第12話 荒唐無稽か真実か
飛行機が離陸する。高度を上げる。地球が離れる。
人生観は、変わる。
大きな建造物も、流れる高速道路も、その上を走る車も、見る間に小さくなる。
人なんかなおさらだ。
空から見下ろせば、まるで蟻んこだ。他より少し
なのに、地上に降り立てば、〝自分〟は一人しかいない。誰にとっても、〝自分〟って、一人だけ。〝自分〟以外は、みんな他人。
大差ないはずなのに、全然解り合えない。
派手に転んで恥ずかしいのは、自分だけ。苛められて辛いのは、自分だけ。
自分は一人しかいないのだから、同じように感じてくれる人がいないのは、しかたないんだよ。
それぞれが、泣いたり、笑ったり、悩んだり、苦しんだり……一人で勝手に、大変だ。しかたないんだよ。
でも、孤独にも耐えられない。弱い生き物だから。
分かち合える人を、探す。
みんなそれぞれが、勝手に探して、求めて……
時に、やっと見付けたって思うんじゃないかな。親友だとか、恋人だとか、夫婦だとかの言葉で確認して、安心する。
やっと見付けたって思っても、違う人間だから、気持ちの大きさや重さは、やっぱりきっと、違う。
自分は、一人しかいないって覚悟すれば、先の人生は、少しはましかもしれない。
なんだか手一杯になったら、自分に言い聞かせるんだ。
「所詮、私は、ぐちゃぐちゃに存在する、蟻んこみたいなちっぽけな生き物の中の一匹なんだよ。私がどうしようが、誰も気にしちゃいない。仮に死んだって、一匹の死。大したことない。私の死を一番悼めるのは、〝自分〟である私だけ。だから私は、〝自分〟を好きになる。自分の好きな自分を見付ける。それこそ、一番信頼できる」
エコノミークラスの座席で、やけに伸びやかな気分だった。
機内食とジュースで、こっそり祝杯を上げた。
飛行機は、シャルルドゴール空港に着陸した。
「砂羽ちゃん? 砂羽ちゃんだね? よく来たねえ。楽しみにしていたよ」
「ボンジュール、砂羽! よく、遠くから訪ねて来てくれたわ。嬉しいわぁ。まるで、娘が……会いに来てくれたみたい。本当に嬉しい」
まるで娘のように、喜んで出迎えてくれる、愛羅のパパとママの姿を見付けた時は、涙が出た。
やっぱりかなり、緊張していたのだろう。
でも同時に、大きな不安が首を擡げる。羅伊太の姿がない。
口に出して聞けば、不安は現実になる。
「砂羽ちゃんが私達の行方を探してるって、ジャックから連絡が来た時は、驚いたわよ。だって、鱗太さんは、知ってたはずよ? 引っ越しする時には、必ず連絡するって約束していたし。鱗太さんはお元気?」
「ああ、ええっと、元気だと思います。実は、最近会ってなくって。どうしているのか、よく、知らないんです」
「あら……そう。砂羽ちゃんは? どうしていたの? 大学を受験するって言ってたわね?」
「合格しました。四月からは大学生です」
お喋りしながら、駐車場まで歩く。
「さあ、乗って」
愛羅のパパが、後部座席のドアを開けてくれた。流線型の、艶やかで美しい、まるでクジラみたいな大きな自動車だった。
愛羅のパパの、紳士的な振る舞いに促されて、後部座席に乗り込む。
「うわー! なんか、凄い。ふかふかで、艶々。高級感、半端ない」
相当高級な車なのだろう。車に疎くても、そのくらい解る。
革張りに木目の家具調の内装。ふかふかのシート。細部まで手の込んだ造り。普通は備わっていないだろう、テレビや冷蔵庫。素晴らしい。
革張りのシートに腰を下ろし、シートベルトを締める。
車が走り始めてすぐに、シートベルトの存在に感謝した。
高級な革のシートは、あんがいと滑る。痩せた私のお尻は、ベルトのお陰で、なんとか多少、左右にずるずる滑るだけに収まった。
(こんな車に乗れるなんて……愛羅のパパとママって、やっぱ桁外れのお金持ちなんだよ)
確信した。桁外れがどれくらいかは、知らないけれど。
「フランスでは、アパルトマン暮らしなの。ほら、私達、渡り鳥生活だから」
「そうね。フランスではメゾンにしなかったね。家賃も高いしねえ」
(家賃は気にするんだ。アパルトマン? 日本のアパートみたいなもの? 自動車を高級にした分、家をケチったのか? 質素で粗末な住まいなら、慣れたものよ。驚かない)
浅はかだった。アパルトマンも、十分に豪勢だった。
建物のエントランスから、大理石みたいな石が敷き詰められている。中央に絨毯の敷かれた階段を数段上がると、木製の立派な扉が、眼前に聳え立つ。
(これが玄関?)
