第4話  愛羅に心奪われて

 強烈に愛羅に惹かれて行った。

 愛羅が気になって堪らない。愛羅を好きか嫌いかも、解らなかったのに。

 兄の恋人が魅力的なのは、私にとってもいいことに違いなくて、天真爛漫で、自由奔放の愛羅と私は、次第に仲良しになった。

 学校に友達のいない私には、尚のことだったに違いない。

 初めて女性の家族ができたみたいだった。私の中で渦巻いていた、なにか黒いものは、少しずつ溶けゆくようだった。

 愛羅は兄より二つ年下。電気工事を請け負う工場で働いていた兄が、愛羅の家のエアコンの修理に訪れて、知り合ったらしい。愛羅は、大きなお屋敷に一人で暮らしていて、私立の女子大に通っているらしかった

 愛羅には、悩みなどまったくないかのようだった。

「私のパパとママ? 一言ひとことで表すなら、二人共が自由人よ。どっちの家も、元々が裕福みたい。お金に困らない気儘な二人が、恋に落ちたんじゃない? なんだかそのまま、今でも恋に落ちてるのよ」

「仲がいいんだね? 愛羅のパパとママは」

 パパとかママなんて言葉を、初めて使った。気恥ずかしくて、唇がもたつく。

「『子供なんて、愛し合う夫婦の間にいれば、放って置いてもいい子に育つ』とか、娘の私に真面目な顔して語るんだから、ちょっと驚いちゃう。でもまあ、仰る通りでしょ? 素晴らしい私が育ったんだから。私が鱗ちゃんを好きになって、パパとママに紹介したらさぁ、『あら、じゃあ、もう安心ね』とか言っちゃってんの! ますます自由人に磨きが掛かって、二人で外国とか、行き捲ってる」

「今も海外なんだね? だから愛羅は、パパとママと一緒に住んでた家に、一人で暮らしてるんだ!」

「私が、今、住んでるのは、二人の持ってる家の一つだよ。何軒持ってるんだろう? 日本にも外国にも所有してる。詳しくは知らない」

「すごいねぇ……あの……愛羅のパパとママは、お仕事は何?」

「仕事? さあねぇ。お金、あるからね、あの二人。不動産とか、転がしてんじゃないの? 悪いことでもしてんのかな? 解らない」

 愛羅の話が、世間から見たら、かなりおかしな物であろうことに気付けるほど、私が世間を知らなかった。

(お金って、あるとこにはあるんだな)

 言い慣れないパパとママの単語を、どうしてだか何度も口にした。興味を言葉にして尋ねては、湿り気の足りない唇を舐めた。愛羅の答えをワクワクして待っては、知らない世界に、ますます興味が沸く。

 金銭的な苦労がまるでないからか、愛羅は実に解り易くて、素直だった。

 テレビで誰かが、苦労を背負っていると口にすれば、ただもうそれだけで、目を潤ませて同情を寄せた。

「かわいそうに。愛羅ができること、何でもしてあげたい。どうしたらこの人の力になれるんだろう……」

 どうやら本心だから、

(疑うことを知らないのかもしれない)

 と、中学生の私が心配になるほどだった。

 私の手首の傷に気付いた時は、愛羅は迷いなく、私の両手を両手で包んだ。

「辛かったんだね。かわいそうだったね。砂羽ちゃんを苦しめる奴がいたら、この先は愛羅が許さない。殴ってやるからね」

 手首を切った理由も聞かずに、愛羅は大きな瞳から、ぽろぽろと涙を零した。

 愛羅の仕草のどこにも、上辺だけの厭らしさなど存在しなかった。

(きっと、誰からも愛される……愛羅は、愛されたくて行動していないから……愛羅はいつだって、自分の心に忠実だ……)

 愛羅に出会うまで、兄は私にとって、完全無欠の存在だった。兄にも欠けているものがあることに、気付かされた。

 単純さとか、純粋さとか、まっすぐなところ、かな。多分、そんなもの。

 私にも、欠けたもの。

 愛羅は、純粋でまっすぐで……私と兄に欠けたものに、満ち溢れていた。愛羅は惜しみなく、私達に分けてくれた。

 多分、愛羅本人には、分けている意識すらない。目には見えない、透明だけど色の付いたビー玉……単純とか、純粋って名前のビー玉は、いつも愛羅から、ころころ転がり落ちてるみたいだった。

 私や兄にないものをふんだんに蓄えている愛羅にも、ないものがあって、どうやら兄は、愛羅にないものを持っていた。

 なんなんだろう? 残念ながら、私にはよく解らなかった。でも、兄の内から漲るなにかだと思う。

 兄と愛羅は、欠けたものに、互いに惹かれ合い、引き付けられていた。だから、兄と愛羅の関係は、揺るがないもの、と、私は信じて疑わなかった。

 しょっちゅう、兄の家に、愛羅を求めて出掛けて行った。

 一緒に料理をしたり、ゲームをしたり、買い物に出掛けたりした。

 愛羅の料理はひどかった。下手糞へたくそってわけじゃない。ただ、愛羅の自由な性分は、どんな料理にも、途中から勝手に、愛羅のアレンジを加えてしまう。

 肉じゃがを作った時のことだ。

「なんだか地味……ああ……さやいんげんはないな。茶色ばっか……ならばこれを、入れちゃえ入れちゃえ!」

 突然の思い付きで、大きなトマトを三個、丸ごと鍋に加えた。

「彩りが欲しかったの? だからって……」

 器の真ん中に、火を通して少し崩れた大きなトマト。その周りを、ジャガイモや牛肉が囲む。三枚の皿に盛り付けられた。

「なにこれ?」

 仕事から帰った兄が、愛羅に尋ねる。

「お洒落肉じゃが~!」

「ドラえもんか? どこがお洒落なのさ」

 私が口を挟む。いつから突っ込みができるようになったのだろう。

「大きな真っ赤なトマトが、丸ごと入って、むしろ主役になってるとこ!」

 愛羅は、人差し指を立て、自信満々に答える。

「肉じゃがなのに、トマトが主役じゃダメじゃん」

 兄の突っ込みに、三人は沈黙し、それから噴き出した。

「確かに」

 食すと、不思議な味がした。

「なんだか……美味いよ。案外いけるな、これ」

 兄の感想に、愛羅も〝お洒落肉じゃが〟を口にする。

「案外、いける? 私には酸っぱいよ~。鱗ちゃんは、世の中の苦渋を舐めすぎなんだよ。だから、ちょっとくらい酸っぱくても、平気なんだ! 美味しくない~」

 美味しくないとがっかりしながら、一人でげらげら笑い始めた。

「ちょっと、だいたい、なにこれ? でっかいトマトが、ど真ん中に鎮座してる~。変だわ~。盛り付けたの、誰や? ああ、愛羅だ~! 可愛くなるかと思ったのに~。でかいつらしたトマトだね~。名前、変更! 〝脇役に主役を取られた肉じゃが〟! ぎゃははは」

 私も兄も、たいして可笑しくないのに、愛羅が転げ回って笑う姿に、釣られて笑った。

〝脇役に主役を取られた肉じゃが〟みたいに、〝カレー風みそ汁〟とか、〝魚介も肉も入れちゃった炊き込みご飯〟とか、〝高級じゃない挽肉だからマヨケチャ醤油ソースで和えちゃったハンバーグ〟とか……思い付きでアレンジを加え、へんてこにネーミングした料理を、幾度も食べた。

 見栄えはいつも、私や兄を圧倒し、味は、奇妙だった。決して不味くはなく、大抵は、誰か一人が絶賛した。

(私なら、レシピ通りに作る……違う。私には、レシピ通りにしか、作れない……レシピ通りが、確実に美味しいのに!)

