第5話 家族が増えるは家族の軋み?

 中学校生活が、終わった。楽しい思い出もあったはずだけど、苦い想いがいっぱいだったから、全てをなかったことにすると決めた。

 意外と簡単だった。

 兄と愛羅と、まあ、おまけの父とだけに色を残し、後は全て、色もない、のっぺらぼうにすればいいだけだった。人と関わった過去がなくなるのは、自分もなくなるのだけれど、まだそこに気付かない私だった。

 だから、中学三年間をないことにするのも、簡単だった。

 兄と愛羅と私の、平穏な日々だけが残った。

 私の周囲に二人が残れば、十分だった。ずっと先の未来なんか、想像できなかった。私の佇む場所は、兄と愛羅と、おまけの父だけが、照らしてくれた。進む道は見えなかった。でも、ほんの少し先までは、明るい気がした。

 中学を卒業し、家からかなり遠い、千葉県の私立の高校に進学した。

 進学を望んだわけではない。ただ、父も兄も、高校には進学して欲しそうだった。

 愛羅に至っては、

(進学なんかしなくても……)

 と、言葉を吐き出し、相談してみようかと考える私が、己の小さな船を漕ぎ出す櫓を持った段階で、容赦なく私の小船を木端微塵に撃沈させた。

「大学に行った理由? パパもママも、大学生だった頃の話を、よくしてたの。聞いてると、楽しそうでさ。だから、大学がどんなか、興味を持ったの。まあ、ほら、お金もあったから」

 愛羅の大学進学は、当然だったふうを、さらっと言って退けた。愛羅に変な対抗心を燃やし、高校は行くと決めた。

 正直に語ろう。(進学を望んでない)ではなかった。もう、学校は懲り懲りだった。行きたくなかった。

 なかったことにした中学三年間が、同級生ののっぺらぼうの誰かが、同じ高等学校に現れた時点で、圧し掛かってくる。

 だから高校は、自分で選んだ。通える範囲で、家からなるべく遠い学校を。

「めっちゃ遠いじゃん! 通える? 交通費だって、馬鹿にならないぞ! まぁ、交通費くらい、俺が……いやいや、親父に任せたらいいんだけど! 親父が頼りなく見えるから……違う。親父、あれで、案外稼いでいるんだよ。砂羽は、なんにも知らない……間違え! 親父ねぇ、貯金だってたっぷりあるんだから! 砂羽は、ただ、受かるように勉強しろ!」

 以前は落ち着いて見えた兄は、忙しなく言葉を吐き出して、途中で何度も言い変えた。

 父は、相変わらずだった。

「砂羽ちゃんが決めたのかい? 立派になったねえ。凄いぞ! 砂羽ちゃんが決めたのなら、お父さんは勿論賛成だ。頑張ってね」

 私は、頷くほか、ないだろう? 

 友達のいない人間は、案外、勉強ができる。兄の家に入り浸り、愛羅とパイを作っていても、勉強の時間も、結構残る。

 私はきちんと合格した。

 入学式には、父と兄と愛羅が来てくれた。

「家族写真を撮るか!」

 父が張り切る。桜の木の下で、四人で写真を撮った。タイトルは〝幸せな家族〟。いいんだ。私は、幸せだ。私は、笑った顔をカメラのレンズに向けた。

(お父さんって、いつでもどうやっても、子泣き爺だな)

 できあがった写真を見ての感想は、それだけだった。中途半端な笑顔だ。私も。

 だけど、写真の中で笑っているのは、父と私だけだったんだ。

 私は、ずっと後になって、中途半端でも笑っているのが、私と父だけであることに、ようやく気付いた。

 天真爛漫で、曇り一つない笑顔を、惜しみなく私や兄に振り撒いていた愛羅から、光が失せ始めていた。

 私が兄の家を訪れれば、いつも強引に、愛羅に付き合わされた。買い物だったり、料理だったり、映画鑑賞だったりしたけど、立ち止まっている私には、動かしてくれる愛羅は、不可欠だった。

 少しずつ、反抗も覚えた。

「お菓子作ろう!」

 と愛羅が決めたって、

「嫌だ! 今日はごはんのおかずを作って! 私も手伝うし、アレンジも許すから!」

 と言い返し、胸がすっとする快感を覚えたからだ。

 五月の連休中のその日は、愛羅がなにを決めていても、「買い物に行く!」と頑張るつもりだった。覆されても、それはそれで楽しいじゃないかって、思ってた。

 だが私は、玄関先で帰された。

「具合が悪いんよ。買い物なんか、行きたくない。鱗ちゃんが帰るまで、一人でいたいんよ!」

 帰るほかの選択肢も、与えられなかった。

 体調が悪い時くらい、兄と愛羅にごはんでも作るかと、翌日、再び、訪れた。合鍵で開けて、部屋の中に入った私に、愛羅は露骨に嫌な顔を向けた。

「砂羽ちゃんに、ごはんなんか、作れるの?」

 愛羅は、くたびれたスウェットの上下姿で、新しい座椅子に寄り掛かっていた。兄のスウェットのようだった。少し痩せた愛羅には、ダボダボだ。くたびれたスウェットのせいか、調子もかなり悪そうだ。化粧っ気もない。表情は強ばり、酷く《ひど》く意地悪で、寄り付き難い人になっていた。

