第13話 気付けば一人、蚊に刺されない蚊帳の中

 安蘭が羅伊太の父親? ありえなーい! 

 考えてもみてよ。

 愛羅とお兄ちゃんと、三人でしょっちゅう遊んでた。安蘭の存在など、ないも同然だったのよ。

 確かに、二十四時間、いつでもどこでも、愛羅やお兄ちゃんと一緒にいたわけではないよ。

 だけど、四六時中、お兄ちゃんの家に入り浸っていたのだから。

 安蘭が愛羅の周りをうろうろしてたら、鈍い私でも、気付きそうなもんじゃん。

 だいたい、安蘭は、お兄ちゃんの親友なんだよ。

 いや、待てよ。

 愛羅の様子がおかしくなってからは……私、お兄ちゃんや愛羅から遠退いてたじゃん!

 愛羅の様子が? おかしく? 

 あれは、妊娠したせいだよ。妊娠してからだよ。

 ええ? 

 妊娠したせい? 妊娠って……相手が、お兄ちゃんじゃなかった? だからおかしくなったの? 

 あれ? 

 私だけが、知らなかったのだろうか。可能性はある。私はいつだって、一人子供。蚊帳の外。複雑な事情は知らされない。

 まさか、まさか、まさか……でも……

 一人問答が続く。

 複雑な推理小説を与えられたみたい。推理小説だったら楽しいよ。頑張って推理したよ。

 現実に与えられた謎は、解いたらいいのかさえも解らない。

「意味が解らない。愛羅のパパとママなら、知ってるでしょ? 愛羅は不埒な娘じゃないよ! 愛羅、純粋にお兄ちゃんにぞっこんだったもん。愛羅はお兄ちゃんを裏切らないよ! 安蘭が父親だって告白したの? あいつ、いい加減な男なんだよ。信用しないほうがいいよ」

 ふっと、いつかのキスを思い出す。甘い思い出だったのに。

 糞ったれ! 不埒は安蘭か。

「鱗太君が、安蘭君が父親だって言ったんだ」

 天井が周り、頭の中で星が瞬いた。

「僕等は、愛羅と鱗太君がどういう夫婦だったのかまで、知らないよ。僕等は、だいたいが放任主義の親だ。愛羅が選んだ相手なら、それで良かった。愛羅が結婚するのだから。どこを好きになったとか、なにを好きになったとか、聞く必要もない。でもね、鱗太君の話を聞かせてくれる愛羅は、キラキラしていたよ」

「〝ぞっこん〟って、砂羽ちゃん、なかなか面白い日本語使うのね。いいわあ。愛羅にぴったり。そうよ、愛羅は鱗太さんにぞっこんだったわ」

 私の背中を擦りながら、愛羅のママが、私の顔を覘き込んだ。

「私はさ。まだ恋を知らないよ、きっと。だけど、愛羅のお兄ちゃんへの気持ちは、一途で素敵だった。見てれば解った。なのに……」

「好きになり過ぎたのじゃない?」

 愛羅のママが、私の目を見る。

「好きになり過ぎるって……好きになる気持ちに、過ぎるってある? 精一杯好きになるのは、いけないこと?」

「夢中になれば、人は時に間違える。愛羅も、鱗太君の自分への気持ちに、疑念を抱いたのかもね。勝手に好きになっといて、相手に過剰に期待する。時に、愛情が恨みに変わったりするでしょう? 人はね、誰かをあまりにも好きになると、相手の気持ちが物足りなく感じるものだよ」

 愛羅のママが、突然叫んだ。

「私は狂おしいほどにあなたが好きなのに! あなたにも、狂うほどに私を愛して欲しいのに! あなたはどうして、そんなに冷めた目で私を見るの? どうしてそんなに無関心なの! 私を愛してはいないのね!」

 驚いた。愛羅がそこにいるみたいだった。愛羅のママに、愛羅が重なる。

「やめなさいよ、ママ。砂羽ちゃんが、驚いてるでしょう。この人、昔、演劇部に所属してたんだって。演じるのが大好きらしい。今でもときどき、突然なにかが憑依するのよ。今のは、確実に愛羅だね」