 愛羅の料理に対しては、疑いが消えなかった。でも、愛羅のお菓子は、拍手ものだった。

「まずは、材料よ!」

 料理には、冷蔵庫に眠るなにかで、変なアレンジを加えるくせに、お菓子を作る時は、買い物から気合の入りかたが違った。

「砂羽ちゃんも一緒に作ろ! 美味しいのができるんだから!」

 最初、愛羅よりは断然兄のほうが、料理は上手だと思っていた私は、お菓子作りにも、期待しなかった。チョコレートケーキの上にだって、トマトを乗せかねない。

「ねぇ……どんなお菓子を作るの?」

「ミックスベリーパイ」

(ほら、来た! ミックスだぜ)

 心の中で呟く声と違う言葉を口にする。

「難しそうだけど、大丈夫? 簡単なのでいいよ。単純なのにしようよ」

(性格、単純なんだから)

 最後の言葉も呑み込む。

「なーに言ってんのさ! 難しい? 全然! ただ、手間が掛かる。時間が掛かる」

(それを、難しいって言うんでしょうが!) 

 再び、喉元までり上がった言葉は呑み込み、気を遣った言葉に掏り替える。

「愛羅が大変だから、簡単でいいって」

「だから、難しくない!」

 買い物からパイが焼き上がるまで、どれだけの時間が掛かったのだろう。

 愛羅にとって時間は、自分専用の時計で、進めたり戻したり、遅らせたりできるものみたいだった。

 朝から買い物に出掛けた。

「ミックスベリーって名前の果物があるの?」

「ないよ! 色んな種類のベリーをジャムにするの。いちごくらいは知ってるでしょ? ストロベリー! 砂羽ちゃん、英語、勉強してる? チェリーも入れるよ! 知ってる? チェリー! はい、日本語に訳してごらん!」

「さくらんぼでしょうが! 知ってるわ! ねえねえ、パイ生地は簡単だよね。パイシートって便利な代物が、売ってるもんねえ。今じゃ、誰でも簡単にパイが焼けるよね。結構美味しいし、手作りって自慢できるよね」

 買い物の途中、愛羅に馬鹿にされて、むっとした。

 パイシートを使ったこともないのに、知ったかぶりをして反撃に出た。

「はぁ? ジャムも手作り、パイも一から手作り! 全ての工程を自分の手で熟すのよ! だからこそ、焼き上がった時の喜びが、一入ひとしおなんでしょうが。パイシートは便利だけど、作れば何倍も美味しい! 手抜きしないの、今日は!」

 愛羅の返り討ちで、ばっさり切られた。

 八百屋や果物店を、いくつも回った。末尾にベリーとチェリーの付く、たくさんの種類の果物を手に入れた。私の知らないベリーやチェリーが、この世にはたくさん存在した。衝撃的だった。

(知らなくたって、しょうがないよ。私のお母さんは、お兄ちゃんだったんだから……)

 心の中で、兄に非難を向ける自分に驚いた。私にとって、完全無欠だった兄の姿が、愛羅に因って崩壊され始めていた。

 家に戻ると、愛羅は手を洗い、速攻、ミックスベリーパイ作りに取り掛かる。愛羅の顔は、いつもより凛として、また違う美しさを放っていた。

 ミックスベリーパイは、兄が、夕方六時半に仕事から帰宅した時、まだ、焼き上がらなかった。

「いったい君たちは、何時から、この甘ったるい香りの中で、作業しているわけ?」

 帰った兄の、開口一番だ。

「あら? ねえ、砂羽ちゃん。何時から作り始めた? 時間なんか、全然気にしなかったよ」

「……さあ……買い物にも、けっこう時間が掛かったけど、昼前には帰って来て、愛羅はすぐに作り始めたよ」

「昼前って……ねえ、昼飯は食ったの?」

 兄の問いに、愛羅は間の抜けた返答をする。

「あれ? 食べたっけ? おにぎりは買ったよ。買ったおにぎり、食べたよね? 砂羽ちゃん、食べたっけ?」

「食べたでしょうに! パイを練るって重労働を熟しながら、交代で食べたじゃん! 愛羅が先に食べたくせに。覚えてないの? 唐揚げのと、いくらと鮭の。高級なの二つが愛羅! ねえ、お兄ちゃん。コンビニで買ったおにぎりなのに、いつもの数倍美味しかったんだよ。私は、鮭と昆布だけど。労働したからかな?」

