第9話 夜中の遊園地

 (お兄ちゃん、この先、羅伊太を育てて行かれるのかな……)

 私は呑気に、漠然と心配をしていた。

 私の与り知らないところで、羅伊太の〝この先〟は、話がまとまっていた。

 愛羅の葬儀の後、何日かして、愛羅の両親がマダガスカル島から帰国した。私のいない時に、兄と父と話をした。

 私が知ったのは、羅伊太が兄の家から消えてからだった。

 さすがに憤慨した。

「酷過ぎる! 何で? 羅伊太は、私の、たった一人の甥っ子だよ! どうして私には、なんの相談もないの?」

 いっつもだ。いつだって、大事なことは、私には知らされないままに決まる。進む。

 私だって、いつまでも子供じゃない。

 まだ子供だとしても、意思だって感情だって持つ。

 可愛い羅伊太の姿まで消えた。発狂しそうだった。

「仕方ないじゃないか。兄ちゃん一人で、羅伊太を育てられないよ」

「だったら、私だって協力できたのに! どうして……」

 兄が卓袱台を、ドンッ、っと叩いた。私の言葉は遮られた。

 兄が辛そうに、声を絞り出す。

「お前なんかに、なにができる! 今迄だって、砂羽はずっと、兄ちゃんが……兄ちゃんが……」

 兄に叫んでやりたかった。

(いっつも偉そうに! 私が生きて来られたのは、お兄ちゃんのお陰って、そればっかりを主張する! 私だって、色々と一人で苦しんで来たんだよ! お兄ちゃんになんか、本当に苦しい時は、なにも話せなかった! 心配掛けちゃいけないって思わせる! 圧を掛けんなよ! 「砂羽はお兄ちゃんが守る」って態度が重てえんだよ!)

 腹の底から全てを吐き出したい。心の中では、吐き出せない思いが、どろどろと大きなとぐろを巻く。噴火できない火山の、マグマみたいだ。

 だけど私は、煮え繰り返る怒りを、噴火させない。

 思いの丈を吐き出す前に、ああ、でもきっと、兄の言う通りなのだと収める。私は、手が掛かるだけの子供なのだと、黙って俯く。

 兄や父の、保護の袋の中にいるには、大人しいがいい。

「砂羽は悪くない。なにも悪くない。仕方がないんだよ。兄ちゃんは非力だから。もう……なにも言うな!」

 卓袱台の上に置かれた、兄の拳が震えている。

(お兄ちゃんは、非力なのか……)

 兄も、辛そうだった。私のお母さん役はできたのに、羅伊太のお母さん役は、無理だったのだろうか。

「羅伊太は、愛羅の両親が育ててくれる。愛羅の実家は裕福だし、羅伊太のためにも、それがいいんだよ」

「……うん。そうだね。それがいいんだね。裕福だもんね」

 思ってもいない言葉が出る。

 私はいつも、嘘つきだ。

「別に、羅伊太を取られたわけじゃない。こちらからお願いしたんだから。兄ちゃんダメな人間だからさ。とても育てられないと思った。砂羽は、羅伊太に会いたくなったら、いつでも会いに行けばいい。いつでも会えるさ。また、直ぐに会える!」

 兄は私に、羅伊太には会えると強調する。

 でも、力説して強調する場合って、案外その通りにはならないものだよ。

 残念ながら、私はすでに、人生そんなもんだと悟っていた。

 だいたい、愛羅の両親ってのは、マダガスカル島にいたり、ノルウェーにいたりする人達だ。時にはエジプト、時には台湾だったりするんだぞ。いったいどこへ行けば、私は羅伊太に会えるんだ。飛行機にも乗ったことがないのに。

 愛羅が死んだ。

 羅伊太はいなくなった。

 空虚は無限大で、私の現実感は失せた。なんだか、生きている感覚がなかった。

 私は少しずつ、失うことに慣れたのだろうか。辛いのにも、慣れたのだろうか。

 愛羅に訪問を拒まれた夏休みほど、苦しいとも思わなかった。毎日、高校へ行った。暇だと余計なことを考えるから、バイトをタイトに入れた。

 隙間の時間に、兄と安蘭と遊んだ。

 安蘭は、私にとって、謎の男だった。

 私をよく知るがわに立つ、安蘭はいい。記憶にないがわの私は、やけに馴れ馴れしくされても、戸惑うばかりだった。

 だけど、愛羅と羅伊太のいなくなった空虚を、安蘭が埋めてくれたのは、確かだった。

「おい、砂羽。起きてたか? 今から安蘭と会うんだ。お前も、出て来いよ。親父には、出掛けるってちゃんと伝えろよ! 砂羽が夜中にいなかったら、親父、泣いて警察に電話しちゃうからな」