「作れるよ! 高校生だよ! 愛羅、具合悪いんでしょ? 夕飯になにか作るよ!」

 むきになって言い返した。

「ふうん。いつまでも、守られてるばかりのお子ちゃまかと思ってた。でも、いい! 余計なお世話! 砂羽ちゃんがいないほうが、ゆっくり休めるから。帰って!」

 愛羅が違う人になっていた。

 愛羅は立ち上がり、私を玄関へと追い遣る。兄の家は、私の家でもあったのに。余所者扱いだ。愛羅の気迫に、私の足は、よろよろと玄関から表へ運ばれる。

 アパートの鉄の扉は、無情にも

 ガチャンッ 

と閉められ、さらに、

 カシャッ

と、中から鍵を閉める音がする。無情さの追い討ちだ。。

(どうしたのだろう。きっと……相当具合が悪いんだ……)

 具合が悪いだけではないことは、気付いていた。認めたくない私は、体調が悪いという理由を、懸命に自分に言い聞かせた。

 兄に電話を掛けた。でも兄は、電話に出なかった。

(仕事中だもん!)

 また、必死に自分に言い聞かせる。

 居心地の良い、兄と愛羅の住む家。毎日のように、足繁く通った、私の家。

 でも、冷ややかな言葉を私に浴びせた愛羅に、再び会うだけの勇気を、私は持ち合わせていなかった。気になりながらも、二人の家から遠退いた。

 高校生活は、順風万端だった。友達も作らず、部活動にも参加しなかったから。教師も生徒も、皆、様々な色で彩られた、美しいモノだった。見目麗しき、モノだ。実際の顔なんか、まともに知らない。でも、少なくとも、のっぺらぼうじゃない。

 勉学に励み、充実した学校生活を過ごした。兄とも愛羅とも、なんの連絡も取らないまま。

 気付けば、夏休みだった。

 部活動に参加していない私には、夏休みはあまりにも怠惰だった。

 前向きの気持ちのない私には、なにか新しいことを見つけられない。

 退屈を持て余し、散歩のつもりでふらりと家を出れば、兄と愛羅の住む家へと足は向かっていた。

(あの日の愛羅は、身体の調子が物凄く悪くて、不機嫌だっただけ! 今日は、ケロッとした顔で、「久し振りじゃん! 会いたかったよ!」の台詞。愛羅は、私に抱き付いて来る。大丈夫。愛羅は元通りになってるよ!)

 傷つくのが怖い。だから、想像する未来は、自分に激甘にする。自分を守るためだ。

 浅はかだったらしい。激甘の想像は、からい未来を、よりからくするんだよ。

 恐る恐る、渡されていた合鍵を鍵穴に突っ込む。

(あれ? 開かない?)

 開かないわけがないと焦る。動作は徐々にやかましく、派手になる。

 ガチャ ガチャガチャ

  ガチャ ガチャガチャガチャ

 鍵を鍵穴に突っ込んでは、強引にドアノブを回そうと試みる。吹き出す汗が、目に入って痛い。

めて! 強引に開けようとしないで‼ 砂羽ちゃんでしょう? あなたの鍵じゃあ、もう、開かないの! 今、開けるから。ドア、壊さないで!」

 鉄の扉の向こうから、刺々とげとげしい愛羅の声がする。

 ガチャ キー

「さぁ、どうぞ! 近所迷惑でしょう!」

 青白い顔をしていた。頬の辺りが、ぴくぴく引き攣れている。

 元々小さい顔は、頬骨が付き出し、顎はますます尖がって、まるで別の人相となっていた。二か月の間に、愛羅から、愛羅の魅力の全てが抜け落ちた。覇気がない。生気もない。魅力がない。

「具合、ずっと悪いの? 病気なの?」

 愛羅は私に横目を流した。呆れた表情だ。唇の片側を、意地悪く少しだけ吊り上げ、ふっと笑った。 

「砂羽ちゃん、鱗ちゃんから、なーんにも聞いてないの? 鱗ちゃんったら……砂羽ちゃんは、大事な妹のはずなのにねぇ」

 勿体付ける愛羅の厭らしさに、身体中がむず痒くなる。

「なに? なんの話?」

「妊娠のことよ! 私に赤ちゃんができたって話!」

「……? お兄ちゃんとの? ええ? 愛羅、赤ちゃんできたの?」

 喜びはじんわり湧いて来た。

(無難が一番。なにもないが、一番いい!)

