どこのドレッシングだ? 砂羽の作ったサラダに、実によく合う。美味いから食べてんだよ」

 いいんだって! レタスは千切って、キュウリとトマトは洗って切っただけ。ドレッシングは、冷蔵庫の隅で、もうすぐ、賞味期限が切れるのに、大人しく文句も言わず、黙って立ってた胡麻ドレッシングだよ。珍しくもなんともない。

「で、何? 仏壇屋がどうしたって?」

「ほら、駅の近くにあるでしょう?」

「ああ! あそこの親父も、くたびれて来ただろ? まだ、元気だったか?」

「お父さん、知ってるの?」

「知ってるってほどではないが、挨拶くらいするさ。こっちも長く住んでんだ。前をよく通るからね。で、何を話した?」

「お仏壇は、亡くなった人と話せる場所なんだって」

「まあ、そうだわなあ」

「どうして家には、お仏壇がないの? お父さんは、お母さんを愛していたのでしょう? 私を生んだために死んで、淋しかったでしょう? 会話する場所、欲しくなかったの?」

 父は一瞬、石となった。

 少しして、息を吹き返したかの父は、暫くじっと、俯いていた。それから、天井を仰ぐ。

 歯に挟まったレタスを気にする。指でレタスの筋を取ると、口に入れ、飲み込む。喉仏が、いかにも大変な所業を熟したかに、こくりと動く。

「そうか……そんなことが疑問に思えるほど、砂羽ちゃんも大人になったのか。ハンバーグより、驚いたよ。お茶、入れる」

 父は立ち、急須と、二つの湯呑みを盆に載せて戻って来た。

「いつか話そうと思っていたんだよ。そういう時が来たらって。〝そういう時〟がいつなのか、解らないものだよねえ。お父さん、ぐずだからさ。なかなか決心できないんだよ。でも、今がきっと、〝そういう時〟」

「構えなければ、できない話なんだ……」

「お母さん、死んでないんだ。生きてる、と、思う」

「へ?」

 

 ぱっぱか ぱっぱか ぱっぱか ぱっぱか


 幻の馬が、私の心の中を駆ける。

「ごめんな。ずっと嘘吐いてて」

 父がお茶を啜る。

 ずずー ぱっぱか ぱっぱか ぱっぱか か か か

「お母さんは、とっても自由な人だった。派手で、華やかで。社交的で、外出が大好きで、男性からはもてたねえ。人気者だった」

「私と、全然、違うね」

「華やかでもてもてのお母さんが、お父さんを好いてくれた。お父さん、そりゃあ、嬉しかった。お母さんはきっと、地味で真面目で一途な夫が一人、欲しかったんだろうよ。でも、真面目な面白味のない夫一人では、物足りなくもあった」

「はあ? 勝手だね! お母さんって、勝手な人だったの?」

「世間では、酷い妻だと思われるわなあ。でも、お父さんには、気儘に自由に、好き勝手に生きるお母さんは、ひたすら魅力的だった。大好きだったよ。いつの間にやらふらっと出て行く。帰って来ない。お父さんは、ただもう、淋しい。戻って来れば、もう、嬉しくて嬉しくて。戻って来ただけで、満足する」

「勝手なお母さんを、待つだけ? お父さんの愛し方は、一方通行じゃん!」

「そうねえ。ふらっといなくなるお母さんを、ひたすら待った。いつも。憎むことはなかったよ。砂羽ちゃんをお腹に身籠る前から、家にはいたりいなかったりのお母さんだった。お腹が大きく膨らんだら、家に戻って来た。『産むまで宜しく』って、しおらしく頭を下げた。それからは家にいた。この、家に」

 父は、今は私と座る部屋に、母を思い描いているようだった。

 父の顔は、恋をする人の顔だ。

 驚いた。見てはいけない物を見た気がした。

「なんて身勝手な!」

 強く母を否定すれば、唾が飛ぶ。

「掃除したり、食事作ったり……穏やかに、静かに暮らしてた。お父さんは、お母さんが側にいる日が、ずっと続くといいなって思った。お腹がどんどん大きくなるお母さんを、側で見ているだけで、幸せだった。でも、砂羽ちゃんが生まれて、少ししたら、奔放なお母さんは、もうどうにも、じっとしていられなくなったんだろう」

「生まれたばかりの私を置いて、出て行ったの? 考えられない! 悪魔だ! 極悪人だ!」

「いやいや、素敵な人だったんだよ。それからも、気が向くと戻って来る。それも、地方のお土産とか持って、にこにこして帰って来るんだよ。だけどねえ……お父さんも、さすがにくたびれちゃって」

「当たり前だよ! ずっと、振り回されてたんだね? 心も疲れるよ」

「次に帰って来たら、『鱗太と砂羽は育てるから、もう、堪忍してくれ。もう、家には戻らないでくれ。死んだことにするから』って頼もうと思ってた。そしたらね、ある日、ひょっこり帰って来て、玄関で靴を脱ごうとしてたお母さんに、鱗太が仁王立ちで、立ちはだかった」

「お兄ちゃんが?」

「そう。『あんたはもう要らない! 俺が砂羽ちゃんのお母さんになる! この家の敷居は、二度と跨ぐな!』 鱗太が叫んだ。お父さんも驚いたよ。お母さんに振り回されてくたびれていたのは、鱗太もだったんだね。お父さんは、お母さんときちんと話をした。離婚届に、判を突いてもらった」

 ぱっぱか ぱっぱか ぱっぱか か か か

「ぱおーん!」

「な、なんだよ、砂羽。驚くじゃないか。ぱおーんって、何?」

「象になってみた。驚いたから。吠えたのかな? 泣いたのかも。自分のままでは、泣けない時って、あるでしょ?」

「砂羽ちゃんって……なかなか、面白い発想する娘だったんだな……いやあ、意外だったわ」

 父が、普段は瞼の奥に隠れた瞳を引ん剝いて、仰天している。

 父も、あんまり私を知らない。

 心の中を走っていた馬は、誤作動を起こした。馬は、大きな象になり、鼻を高く擡げ、雄叫びを上げた。

 当然、生じる次なる疑問を、私は聞く必要がある。

「ねえ、お父さん。私のお父さんは……本当のお父さんなの?」

「砂羽ちゃん!」

 父の瞼から、目の玉が転がるかと思った。

「驚くことないよ。私は、大丈夫。自由奔放なお母さんだったのでしょ? だったら、お父さんは、お父さんじゃないかもしれないじゃん」

 父は、泣きそうな顔をした。

「お父さんは……そうだと信じてる」

 とても小さな声だった。こくりこくりと、自分を納得させるように、何度も頷いている。

 父も未だに、誤魔化し続け、逃げ続けている問題を抱えている。

 不幸のてんこ盛りの、安蘭の出自を聞いた後で良かった。

 違う!

 良くはない。でも、お陰で私は、父の告白に衝撃を受けなかった。

 人間、驚きが続くと、心臓にはぼうぼう、毛が生えるらしい。

 馬にも象にもなれる。

 すごい!

(もしもお父さんが、実のお父さんではなくても……実のお父さんがエイズってことは、きっとない)

 安蘭の身に起きた、数々の不幸な現実は、私にだって起こり得た。

 滅多に起こらない不幸の重なりは、たまたま安蘭の元に舞い降りた。

 かわいそうだなんて、安っぽい同情は、しないと決めた。

 ほんの少し、何かが変われば、私に舞い降りた不幸の連鎖。もし、私だったら、安っぽい同情なんか欲しくない。一緒に不座蹴ふざけて、大声で笑って、不幸を吹き飛ばして欲しい。

 だから、私は、大声で笑って、不幸を吹き飛ばそう!

 何も知らない不幸。何も知らない幸せ。誰かのために、秘密を背負う幸せ。誰かのために、嘘を吐く善意。善意を理解されない不幸。

 全ては紙一重。

 だから時に、善意は悪意へと変わる。愛は憎しみへと変わる。

 安蘭が兄に、羅伊太のことを勘違いさせたままでいるのは、善意なのか、悪意なのか。

 安蘭に似た、不幸な境遇を喜ぶ私は、善人ではない。悪人だ。

 悲しみの感情は、皆無だった。

 むしろ、出生の秘密を知った私は、浮足立った。

「私こそ、安蘭に選ばれし者!」

 私は、素晴らしい土産話を用意できたかに、さっそく安蘭の家へと向かった。


                                つづく

                

                          

 

 

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