 愛羅の死から、一月ほど経った頃だったか。兄から電話が掛かって来た。

「こんな夜中に? どこに行くの?」

「安蘭が、夜中の遊園地に忍び込もうって! 俺も砂羽も、魂が抜けたみたいだから、スリルとサスペンスで、魂を吹き込むらしい。意味解んねえ。だけど、ちょっと、ワクワクしない?」

「夜中に遊園地に忍び込んだって、遊具、動いてないじゃん! スリルとサスペンス? 意味解んない。だけど、ちょっと、ワクワクするのかね……面白くないんじゃない?」

 私は嘘吐きだ。更に、素直じゃない。

 ワクワクしていた。すぐにサンダルを突っ掛けて、表に飛び出したいくらいに。

「出て来たくないなら、いいよ。無理しないで。安蘭と二人で行く。どうせ、お前は今でも、味噌っかす!」

「待って! 行くよ! 行く。どこに集まる?」

 夜中の遊園地は、昼間とまるで違った。

 忍び込んだりできるのか、疑っていた。

 安蘭は、忍び込めるスポットを知っていた。変な奴だ。

「なに? 前にも、忍び込んだの?」

「忍び込もうと思ったわけじゃない。気付いたら、閉園後の遊園地の中にいた」

「そんなわけ、あるかい!」

 ふざけた安蘭に、雑な言葉を浴びせていた。

 どこかで急に、防犯ブザーが鳴るんじゃないか。警察官が、飛んで来るのではないか。〝しょっ引かれる〟って経験を、する羽目に陥るんじゃないか。

 恐れるドキドキが、妙に気分を高揚させた。暗闇の中で、目がギラギラした。〝悪〟の気分は、楽しかった。

 空き缶が、三人の誰かの足に当たった。

 カーン カラカラカラカラ

 小気味いい音を響かせた。

「蹴ったの、誰だよ?」

 三人同時に吹き出し、大笑いした。味噌っかすじゃない気がして、ますます気分が高揚した。

 かくれんぼもした。

 真っ暗な遊園地の、動いていないメリーゴーランドの馬車の中に、安蘭と二人で隠れた。

 私と安蘭を探す、兄の姿は滑稽だ。なかなか見付けられなくて、焦っている。真っ暗な巨大な遊園地に一人ぼっちは、大人の兄でも怖いようだ。

 おっかなびっくり、私と安蘭を探す兄の姿を、馬車の中からこっそり窺い見る。

(ざまあ見ろ!)

 私の中に、悪魔が潜んでいた。

 気の毒な兄の姿に、吹き出しそうになった私の口を、安蘭の唇が塞いだ。

「な……!」

 再び塞がれ、長いキスをした。現実の世界が、消えた。

 ぶちっと夢は終わり、安蘭の声に、現実感の薄い現実が戻る。

「おーい、鱗太。早く見つけてくれや! 狭いとこに隠れてんのも、くたびれるぞ」

 唇を離した安蘭は、大きな声を張り上げ、私を残して馬車から降りた。

 ファーストキスだった。

 安蘭の背中を見送り、馬車の中でドキドキしてた。

「砂羽は? なんだよ安蘭、一緒じゃないの?」

「さあ……どうだったっけ」

「真っ暗な遊園地の中に、砂羽を一人にするなよ!」

「はあ? 鱗太、昔っから変わらねえなあ。そんなに心配なら、砂羽と二人で鬼をやれば良かったんだよ!」

 どこかから差す光に浮かび上がる、背丈も、背中の逞しさも、似たり寄ったりの兄と安蘭の姿を、馬車の中から見詰める。

(恋じゃない! 恋したらいけない! 安蘭は危険だ!)

 私にとって、今なお兄は、〝お母さん〟だ。私はまだ、兄の保護の袋の中にいる。どうしてもそこから抜けられない。

 兄の安蘭を見る目は、時にしごく厳しかった。兄が安蘭を、どこか牽制しているのなら、私も安蘭に、気を許してはいけない。

 兄は、私が安蘭に気を許さないように、見張っている。

 私は、逆らってはいけない。どんなに兄が、私を遠ざけても、兄は私の、唯一絶対の味方だ。

 私のファーストキスは、実に簡単に、安蘭にかっさらわれた。

(あいつはきっと、キスとか、そういうの……慣れてんだ……)

 たいしたことじゃないんだと、言い聞かせた。

 でも、私には、平気な振りは難しそうだった。嘘吐きなのに。素直じゃないのに。〝悪〟なのに。

 私は、三人でつるむことから離れた。

 きっと、また逃げた。正面から向き合うところから。

 居心地の良い場所だっただけに、孤独感は半端なかった。

 自分から二人を避けたのに、どうにも苦しくて、呼吸のできない日々が始まった。

(会いたいのは、誰? 安蘭? お兄ちゃん?)

 安蘭や兄と、個々に会う行為に、妙な罪の意識を持ち合わせた。辛さの行き場を失った。

(愛羅……会いたいよ)

 孤独でいるのが一番だった。

 だけど、一番淋しいに、決まってた。

                                 つづく

 


 

 

 

 

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