第7話 出会いと別れ

 秋は瞬く間に過ぎ去った。

 冬はとても長かった。

 例年より多く降った雪は、東京では珍しいほどに度重なり、溶ける暇もなかった。

 辺りには氷も張り巡り、凍える季節が続いた。

 でも、私達の関係は、少しずつ雪解けの時期を迎えたかに思えた。

 たまに、兄と愛羅、私の三人で食事をしたり、愛羅とベビー服を買いに行ったりして、二月二十七日の夜、愛羅は男の子を出産した。

「良かったよ。予定日じゃなくって。男の子だもん。別に、男の子が雛祭りに生まれたって、全然いいんだけどさ! 二千九百十七グラムだった。ニクイナ(憎いな)、このガキって感じ」

「意味解んない!」

 出産を聞いて、翌日病院に、兄と二人で駆け付けた。

 愛羅は、照れ隠しからか、出生時の体重で、私に妙竹林な語呂合わせをかました。

 私の視線は、新生児室に並んだたくさんのプラスティックの箱の中の一つ、兄と愛羅の赤ちゃんに釘付けになった。

 くだらない語呂合わせに、付き合ってはいられない。

 珍しい生き物だ。人の最初の姿は、こんななのかと驚く。

 小さな手には、細い短い五本の指が付いている。握った手は、突然ぱっと開く。

 目を開ければ、瞳は真っ黒だ。純粋で澄み切った瞳に、汚れた心を見透かされるのではないかと不安になる。でも、まだあまり見ていないのだと聞かされる。

 誰かの足の裏など、普段目に入りはしない。でも、新生児という生き物の足の裏は、惜し気もなく私の目に晒される。地を歩いた経験のない肌なのに、けっこう皺くちゃだ。足の裏さえ、ぱっと開き、ぎゅっと窄む。

 赤くなったり、白くなったりする。

「由香里さん。和幸かずゆきにそっくりね! でも口元は、由香里さんに似ているかしら?」

 近くに立つ、白髪の女性が、別の赤ちゃんを見て呟いた。

(なるほど。どっちに似ているとか言うのが、この場面に似つかわしいんだ)

 兄に似ているとか、愛羅に似ているとか、全然解らなかった。だけど、私より先に生まれた兄は、きっと赤ちゃんの時、こんなだったんだ。

「お兄ちゃんに……似てるね」

 一緒にいた兄が、父みたいな子泣き爺の顔になった。父親になると、誰でも少し、子亡き爺に似るのかもしれない。

「そんなの……似てる? まだ、解んないよ! 似てるか? マジ?」

 兄が嬉しそうに言葉を口にすると、愛羅の目は潤んだ。

「とうとうお母さんになっちゃったよ。私で大丈夫かな? でもさ、鱗ちゃんに似た、いい子に育てないとね!」

 愛羅もたまには、殊勝なことも述べる。

「ねえ、名前、決めた?」

「らいた」

 兄がボソッと呟く。

「へえ……漢字?」

「うん。愛羅の羅。伊太利亜の伊。鱗太の太」

 兄の口にする漢字を、順に掌に指で辿る。

「ああ……ああ……なるほどね。ねえ、なぜに真ん中は、伊太利亜の伊なの?」

「いいんだ! 真ん中には、異国情緒を挟んでんだ!」

「他に例えがあるでしょうに。いきなりの伊太利亜?」

「だから、異国情緒だよ。国際的な人間に育てるねん」

「ふうん。伊太利亜なのに、お兄ちゃん、関西弁……まぁ、洒落てるよ。素敵な名前だね」

 病室は、窓から暖かい光が差し込み、外の雪も氷も、その日、すべてが溶けるのではないかと思った。

 形を変え、きっとこの先の時の中に、この人達と一緒の、たくさんの幸せがあるのだ。私の心の中の蟠りさえ、溶けそうだった。

 それなのに、半年後、愛羅はこの世を去った。

 自殺だった。

 私みたいに、未遂で終われば良かったのに。首を吊った愛羅は、呆気なく、さっさとあの世に渡った。

「なんで……?」

 愛羅が死んだと、理解できなかった。

 私の中には、今迄に経験のない怒りが沸いていた。

 深い悲しみと、それを超える怒りに、自分の感情は解析不可能と、結論付けた。

 誤魔化して生きると言ったって、まだ、発展途上の私には、誤魔化せる範囲が狭いんだ。

 完全にキャパオーバーだった。

 愛羅の両親は、マダガスカル島にいて電話も繋がらなかった。夏場でもあったので、愛羅の両親に連絡が取れるのを待つわけにもいかず、ひっそりと通夜、葬儀は執り行われた。

 お通夜の日、生後半年の羅伊太は、兄の腕の中で泣き通しだった。

 僧侶の読経は、羅伊太の声に掻き消された。

「ちょっと、俺に貸してみい」

「お、おい!」

 親族席に座る兄の所へ、一人の男性が近付いて来た。兄の腕の中で反り返って泣く羅伊太を、兄と同じくらいの背丈の、兄と同じ年頃の彼は、ひょいと抱き上げた。

 兄がぶすっと不貞腐れる。

 抱き上げた彼は、兄に背中を向けて、羅伊太をあやす。

「よしよし、泣くな、泣くな! 羅伊太よぉ。らいらい羅伊太よぉ。笑えや! いや、笑うはまずいか? お通夜だもんな。悲しいもんな。笑えねえわな」

(誰だろう?)

 通夜に参列しているのだから、恐らく愛羅の知り合いだろう。羅伊太を抱いた若い男性は、兄や私に背を向けた。

「高い高ーい!」

 羅伊太をあやしながら、少しずつ参列者から離れ、後方の、出入り口付近に歩いて

行く。私は、謎の男性が気になり、目で追う。椅子に座っていた私の首が、どんどん後ろ方向へ捻られる。

 通夜会場の入り口付近で立ち止まると、こちらを向いた。

 彼の目は、羅伊太だけを見ている。きっと、羅伊太を泣き止ませることだけ、考えている。

 肩眉を上げる。鼻を膨らませる。顔のパーツを真ん中に集めてみる。急に思い切り舌を出す。

 羅伊太でなく、私が吹き出した。

「ぷっ!」

「キャハッ! キャッ! キャッ! ケハケハ!」

 羅伊太の泣き声は止み、小さな笑い声は、次第に高らかな燥ぎ声へと変わった。

(葬儀なんだよ。笑うのは笑うで、困る!)

 羅伊太の笑い声に気付いたのか、私が吹き出したのに気付いたのか、喪主を務める兄が、席から勢いよく立ち上がった。

 ガタガタ ガチャン

 折り畳み式の椅子は、体格のいい兄の派手な動きに耐えられず、大きな音を立てた。僧侶の読経が、負けじと少し大きくなった。参列者は、兄を見る。

(だから……葬儀なんだよ……)

 普段は、大きな体格を感じさせないほど、物静かに歩く兄だ。人の集まる場では、周囲に溶け込み、存在を決して強調しない。

 だが、兄の様子は、いつもとまるで違った。

 肩を怒らせ、ずしずしと大股に、羅伊太を抱いた彼のほうへと向かう。

 怒っているみたいだった。

 彼の元まで行くと、怒った顔で、なにか言っている。さすがに声は抑えているので、私には、なにを喋っているのか、聞こえない。

 羅伊太を抱いている彼も、なにか言い返した。彼のほうは、眉毛を下げて、穏やかな調子みたいだ。

「いいから、貸せ!」

 兄の大きな声が響いた。兄は、彼の腕の中から、強引に羅伊太を奪った。

「あ、あ、ああーん。ああーん。あああーん」

 羅伊太が再び、大きな声で泣き始めた。

 僧侶の読経の声まで、怒鳴っているかに大きくなる。読経の声が大きくなったことに、くすっと会場から笑い声まで聞こえる。

 後方を見るため、捩じっていた首が、痛い。

 私は、兄と謎の男性から目を逸らし、正面に向き直った。

 目の大きな愛羅が、花に囲まれ、写真の中で笑っている。

 写真の下には、愛羅の眠る棺が安置されている。

(愛羅……いるよね? まだそこに、いるよね? なんだか変なお通夜だよ。誰のお通夜だよ。ねえ! 賑やかなのは結構。愛羅が生きているならさ。生きていたら、喧嘩だっていいよ。賑やかにやるよ! 派手にやる! ねえ、まだ生きてんじゃない? 愛羅、死んじゃった?)

 愛羅の死に顔は、綺麗だった。憎らしいほどに。

(どうして! 羅伊太を残して、どうして死んだの? ねえ、愛羅! どうして死んじゃったのさ!)

 羅伊太だけじゃない。愛羅は、私や兄も残して死んだ。愛羅は、愛羅を愛する人を、たくさん残して死んだ。

 綺麗じゃなければいいのに、と思った。醜い顔をしていればいいのに、と思った。

 でも、綺麗だった。

 もう目を開けてくれなくても、そのままの姿でいてくれるなら、ずっと一緒にいたいくらい、綺麗だった。

 綺麗なんかじゃなくていい、と思った。生きているなら、それだけで。

(憎まれ口も、意地悪も、もうできねーな!)

 心の中で、毒舌を浴びせた。醜い顔で言い返してくればいいのに、愛羅はただ、綺麗な顔で、箱の中で寝ているだけだ。

(愛羅らしくないよ。箱の中で静かにしているだけなんて。でも、せめて叶うなら、いなくならないで。箱の中に静かにずっと寝ているだけでもいいから)

 姿が無くなるのが、とても怖かった。

 もうすぐ、愛羅の姿が、炎に包まれ消える。怖い。怖い。怖い。

 だけど、怒りと悲しみと恐怖は、べつに自分で努力しなくても、自らを麻痺させるようにできているらしい。

 愛羅が消える直前だのに、面白い顔に、ぷっと吹き出せるのだから。

 目立たなくなっていた、手首の傷跡が、痛かった。

 残される人の気持ちなんか、まるで考えなかった私は、愛羅に、酷い罰を与えられた。                         

                               つづく

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る