 愛羅のパパが、呆れたような顔で解説する。

「愛羅の女優癖じょゆうへきって……小母さんの癖だったんだ」

「へ? 愛羅の女優癖?」

「愛羅にもときどき出た症状だよ。今の小母さんみたいの。一人芝居。突然なにかが降りて来るんじゃない? 急に演じ始める。『どこの誰?』って聞きたくなるけど、たいていは、口を開けて眺めてた」

 愛羅のパパが、淋しそうに力なく笑う。

「ああ。愛羅も、小さい頃からそうだったねえ。思い出したわ。脱線したけど、誰かに夢中になると、ママが叫んだみたいな気分にもなるって話でね。心は秤に掛けられる物じゃない。どっちが上も下も、深いも浅いも、本当はない。だのに、求めるんだよ。愛情を。自分が与えただけ、欲しいって」

 愛羅のママが、私の肩を、とんとんと軽く叩いた。

「勝手な生き物なのよ。所詮、人間は! 理性とか理屈とか、夢中になればどっかに吹っ飛んじゃう。もっと深く人を愛せれば、きっと、相手の幸せだけを、ただ願えるのに。なかなか人間、その粋まで達しないのよ。愛羅も、初めて鱗太さんを真剣に好きになって、きっと悩んだり苦しんだりしたのよ」

「お兄ちゃんだって、愛羅を好きだったよ! いい夫婦だったよ」

 いい夫婦だった?

 そんな風に思ってた?

 思ってたよ。愛羅のパパとママの前で、主張できるのは私だけなんだよ。

 ちらっと、愛羅の笑った写真に目が行く。

 糞ったれ! 愛羅の野郎! 死んじまいやがって! 自分勝手に、好き放題に、喋る奴だったのに。

 今、喋れよ! 愛羅はいったい、なにを思っていたんだよ!

「そうか……ならきっと、愛羅が好かれていないとでも、勘違いしたのか……もう、尋ねられないから。本当のところは、決して解らないよ」

 ほら! 本当のところ、どうだったのさ!

「私達も悪かったの。愛羅が、自分から命を絶ったでしょう? 理由があったのは、確かよ。解らないのだから、決して鱗太さんを責めてはいけないと思っていたの。なのに、顔を見たら、鱗太さんを責めてた。『愛羅が死を選んだのは、あなたが愛羅を大事にしなかったせいだ!』ってね」

「僕も、ママと一緒になって責めた。幼い羅伊太を残して死ぬなんて、よっぽどのことがあったからだろうって。鱗太君は、ちゃんと愛羅を見ていたのかって。そうしたら、鱗太君がぶるぶる震え始めて……それでもしばらく、口を噤んでいた。でも」

「『僕は愛羅を大事にしてたさ! 愛羅が僕を裏切っていたんだ! 羅伊太は、羅伊太はな、僕の息子じゃなかったんだぞ!』って、怖い顔して、叫んだの」

 恐ろしい顔の兄が、吠える姿が目に浮かぶ。

 涙が出そうになった。

「あの時の僕は、いけなかったねえ。鱗太君の言葉に、突拍子もない嘘を吐き始めたって、更になじった。『まだまだ大人気ないねえ。腹が立ったからって、冗談で口にしていいことと悪いことがあるぞ! 娘を侮辱して』ってね」

 いつも冷静沈着だった兄。私のお母さん役を、完璧に熟していた兄。背も高い兄。

 だけど実際は、小さな兄だった。いつも頑張って、虚勢を張ってばかりいたんだ。

 愛羅が死んで、一番辛かったのは、兄に違いないのだから。

 頭の中に見えた星達が、花火のように大きく開いて、散って行く。

 ドンッ パパパーン ドンッ パパパーン

 知らないって、罪かもしれない。私は一人、呑気でいたものだ。

「鱗太さんも、頭に来たのでしょうね。本当は、黙っているつもりだったのかも。堪え切れなくなったのよ。『羅伊太の父親は、和賀井安蘭って、僕の親友です。僕との関係に、愛羅が悩みを抱えていたとしても、愛羅は……よりにもよって、僕の親友と……』怒りなのか悲しみなのか、言葉を詰まらせてたわ」

「こちらも、直ぐに信用したわけじゃない。愛羅を悪者にされてたまるかってとこもあったさ。安蘭君の名前なんか、愛羅から聞いたこともなかったし。鱗太君の親友なら、相談相手になってもらったとしても、不思議ではない。だからって、情を交わすとは……僕等も頭の中、パニックよ」

「愛羅が死んで、私達、気が狂いそうだったのよ。受け止められなくて。羅伊太のことも、預かったはいいけど、なんだか現実とは思えなくて。不安ばかりで。そこに、父親が鱗太さんじゃないって聞かされて、まさにパニックよ」

「今思えば、兄はだから、羅伊太を小父さんと小母さんに預けたのね? 自分の子ではなかったから」

「きっとそうね。でも、私達にしてみたら、寝耳に水。簡単に、『あら、そうだったの!』では済まないでしょうよ。でも鱗太さんこそ、相当傷ついていたのよね。『僕を信用できないなら、どうぞ安蘭に会って、聞いてください。僕だって、嘘であって欲しかったんだ!』って。涙ながらに訴えられて、私達、安蘭さんに会ったのよ」

「安蘭君は、不思議な感じのする青年だね。どこか、人を寄せ付けない、ミステリアスな感じがする。僕等は、かなり取り乱していた。だけど、安蘭君は静かに、『鱗太は羅伊太を、僕の子だと言いましたか? だったら、確かです。僕の子です』って。ただそれだけ」

「安蘭は、羅伊太を自分の子だと認めたの?」

「なんだか不思議なくらい、あっさり認めた。腹を括ったって感じだった。DNA鑑定も考えたんだよ。だけど、安蘭君がさ……」

 愛羅のパパが口籠る。

 愛羅のママに、どうやら突然、安蘭が憑依した。

 深い色の瞳で前を見詰める。すっくとソファーから立ち上がる。

 さすが、元、演劇部。安蘭にそっくり。

「『羅伊太は愛羅さんの子供。それは確かなのに。なぜあなた方は、羅伊太の父親が誰かで、あたふたしてみえるのですか? 羅伊太は厄介者ですか? 大丈夫です。愛羅に捨てられ、鱗太に捨てられた羅伊太は、僕が大事に育てますから。僕が、父親ですから』はっきりしてたわあ。怖かった! 私達をも、責めていた」

「それで、安蘭が羅伊太を引き取ったの? 小父さんと小母さんは、それで良かったの? よく知らない安蘭に、羅伊太を取られて。羅伊太は、大事な孫でしょうに」

 納得いかない。

 糞ったれだ! どいつもこいつも。

 安蘭が不埒だとして、だけど、安蘭の言う通りじゃあないか! 

 私も、糞ったれだな。

 蚊帳の外にいて、いつも呑気。

 いや、待てよ。

 むしろ、私だけいつも、蚊帳の中。

 みんな、蚊に刺されながら、蚊と戦って生きてるのに、私は、蚊の入れない蚊帳の中。みんなに守られて、蚊帳の中。

「怖かったんだよ、安蘭君。有無を言わせぬ、強さがあった。引き取らせて欲しいと最後は深々と頭を下げた」

 愛羅のママが、また、安蘭になった。

「『僕だって、この先、色々あるだろうから、いつまで羅伊太を育てられるかは解りません。でも僕は、決して命を粗末にはしません。命ある限り、羅伊太の父として、責任を持ちます。僕に、育てさせて下さい』」

「そうそう。ママ、安蘭君にそっくりだよ。僕達は、愛羅のことも、しっかり皮肉られた。でも、感服した。実に立派だった」

 愛羅のママから、安蘭が抜けた。

 途端に、愛羅のママはがくりとソファーに崩れ落ち、泣き出した。

「羅伊太を手放したくはなかったわ。でも……安蘭君って、私達よりももっと、羅伊太を必要としている気がしたの。立派だったのよ。確かに。毅然としてて。でもねえ……どう言い表したらいいのかしら。安蘭君って、誰も寄せ付けない強さがあるのに、自分で選んだ孤独に潰れそうって言うのか……誰かをとても必要としていた」

「そう、そうね。なんだか僕も、安蘭君に圧倒された。強さだけじゃない。むしろ弱さかもね」

 複雑だ。

 兄も安蘭も、弱いから、強い? 小さいから、大きい? 虚勢を張り、精一杯生きているの?

 みんな一体、なにを思ってるの?

 私も、蚊帳の中に入れて!

 違った。

 私もそろそろ、蚊帳の外で、蚊に刺されながら、生きなけりゃあいけない。

                              

                                つづく

 


 

 




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る