 言葉は、考えることなく口から零れた。

 ほとんどの工程は、愛羅が熟した。私はただ、忙しなく台所を動き回る愛羅の姿に、見惚れていた。額にも、首筋にも、キラキラした汗を浮かべる愛羅は、美しかった。

 見惚れているだけの自分に、嫌気が刺して、パイを練るのを、手伝った。

 パイを練るのは、ぼーっと生きていた私には、重労働この上なかった。

「ここがね、ポイント! 決して手を抜いてはいけない。薄い層がたくさんある、さっくさくのパイにするには、決して手抜きをしてはいけないの。〝肝心な時は、手を抜かない!〟私の格言! 今、思い付いた。いい言葉じゃね? ねえねえ、砂羽ちゃんの、座右の銘にしてよ」

「しない!」

「なんでだよ。先におにぎり食べちゃうぞ」

「どうぞ! 私、後でいい! パイ生地、ねてるから。まだまだくたびれてなんかいないんだから!」

 無性に愛羅に腹が立っていた。理由は解らない。でも、先におにぎりを食べるのは、ますます愛羅に負ける気がした。必死にパイ生地をねた。

 パイ生地の上に、私の汗が、一滴垂れる。

(まっ、いっか!)

 腹が立っているのに、楽しくて、夢中でパイ生地を練る私は、なんだかいいぞと、歯を食い縛る口元が緩む。慌ててパイ生地に向き直り、力を込める。

 愛羅が先に、好きな具のおにぎりを食べた。私に残ったのは、鮭と昆布のおにぎりだった。だけど、お米の一粒一粒が、塩気が、パリッとした海苔が、喉元を過ぎた途端に、よろよろしていた私に、エネルギーを漲らせる。パイ生地を練る、私の細い手も、少し逞しくなった気がした。

「夕飯が、その甘い香りを放つ物体ってことは……ある?」

 兄の声に、我に帰った。

「あらららららら! どうしよう。夕飯は、まるっきり考えてなかった。ええ? 別に、愛羅が考えるとこでもないよね? 今、夕飯どころじゃないんだもん。ねえ、鱗ちゃん。解ってる? 今朝から始まった、ミックスベリーパイの、長い道程みちのりについて。ようやくここまで辿り着いたの。やっと焼くのよ。パイを! 砂羽ちゃんと愛羅の、汗と涙の結晶が、今!」

「解った。二人の汗と涙の結晶は、デザートにしよう! デザートにするためには、夕飯が必要だ。俺、弁当買って来るよ」

「いいアイディアじゃーん。鱗ちゃん、あったまいい! 三人分のお弁当は、鱗ちゃんに頼むよ。ダッシュでお願い! お腹が減ってたの、今、思い出したわ」

 兄はいつでも、気が回る。私には、今までずっと、いつも優しく、気を回してくれた。

 私は、愛羅のようには、兄にお使いを頼めない。いつも、頼む前に、至れり尽くせりの兄だったからだろうか? とても自然に、兄に頼める愛羅が、羨ましくさえあった。

「愛羅は、調子いいんだから。まったく、人を扱き使いやがって!」

 仕事から帰ったばかりの兄は、乱暴な言葉とは裏腹に、目を細めて嬉しそうに笑った。堀の深い兄の顔は、ふにゃけたら、少し父に似ていた。父の笑顔は、いつも取り繕ったみたいで、どうにも好きになれなかったけど、相好を崩した兄の顔は、可愛らしいとさえ思えた。

 胸の辺りが、ほんわか温かい。

 兄は、軽やかな足取りで、サンダルを引っ掛けて、弁当を買いに飛び出した。

(お兄ちゃんと愛羅は、とってもいい。お兄ちゃんには、愛羅がいい!)

 近くのお弁当屋さんで、兄は、弁当を三つ買って来た。

 愛羅はいつだって判り易い。真っ先に袋の中を覘く。

「三種類だ。全部美味しそう! 私、五目弁当がいいな。砂羽ちゃんは、どれ?」

「どれでもいい。愛羅、五目弁当でいいよ。ねえ、お兄ちゃん」

「鱗ちゃんは?]

「俺も、どれでもいい」

「じゃ、遠慮なく。私は五目弁当にする!」

 私と兄がどれでもいいと告げれば、愛羅から、嬉しい気持ちがほとばしる。五目弁当を両手で大事そうに持ち、自分の近くに寄せる。

「砂羽、お前は?」

「三色弁当にする。お兄ちゃん、ボリュームのあるのがいいんでしょう? 焼き肉弁当、大盛だもんね」

「別に、砂羽が焼き肉弁当食べたければ、俺は、三色弁当でもいいよ。どっちがいいのさ?」

「ええ? お兄ちゃん、本当は、三色弁当がいいの? ええ? だったら、焼き肉弁当でもいいんだよ、私。でも……残すかも。三色弁当のほうが、やっぱいいかなあ」

 まごつく私の胸元に、兄は、三色弁当を突き付けた。

「砂羽と愛羅が、五目と三色を選ぶと思ってたの! 俺は、残り物を取る、謙虚な人間に見せかけて、ちゃーんと狙い通りの焼き肉弁当を手にする、計算高い奴なんだ!だから、砂羽。安心して食え」

 やっぱり兄が、一番大人なのだと、しみじみ思う。

 甘い香りが漂う中でお弁当を食べ終わった頃、ようやくパイは焼き上がった。

 焼き上がったミックスベリーパイは、宝石のような輝きを放ち、オーブンから顔を出した。芳醇な香りに、鼻が擽られる。

 サクッ サクッ サクッ

 包丁を入れた音は、パイの言葉だ。絶対美味しい。間違いない。

 果実味を残すために、それだけは単独で短時間煮た、大粒のアメリカンチェリー。それぞれの味を活かすため、ストロベリーから始まって、ブルーベリー、クランベリー、ラズベリー、ブルーベリーと、味見しながら頃合いを見て、一種類ずつ加えて煮詰めたジャム。卵にも拘って作った、さっぱり味のカスタードクリーム。アクセントに少し加えた、クリームチーズとカッテージチーズのコンビ。私と愛羅の汗と涙の結晶の、幾重もの層を成す、サクサクのパイ。全ての要素が一つになって、絶妙な美しいハーモニーを奏でているに違いない。

「美味しーい。マジ、美味し―。ほっぺが落ちるー。顔全部、落ちるー。感動を超えた! 愛羅、尊敬する。今日から、尊敬する」

 予想以上の美味しさに、顔までとろけそうだった。

「なにこれ? え? これ、なに? いやいやいや、どうしたの、愛羅? どこに才能隠していたの? どこで教わったの? えええ? もしかして、元はどこかのパティシエ? 俺、スイーツで初めて感動した。胸がドキドキしてんだけど。ケーキ屋、開こうよ! これほどの才能、活かさないなんて、勿体ないよ!」

 美味しさに、私は脳まで蕩けていたらしい。やたら手を動かし、唾を飛ばしながらパイを絶賛する、カッコ悪い男は、一体どこの誰だろうと眺めていた。

(美味しいわなぁ。そこの、変な男!)

 私の、完全無欠の兄が、完全に崩壊した。

 兄の称賛を浴びた愛羅の頬が、赤く染まる

「美味しい? でしょでしょ~? 良かった~。成功だ! 案外、難しいのよ」

「はぁ? 愛羅、難しくないって、偉そうに言ってたじゃん!」

「作る前から、難しい、難しい、って不安になると、失敗野郎が、待ってましたとばかりに、喜んでやって来るの! 温度や、果物の甘さは、いつも同じじゃないでしょう? 同じ果物を使っても、実際には、全て違う果物でしょ? 同じものは、二つとないもん!」

 愛羅は時に、私の心を鷲掴みにする。感動するのか、痛いのか、胸がぎゅうっと、締め付けられる。

「天気にも、果物にも、器具やオーブンにも、『今回は、あなたたちと手を取り合って、最高のパイを作る!』って気持ちで臨むのよ。料理ってね、絶対に、二度と同じ物、作れないのよ。私は断言する。卵だって、牛乳だって、本当は全部違う。だって、生き物みたいなものでしょう? 生き物から作ってるんだから」

 愛羅の熱弁に、私はパイを食べる手が止まる。

 横に座る兄は、完全に、愛羅の魔法に掛かっていた。皿に取り分けたパイを、一番に食べ終えると、切り分けた二ピース目を、皿に載せる。食い意地の張った、餓鬼がきと化していた。

「味覚だって、おんなじ人でも、心と体の具合で、変わるでしょう? いくら大好物でも、胃の調子が悪ければ、ステーキも美味しくない。最高を作るのは、とても難しい。振る舞った誰かに、最高だと思ってもらうのは、もっと難しい。味の好みも、自分とは違うからね。今日は、私の中で、満点! 二人が美味しいって褒めてくれて、最高!」

「愛羅、他にもケーキ、作れるの?」

「作れるよ! お菓子のレパートリーは豊富! 腕に自信があるんだ。だけど、ケーキ屋さんは嫌!」

「どうして? 恵まれた才能だと思うけど……」

 口の周りに、パイの屑をたくさんくっつけた兄が、三ピース目のミックスベリーパイを頬張りながら、尋ねる。とんだガキンチョだ。

「だって、作りたい時に好きな物を、手間暇掛けて作るのがいいんだもん! だから、お菓子作りを好きでいられる。ジャムを作るのも、クリームを作るのも、パイ生地を練るのも、仕事にしちゃったら、義務になる。作らなければいけないって! 自由じゃない。嫌になるもん!」

「好きなことが嫌いになるのは、辛いわな……つまり今日は、義務じゃなくて、俺と砂羽に作りたいって思って、作ってくれた。なんかさあ……贅沢って、きっと今日の愛羅のミックスベリーパイだよね。愛羅がいなければ、味わえなかった幸せだ。なあ、砂羽?」

 口の周りはパイ屑だらけのまま、兄はきざな台詞を口にして、私の顔を見た。なにかが抜け落ちてすっきりした、素敵な兄の顔だった。幸せは、人の顔つきを、素敵なものにする。

「うん! マジ贅沢! 悶絶するくらい美味しい!」

 愛羅の頬は、ますます赤く色付いた。愛羅の頬の美しい赤色には、ストロベリーもラズベリーも敵わない。

 愛羅は、ごく自然に、兄の家に住むようになった。不思議なことに、お金持ちで、服も、靴も、たくさん持っている愛羅が、兄の家に引っ越しても、たいして荷物は増えなかった。

「愛羅、お兄ちゃんのとこに引っ越したのでしょう? 荷物、全部、持って来たの?」

「荷物? ああ。ほとんど捨てて来た」

「はあ? 実家に置いて来たんじゃなくって、捨てた? なぜに?」

「一緒に暮らすのに、必要なものって、少ない。必要なら、これからは二人で買う。鱗ちゃんの好みもあるでしょ?」

「愛羅はお金持ちかもしれないけど……お兄ちゃんは、貧乏だと思う……大丈夫? 後悔、しない?」

 愛羅は突如、擦り切れた畳の上に、膝を付いた。両手を祈るように組む。天を仰いで、呟き始める。

「純白のドレスに身を包んだ愛羅は、今、誓います。鱗ちゃんを愛しています。我が身の滅びるその時まで、鱗ちゃんだけを愛します。鱗ちゃんの色に染まります。ものなど要りません。我が身一つでいいのです」

 愛羅の突然の奇妙な行動には、慣れていた。

(どうせ、アニメのワンシーンを真似ているんだから)

 真っ赤な海外のブランドのパーカーを着た、花嫁とは、ほど遠い姿でひざまずく愛羅に、呆れた視線を向けた。

 でも、愛羅の滑稽なまでの一途な姿は、笑い飛ばすには、哀しいほどだった。笑い飛ばせない私の瞳から、気付けば涙が溢れていた。

                                つづく

 

 



 

 

 

 

 

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