 中学で苛めに遭ってから、心の中心で願い続けたのは、無難であること。なにか生じて、悲しく辛い想いをするなら、なにもないがいい。平々凡々でいい。感情なんか、揺れなければいい。

 だから、変わったことなんかしない。新しいなにかなんて、見付けない。

 私の人生は、中学で手首を切ってから、ずっとそれだ。自分からは動かない。いつのまにかやって来た喜びなら、受け容れる。悲しみなら、背中を向けて逃げる。

 逃げるための手段なら知ってる。手首を切ればいい。

 愛羅が妊娠した。真実か? 真実なら、いつのまにかやって来た喜びに違いない。

私が切望した喜びではない。だからこそ、受け容れられる、喜びだ。

 兄と愛羅は、いつか結婚するのだろうとぼんやり思っていた。兄と愛羅との間に、赤ちゃんが生まれれば、家族が増える。私の家族だ。他人と上手に関係の築けない私に、家族が増える。幸せが増えるに匹敵する。

 喜びだ。私の、喜びだ。

「いつ? いつ生まれる? 赤ちゃんって、可愛いよねぇ。きっと可愛いよ。私の周りにいなかったから、実感湧かないけど! 可愛いよね? 愛羅も嬉しいよね?」

 燥ぐ私に、愛羅は唇を震わせた。

「ねえ、なんで喜んでるの? なんで砂羽ちゃんが喜んでるの? 砂羽ちゃんには、まるで関係ないでしょ! 鱗ちゃんと私との赤ちゃんなの! 砂羽ちゃんが喜ぶの、違うでしょ?」

 愛羅は憤怒していた。頬がこけ、目玉が引っ込んだ愛羅が、眉間に皺を寄せる。天真爛漫の四文字熟語が似合う、愛羅の可愛らしさなど、微塵も残っていなかった。

 愛羅が憤怒する理由が、さっぱり解らなかった。でも、落ち窪んだ愛羅の瞳は、どこか私に、助けを乞うているかに見えた。

「そう…だね。そうだよ。私には、まるで関係なかった」

 関係ないなんて言葉、出したくなかった。口の中で、泡のまんま弾けさせたかった。

 でも、私が「まるで関係ない」と口にすれば、愛羅が救われる気がしたんだ。

 しょっぱい水が瞳に上がる。

悪阻つわりで具合が悪いの! 砂羽ちゃんには、鱗ちゃんが報告してると思ったわ。鱗ちゃん、私と赤ちゃんのことで、頭がいっぱいなのよ。砂羽ちゃんのことは、大事な妹だと思ってるはずだよ。だけど……新しい家族ができればさぁ、妹とか、後回しになるじゃん!」

 兄はすでに、私にとって、完全無欠じゃなかった。お母さんでもなかった。

 情けなくって、どこか父に似ている兄。愛羅が兄の彼女になって、ようやく私に見えた兄。私は、愛羅と兄が一緒にいるのを見ているのが、幸せだった。二人の間に、温かい空気が流れるのが見えたから。

(愛し合っているんだなぁ)

 自分は未経験の、映画みたいな台詞を、心の中で唱えられたから。

「私なんか、後回しでもいいよ。赤ちゃんできたって、お兄ちゃんから連絡なかったこと、別に気にしてないよ。お兄ちゃんは、愛羅と赤ちゃんを、一番大事にするに決まってるもん! お兄ちゃんって、言葉はあんまり優しくないけど、心は優しい人だもん」

 どういうわけか、愛羅はとても変な顔をした。困ったみたいにも見えた。ますます怒ったみたいでもあった。顔が歪んでいた。

「私、帰るね。お兄ちゃんによろしく。ずっと会ってないから」

「う、うん。あっ、鍵、変えたのよ。お腹に赤ちゃんがいるって解ってから、私、少し神経質になっちゃって。鱗ちゃんに話したら、『砂羽のことは気にしなくっていいから、鍵を変えたらいい』って言うから。鍵のことも、砂羽ちゃんには鱗ちゃんから伝わってると思ってた。これからはブザーを鳴らしてね。開けるから」

 私の家族は、減ったのかもしれない。

 私の手首の傷に、傷があるだけで泣いてくれた愛羅は、もういない。

 幸せな時間は、終焉を迎えたのか?

 さて、どうする。手首を切る?

 でも私は、愛羅を自分の中から排除することが、できなかった。兄の相手は、嫌な奴だった、と、簡単に処理済の印を押せなかった。

 どこかでどうしようもなく、私に冷たく意地悪な愛羅を、否定する。

(悪阻だけが理由なのだろうか? 私が、愛羅になにか嫌なことをしただろうか?

中学の事件は、美和も、他のみんなも、自分の人生から簡単に排除できたのに。だから……手首を切れた。死ねば終わる。そう思えた)

 気持ちは沈む。怖くて、兄と愛羅の家を、完全に拒否するようになった。寄り付けない。

 居場所を、失った。

 でも、天国だか地獄だか……あの世を目指して手首を切るのも、なんか違うよなあと、首を捻る。

 長い夏休みの過ごしかたが解らないまま、たいして面白くもない高校での毎日が再開するのを待ち焦がれた。一日を虚ろに過ごしては、夜になると、カレンダーのその日に、黒マジックでばってんを記した。ばってんを記す瞬間だけ、浮かれて、ウキウキしている自分を発見した。

 後二つ、ばってんを付ければ、新学期だ。

 だけど……新学期が始まったからって、なにがどうなるのだろう。

 私はまだ、待つばかりだ。


                                  つづく


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