第21話 父と語る
(動かなければ、喋らなければ、間違わない)
数日間、籠り人の真似事をした。
誰からも、電話も掛かって来なければ、心配のメールすらなかった。
この世にいなくても構わない人間なのだと、思い知る。誰からも必要とされない。誰からも、心配もされない。
「ねえ、お父さん。私、このところ、大学通っていないんだよ。知ってた?」
夕飯の時、父に尋ねた。
口にしてから、稚拙さに情けなかった。やっぱり、言葉は吐き出さないほうがいい。
「知ってた」
父は、眉一つ動かさなかった。さらりと乾いた唇から呟く。
「知ってて、なにも言わなかったの?」
父が、じっと私を見詰める。深い瞳の奥に、私への非難が見える。
父を初めて怖いと思った。
「砂羽。いつまで、お父さんやお兄ちゃんに叱られるのを待ってるの?」
「へ? 私が、叱られるのを待ってる?」
「お父さん、砂羽を不憫に思ってた。お母さんが、命懸けで砂羽を生んで死んだ、なんて嘘を吐いたのは、真実を砂羽なりに理解できるまで、相当掛かると思ったから。だけど、騙しているのだから、後ろめたさもあった。正しい判断だって、自分に言い聞かせて来た。間違っていたのかもしれない。ずっと、正解は解らない」
「私、騙していたのを、いまさら責めたりしないよ? お父さんが、私に責められるのを待ってるの?」
「うーん、そういう意味じゃない……砂羽にはきっと、お父さんの後ろめたさや、砂羽を不憫に思う複雑な感情が、伝わっていたのかなって。なにかあると、敏感に察した砂羽は、悪いと咎められそうな行為は、まるでしなかった。だから、叱る必要がなかった」
「そんないい子じゃないよ」
「そう。いい子じゃないんだ。無難を選ぼうとしてただけ」
愕然とした。
「人を苛めない。騙さない。咎めない。嘲らない。いいよ。立派だ。でも、
答えに窮す。
「どういうのを……鈍いからかな? どこまでが面白くて、どこからが笑えないのか、解らなかったからかな」
「ほらね! 砂羽は鈍いんじゃない。考え過ぎるんだよ。どこまでが巫山戯る行為で、笑える悪戯か。どこからが、人を怒らせる、酷い悪事となるのか。線はない。人それぞれ。する側とされる側の関係性にも因るだろう? 砂羽、苛められてただろ。中学の時」
父は、知っていたのか。
喉が、からからだった。
「知ってたの? ならどうして……」
「助けてくれ!って、砂羽が叫ばなかったからだよ! 砂羽はきっと、お父さんやお兄ちゃんを、困らせるはいけない。心配させてはいけない。怒らせてはいけない。って考えたんだろうね。なにか始める前から、先を必死で読む。顔色も読む。だけど、逆は起きない。誰も、砂羽の顔色を読んで、砂羽の望むようにはしてくれないよ」
私は、どっと嫌な汗を掻いた。汗は急激に引き、ぞくっと寒気に襲われた。
「私の言葉が少ないのは、顔色を読んで欲しかったからと? 間違えていたら、口にはしなくても、心の中で相手を責めれるから……言葉を発していない自分は、逃げれるもんね」
「怖いんだろうね。人付き合いが。お父さん、砂羽をもっと、のびのびと自由に育てたかった。例えば、一人でいきなりフランスに飛んでしまうような……とても驚いた。心配もした。だけど、嬉しかった。なんだか奇妙な喜びに包まれた。酷い目にさえ遭わなければ、失敗は、いくらでもやり直しが効くよ」
「お父さんは、私が自分から働きかけるの待っていたんだね? 喋らなければ、何も伝わらないのにも、自分で気付いて欲しかったのか」
「大学に行かないのは、悪いことに違いない。お父さんは気付いて叱るだろうか? 気付かないとしたら、私に無関心だからだろうか? 心配掛ける前に行くほうがいいか。行っていないと、知らせるべきか。一人でくよくよ考えるんだろうね、きっと。砂羽のための大学生活でしょ? お父さんが勧めたから、行く場所ではないよ」
「行かなくてもいいの? お金も掛かってるのに……」
「砂羽、いかにもお父さんに申し訳ないみたいなのは、ずるいよ。お父さんのために、大学に行くの? 違うだろ? 砂羽が行きたいなら、お金はなんとかする。でも、捨てるようなお金、お父さんは持ってないよ。もう続けたくないなら、堂々と辞めたら? むしろ、お父さんのせいにするな! 自分で選べよ!」
「解ってるよ。お父さんのせいになんかしないよ。自分で決めるよ。なに? 急に意地悪な言い
「ようやく険しい表情になったね。砂羽。心の中では違うことを考えているのに、お父さんやお兄ちゃんに嫌な思いをさせないために、言い合いを避けるために、へらっと表面だけ妙な笑顔を作って頷くのは、もうよさないか? 怒る時があっても、いいだろう?」
なんと、びっくり。
子泣き爺みたいに、張り付けた笑顔で笑っていたのは、私だったのか。
「お父さんの願いはね。ただ、砂羽の幸せ。長い人生、色々なことがあるだろう。いっつも幸せなわけがない。でも、砂羽には幸せになってもらいたいんだよ」
「そんな漠然とした希望を伝えられても……幸せになるのが、難しいじゃんか」
「お父さんの希望を叶えようとするな! 砂羽が幸せと思う人生を歩めばいい。ただね、一つだけは守って欲しい。死ぬな! 自分で選んだ道でも、苦しい時や間違ったと思う時には、必ず手を貸してやるから。助けを求めればいい。いいか、自分から、求めるんだ! 『助けて』って、叫ぶんだ!」
「解った。これからは、そうするよ」
「失敗を、間違いを、怖れるな。大丈夫だ。若い砂羽には、間違えてもやり直せるエネルギーがたくさんあるのだから。もっとのびのび生きてみろ!」
「明日から、大学に行くよ。大学が嫌になったわけじゃないんだ。動くと間違える気がしただけ」
「はあ? なんだそりゃ。砂羽を買い被ったか? ただの、おバカ娘か。まあ、それでもいいわ」
「本当は、大学を辞めて、働くのもいいかなって思った」
「そうか。働くのもいいぞ」
「だけど、やりたい仕事も見付からない。早くお金を稼ぎたいわけじゃあない。いっぱしの大人になりたい。なのに、勉強の意味も解らない。だから、大学生活にも身が入らない。大学生活に、楽しいもない」
「そうか。やっぱり砂羽は、考え過ぎか?」
「好きな人が……できたんだよ」
「そ、そうか。そりゃあ、できる。そういう年頃だ」
「好きな人を、守りたいと思った。好きな人もだけど……他にも、守りたい人がいる」
「そうかあ」
「でも、今の私では、頼りないみたい。その人の気持ちも解らない。守りたいなんて、
「ふふふっ。まあ……誰かを好きになると、そんなもんだろうよ」
「烏滸がましくて、独り善がりでも、力を持ちたい。なのに、思えば思うほど、間違えるのも怖い。だから、動けなくなった。どうやったら力が持てるか、解らない」
「そうかそうか。力を持ちたいねえ。あのなあ、いっぱしの大人ってのが、よう解らんが……大人と呼ばれる人たちも、非力だぞ。みんな弱い。人は弱い。だから、支え合う。強さを願う。そんなもんだ」
つーっと頬を涙が伝わる。
そうか。みんな非力か。
救われた。
「お父さん! もしも、もしも私が選んだ道が険しくても、反対しないで!」
「それは解らないよ。子供の選ぶ先が険しいと解っていて、諸手を上げて賛成する親はいないだろう?」
「険しいと解っていても、選ぶのよ! だから、応援して! それでね、なにかの時には力になって。私にもし、泣けちゃうくらい辛い現実が訪れたら、どうか、力になって。支えて」
「おい、砂羽⁉ 大丈夫か?」
「お願い。お願いします。予防線を張らないと、私、先へ進めない。私は意気地なしだもの。自信なんかない。だけど、進みたいんだよ」
言葉にしたら、自分の先が見え始めた。
私の選びたい道は、きっと、辛く苦しい道だ。後悔なんかしないとも、宣言できない。
それでも……
「砂羽。辛い未来が見える選択に、お父さんは賛成しない。お父さんだもの! 砂羽が苦しむのを望まない。でもね、辛い未来が見えるのに、砂羽がそれを選択したいってのはさ。辛さよりも大事なもの、辛さよりも幸せが、そこにあるって思うからじゃあないのか」
「きっとそう。きっとそうだけど、やっぱり怖いんだよ」
「何があっても、お父さんは砂羽の味方だよ。お父さんは、砂羽が転んだら、起き上がる手助けをしてやる。約束する。だから、砂羽はもう、転ぶのを恐れずに進めばいい」
父が笑った。
明くる日から、大学に通い始めた。
二時限目だった。
「今日は、まずは映像を見てもらいます」
講師は、スクリーンを下げ、室内は暗くなった。
映像が流れる。
オルガンと、演奏する若い女性。散らばる幼い子供たち。脇に佇む男性と女性。
音楽が流れ始めると、男性と女性は、にこやかな顔で、子供たちを手招きする。
「はーい、お歌の時間よー!」
「集まりましょーう」
「わーい」
手を 繋ごう
みーんなで 手を 繋ごう
ほうら ほうら 大きな お鍋が できました
子供たちが、オルガンの音楽に合わせて、踊り、歌う。
賑やかで楽し気な様子に、スクリーンに引き込まれる。
(なんの授業だっけ? なにを履修してたっけ? なんてぼんやり生きていたのだろう)
スクリーンに映る子供たちは、色取り取りである。
まっさきに手を繋ごうとする子。輪にならないで走り回る子。必死に棒立ちで歌う子。どうしたらいいのか解らずに、泣きそうな子。まるで構わず、座って折り紙を続ける子。
保育士らしい大人たちは、全員を輪の中に入れて、一緒に遊戯しながら、歌おうとする。
幾人かの子供の顔が、クローズアップされる。
輪を作り、一際大きな声で張り切って歌う、目の大きな男の子の顔が、画面いっぱいに映し出された。
「羅伊太!」
大きな声が飛び出た。暗い教室の中、数人が、声の主を探したようだった。
スクリーンは、羅伊太でいっぱいだ。両の頬を真っ赤にして、大きな口を開けて、身体全部で踊って歌っている。
あーかい きんぎょー
ひら ひら ひら
おー池の 中でー おーよいでーるー
スクリーンに映される子供は、次々変わった。
でも、私の中ではずっと、羅伊太の姿と歌声がリピートされる。
赤い 金魚
ひら ひら ひら
お池の中で 泳いでる
愛羅を思い出していた。
いつか愛羅は、赤い金魚模様のパジャマを着ていた。
「どこのブランド?」
「これ? 霜降銀座ブランド」
私の問いに、愛羅は答えた。
「そんなブランド、あるの?」
真剣に聞く私に愛羅は答える。
「砂羽って、バッカじゃなーい? ほら、よくあるじゃん。○○銀座って商店街。おばちゃんとか、おばあちゃんとか、好きじゃんか。私もあんがい好きー。若者だけど! びっくりする物、たまにあるよ。超面白い物を見付けると、一人で吹き出す。このパジャマ、可愛いでしょう? 一目見て、気に入ったの。今度、一緒に行く? なに銀座にする?」
〝ばっかじゃなーい〟は、私だけの口癖じゃ、なかったんだ。
妙なことを思い出した。
涙が溢れた。
話には、続きがあった。
「ねえ、実は、鱗ちゃんとお揃いで買ったんだよ、このパジャマ。砂羽ちゃんが遊びに来てる時は、絶対着ないけど……鱗ちゃん、普段は、着てくれるんだよ!」
愛羅は、嬉しそうに、恥ずかしそうに、口にした。
兄が、真っ赤な金魚がひらひら飛び交う、白地のパジャマを着る? とても想像できなかった。
「うっそだー」
否定すると、愛羅は、ぶすっと膨れた。
「嘘じゃないんだって! 実は私も、着てくれるとは思わなかったんだよ。でも、売られてる時、男女のペアみたく、大小並べて売られてたのね、霜降り銀座に。2セット買えば、割安だったし。なんだかどうしても、ペアで買いたくなっちゃったの!」
「ふうん。ねえ、それって、親子用じゃあないの?」
「はあ? 違うよ! 失礼だなあ、砂羽は!
「へえ、なんか……お兄ちゃんが着てるなら、見たい! お兄ちゃんってカッコつけだから、可愛いのなんか、着なかったもん。ちょっとー、見たいー! 内緒で、写真撮って、見せて! ねえ、隠し撮りしてよ!」
後日、真っ赤な金魚模様のパジャマを着た兄の姿が、愛羅のスマートホンに収まっていた。
二つのパジャマは、少しばかり模様が違った。
愛羅の着ていた物は、赤い大きな金魚と、黄色い小さな金魚の模様に、水色の線が入る。兄のは、赤い大きな金魚と、小さな青い金魚の模様に、黄色の線が入る。
手足の長い兄に、パジャマの丈は、少しばかり短かった。ズボンは、
金魚の散りばめられた寸足らずパジャマ姿は、なんとも可愛らしく滑稽で、笑える。
兄は、カメラを見てはいなかった。俯き加減に、斜めを向く。でも、カメラを向ける愛羅を、拒んではいない。俯き加減の兄は、照れたように頬を染め、俯いているのに、地味に金魚の真似をする。
真っ赤な金魚の似合う、幸せそうな、あどけなく無防備な顔をしていた。
カメラを向けても照れない羅伊太とは対照的だけれど、兄と羅伊太は、父と子だ。羅伊太は、兄と愛羅が愛し合い、授かった、兄の子供だ。いつまでも、勘違いさせていてはいけない。
流れる映像が終わったらしい。教室の電気が点いた。
「はい、では、今の映像を元に、講義を始めます」
なんの授業だったか、ようやく思い出す。児童心理学だ。保育士の資格を取る学生には、必修科目らしい。
運命的なものに、感動した。
難しく考え過ぎないが、きっといいんだよ。
「私、保育士になる!」
最高に、いい!
仕事は、保育士にしよう。
つづく
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