無駄なものが、何もない。
兄のアパートを思い出す。
剥き出しの階段。連なる部屋部屋。
郵便受けの幾つかは、チラシや手紙が差しっ放しである。
階段を上れば、大抵の部屋の室の前に、洗濯機が設置されている。新品のもあれば、かなりの年季物もある。
子供用の自転車と三輪車が置かれる室。
どの室も、部屋の住人を彩る雑多な物の間に、部屋の入り口が存在していた。
大理石の壁に嵌った扉。ただそれだけ。それが、愛羅のパパとママの家への入り口。
生活臭は、まるでない。
中に入る。大理石の床が続く。
玄関だけど、靴は脱がない。さすがフランス。
正面は、一面がガラス張りである。その奥には、どうやら広いリビングが見える。
ガラス張りの一か所が、押して開くガラス戸になっている。なんてお洒落。でも、そそっかしい人は、ガラスを忘れて、体当たりしそうだ。
愛羅のパパが、ガラス戸を開ける。私は続く。
三十畳はあるだろう。大きなソファーセットと、大きなテーブル、立派なアンティーク調の飾り棚が置かれている。暖炉まである。
リビングの一番奥に、懐かしい顔があった。
愛羅だ。
お洒落だった愛羅に相応しい、彫刻の施された大きな額縁に、屈託のない笑顔の写真となって、収まっていた。
私の知る、最初の頃の愛羅だ。
写真の横に置かれた、白い陶器の壺に、目は釘付けになる。
驚いた。白い陶器の壺を、再びフランスで目にするとは、思っていなかった。
「え? あの壺って……愛羅の……」
「そうよ。愛羅のお骨。愛羅の葬儀をしてくれたのは、鱗太さん。鱗太さんは、立派な愛羅の旦那様。だから、愛羅のお骨は当然、鱗太さんの好きなようにするんだと思ってた。でも……鱗太さんはそんな資格がないって。愛羅はきっと、ずっと鱗太さんの側にいたかったわよね。でも、鱗太さんは、なにかに迷ってるみたいだったのよ」
愛羅のママの言葉を、愛羅のパパが遮る。
「ねえ、砂羽ちゃん。人生って、一回きりだろう? どうやっても、色んな人生は歩めない。一度の人生で、出来得る全てをする。小父さんは、そのスタイルで生きて来た。愛羅はね、鱗太君と歩む人生を、自分の一回きりに選んだ。だけど勝手にリタイアした。勝手にリタイアされた鱗太君に、死後の愛羅の面倒まで見させるのは、違うのかなって思ってね」
「あまりに早い死だったから……私も、お墓になんか入れないで、暫く一緒にいたいなって思ったの」
「私達がね、暫く預かるって形にしたつもりだよ。愛羅は、好きに生きた。わりと幼い時から、私達とは関係なく、好きに生きた。それでいい。ただね、娘として、私達にべったり甘える時期は、とても少なかった。だから今、愛羅も、私達の人生の旅に同行させている。可愛く幼い娘に戻ってね」
「愛羅って、勝手気儘だったでしょう? でもね、親に甘えるってのは、あんまりなかったの。暫くは、甘えるだけの娘に戻らせたいの。骨と写真になっちゃったけど。でもね……愛羅がここで、私の膝を枕に、寝っ転がったりしている気がするの。私とパパの間で、飛び回って遊んでるのよ」
「鱗太君が、愛羅のお墓とか、お骨とか……『やっぱり自分がなんとかしたい!』って時が来たら、いつでもお返しするよ」
兄も、愛羅の両親も、複雑な感情を抱えていたと知った。
身内が死ぬと、残された人は、色々大変なんだ。自殺なんか企てる奴は、自分ばっか大変だって思い込んで、そんなことには、考えも及ばない。
広いリビングは、静か過ぎる。
私の不安は、確信に近付く。
ずっと聞けずにいた。ようやく言葉になる。
「あの……それで、羅伊太は? ここにいないのは、どうして?」
二人は顔を曇らせ、しばらく黙って見詰め合っていた。
愛羅のパパが、ママに向かって小さく頷く。
必死で作った笑顔で、愛羅のパパは私を見る。
酷い笑顔だ。作らないほうが、まだましだ。
「羅伊太は、ここにはいない」
解っていたさ。子泣き爺にはまるで似ていない、愛羅のパパよ。
羅伊太がいないって声を、遠くに聞いた。
「ここにいないって……どこにいるの? どこにやったの? 今度は、どこにあげちゃったの?」
「羅伊太は、羅伊太のお父さんといるよ」
「??? あの……羅伊太はお兄ちゃんの所に戻ったの?」
羅伊太のお父さんは、兄だ。兄のはずだけど。
「……違うんだ」
違う? どういうこと?
日本からフランスまで、初めて乗った飛行機で、運ばれて来たばっかなんだぞ。
時差ぼけすら始まらないくらい、アドレナリンだかドーパミンだか知らないけれど、変な物質が、頭の中から噴出してるに違いないんだぞ。
羅伊太のお父さんが、兄ではないだあ?
ふっざけんな!
眩暈がした。吐き気がし始めた。
「ううう、なんだか気持ちが悪い」
「大丈夫? やっぱり砂羽ちゃんは、なにも知らなかったのね?」
愛羅のママが、私の脇に腰掛けて、そっと背中を擦ってくれる。
「ごめんなさいね。こっちに来るって聞いた時に、羅伊太に会いたいからって言ってたでしょう? 聞き間違いかと思ったの。まさか砂羽ちゃんが、鱗太さんから知らされてないとは思わなかった」
「僕達ねえ、砂羽ちゃんが僕達を訪ねてくれるって聞いて、すごく喜んでいたんだ。羅伊太はいないよって一言で、砂羽ちゃんが計画を中止するのが、淋しかったんだよ。だから、羅伊太のことを話さなかった。ずるかったね。申し訳ない」
潔く謝んなよ。許すしかねーだろ!
異国に来たせいか、時々、
「私はてっきり、ここで羅伊太が、幸せに成長を遂げていると思ってました」
「本当に、ごめんなさい」
「あの……さっき、小父さん、お兄ちゃんの所でもないって……私はいっつも、なんにも知らされないんです。父も兄も、私に母がいないことを、いつまでも不憫に思って……小さな子供みたいにしか扱わない。
ああ。柄の悪い私は、あんがい性に合ってる。
「砂羽ちゃん、落ち着いて! 羅伊太の件については、僕達も、詳しく聞かされてないんだ。今だって、よく解らない」
「よく解らない? ねえ、どういうこと?」
「羅伊太のお父さんは、つまりその……鱗太君ではないらしい」
「へ?」
脳が、こんがらがった糸屑みたいになった。ぐっちゃぐちゃ。
「羅伊太、愛羅の子だよ? お兄ちゃんが、羅伊太のお父さんじゃない? へ? なら羅伊太は……誰の子? え? えええ? 羅伊太、どこに行っちゃったのよ!」
「ねえ、私達から話しても、いいものなの?」
背中を擦りながら、愛羅のママは、愛羅のパパの顔を見る。
「ここまで来た砂羽ちゃんに、私達が知ってることくらい、話すべきだろう? 砂羽ちゃんの不満も解るよ。いつまでも子供ではいられないのに。本人は、子供扱いに傷付いているのに」
「そうね……まあ、だいたい、愛羅がいけないのよ……違うかしら。放任主義だった私達のせい?」
ぐっちゃぐちゃになった脳味噌は、冷静に話を聞けなくなっていた。
愛羅のパパに聞かされた話のほとんどは、私の右の耳から入って、頭の中を素通りし、左の耳から出た。
でも、その名前だけは、私の鼓膜を突き破り、脳から身体中を駆け巡った。最後にしっかり、ぐっさり心に突き刺さった。
「……で、結局今は、安蘭君が一人で育ててる。愛羅が亡くなってから、羅伊太が私達の所にいたのは、ほんの数か月だよ」
「安蘭? 和賀井安蘭? 和賀井安蘭が、お父さんなの? 鱗太のお父さんが、安蘭だって?」
「……なんとも……申し訳ない。愛羅がどんなつもりだったか、解らないんだ。こちらもまるで、寝耳に水で……」
「ないよ! そんなはず、ないって。おかしいよ!」
大きな声で否定したかった。
でも、眩暈も吐き気もますます酷くて、小さな掠れ声しか出なかった。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます