第3話 鱗太に恋人? 愛羅との出会い
一度目と、まったく同じ目覚めだった。
(最悪……どうやら私は、自殺を繰り返しても、未遂に終わる運命だ)
でも、これで兄は、今まで以上に私の〝お母さん〟になる。私が心配で、いつでも視界に入るところに存在し続けるだろう。
退院を迎え、家に帰る。兄は、前と同じように、私に背中を差し出した。
「ほら! 体力落ちてんだから。負ぶってやるわ」
二階の私の部屋まで、運んでくれた。兄の背中に身体を預けながら、しばらくは私に至れり尽くせりであろう兄の姿を想像した。幸福感に包まれた。
ところが、私をベッドへ降ろす兄の所作は粗雑だった。ベッドへ落下はしたものの、私の痩せた身体は奇妙にスプリングした。バランスを崩し、転げ落ちそうになった。ベッドシーツに、骸骨みたいな手で
(乱暴じゃないのさ!)
声は出なかった。でも、心の声は表情に出したはずだ。
慌てて手を差し伸べ、大丈夫かと聞いてくれると信じた。
だが、兄の顔は、私の作った怖い顔なんか簡単に引っ込むほど、厳めしかった。
(お父さんと、全然似てない……
十四歳になっても、妖怪に例える癖は、四歳の頃と変わらない。
くっきりした二重に大きな目。眉は濃く、鼻も口も大きい。堀の深い兄の顔は、きっと一般的には、普段でも寄り付き難い。眉を吊り上げ、大きな目を見開かれれば、私だって少しは怖い。でも、妖怪に例える。どうやっても、兄は兄だから。
「砂羽! 今迄のお兄ちゃんは、もうおしまい! いつまでも砂羽に甘くては、ダメなんだって! 自殺に失敗して、懲りて欲しかった。なのに、また仕出かすなんて! 手首の傷を増やせば、砂羽の心の問題が解決するってわけじゃないだろ? お兄ちゃんに吐き出すかと思った。でも、なんど聞いても、心の奥底は言葉にしない! 大事なことに沈黙を貫くなら、もう、自分で解決しろ!」
「自分で解決できない。だいたい……一番の問題がなにかも解らない。沈黙を貫くなんて、かっこいいものじゃないんだよ」
「砂羽に解らないもの、お兄ちゃんにも解らない。砂羽が答えを見つけろよ。お兄ちゃんは、
「家を出て、どこに行くのさ? どうして私を置いて出て行けるのさ? いつも私の
「別に、もう会わないわけじゃない。いつでも会える。でも、お兄ちゃんは砂羽から離れたほうがいいんだ。家が離れるって、現実の距離の問題じゃないんだ。精神の問題! お兄ちゃんが離れれば、砂羽も少しは、成長できる」
いつだって、私を子供扱いしてきた兄が、急に難しいことをほざく。
私は、高を括っていた。兄が、私を置いて、出て行くはずがないと。兄だけは、私の思い通りだと。
ことは、私の想像通りには運ばなかった。
二、三日後だったろうか。二階の自室にいた私の耳の鼓膜を、階下の居間にいるらしい兄の、大きな声が震わせた。父と話していたのだろう。
「だから、砂羽がいつまでたっても子供なんだよ!」
父も、大きな声を上げる。
「違うだろ! べつに、鱗太を責めてない! お父さんにも、どうにも砂羽ちゃんが解らない、困ってるって、お前に泣き付いてるんだよ。頼むから、出て行かないでくれって。砂羽ちゃんも思春期だ。女の子だ。でも、女親はいない。どうにもならないことだ。だけど、砂羽ちゃんは誰より鱗太を頼りにしてるんだよ」
「だからなに? 親父が、頼りになる親父ではなかった。そんだけのことだろ? なんで俺に……」
「不甲斐ない親だと認識してるわ! だけど、鱗太が砂羽を置いて出てったら、砂羽がどんなに傷つくか……お父さんは、砂羽が傷つくのだけは、解るんだよ! 砂羽が傷つくのは、とても怖い」
私は、自室の部屋の戸を開けた。より、鮮明に耳に届くよう、階段の所まで移動する。喧嘩は嫌いだが、盗み聞くべき喧嘩に違いない。
「親父はさ、『自分には、砂羽の気持ちが解らない』って、そればっかな! 砂羽がかわいそう。でも理解してやれない。だから鱗太が構ってやれ? いっつもそんな調子。僕は? 僕はかわいそうじゃない? お袋がいないのは、僕も同じよ! 僕も、子供だったわけよ。なんで俺だけが、自力で大人にならなきゃいけなかったのさ! 親父は、俺のことだって、まるで解ってない! だいたい、お袋のことだって……」
「黙れ!」
「そうやって、都合が悪くなると黙らせる! もういい! 決めたんだ。決心は揺らがない! 俺は、出て行く!」
ドタンッ、ガタンッ、ガシャッ、と、大きな物音が続き、最後の音に、私は兄が、本当に家を出て行ったと知った。
バタンッ!
恐る恐る階段を降りる。居間の父の様子を窺う。兄よりずっと小さい、丸めた背中が見える。着古して色褪せたポロシャツの背中の糸が、
「ねえ、お父さん。お兄ちゃん、すぐに帰って来るよね?」
父の肩が、私が驚かせたことに気後れするほど、びくりと大きく上下した。
振り向いた父は、ふやけたみたいな
「ああ、砂羽ちゃんか……身体は、大丈夫か? 鱗太ねえ、部屋を借りたそうだ。別に、いつでも遊びに行ったらいいさ。電気工事士になって働いた金も、少しは溜まったみたいでな。一人前になった気でいるんだよ。まさか……彼女でもできたのか? しょうがないわな。これからは、お父さんがなるべく砂羽ちゃんと一緒にいるね」
(お父さんに、一緒にいてもらいたいわけじゃないんだよ。お父さん、まるっきりずれてる)
用意した言葉は、相変わらず泡となって口の中で弾ける。唾が溜まる。首だけ、頷く。
「なんにも心配要らない。あのさ、砂羽ちゃんが死……消えてしまうなんてことになったら、お父さんだってお兄ちゃんだって、とっても辛いし悲しいんだよ。ね、悲しいの。淋しいの。だからね、消えたりしないでね。怖いこと、しないで。砂羽ちゃんは、お母さんが命懸けで生んだ、大事な命なんだから。粗末にしないでね」
「うん」
頷くのは、実に簡単だ。父の言葉のどれ一つも、まるで私には響かなかったのに。
ただ、兄が出て行った事実に、衝撃を受けていた。
兄は、私から離れない。不確かな現実の中で、唯一それだけは、確かなことのように思っていた。なのに、手首まで切っても繋ぎ止められなかった。
(自分勝手に出て行った。お兄ちゃんに裏切られた気分だ。信じてたのに。嫌な目に遭うのは、嫌なんだって! 嫌なことから逃れたいんだって! だから、死んじゃいたいんだって! どうして、どうして死なせてくれなかった……)
死に損なったら、家から兄がいなくなった。家は、虚しいものに変わった。空気に色があるとしたら、きっと、家の中の空気の色が変わってしまった。
いつもがらんとして、悲しみの色が、家の中に充満している。
(お兄ちゃんのいなくなった家は、苦しくっていられない)
兄の構えた新居は、鶯谷の駅から歩いて五分の、古いアパートの二階だ。
便利はいい。
私と父の残された、兄とずっと暮らした一軒家は、田端駅から歩けば十五分ほどの場所にある。山手線なら、たった三駅。少し頑張れば、自転車で行かれる。
兄の独立にかなりの衝撃を受けたわりに、私の切り替えは早かった。
しょっちゅう、兄の家を訪れた。
線路沿いに位置するアパートは、心臓の弱い人には絶対不向きだ。まずは、近くの踏切の警報音に、心臓をどきっとさせられる。やかましい。一定のテンポの警告音にようやく心臓が慣れた頃、黄緑色を
雨風に晒され、塗装の
何度目かに兄のアパートを訪れた時、揺れる階段に、思わず、頼りない手摺に捕まりながら、突然、思い出した。
「お母さんの真似事はやめる!」
死に損なった私を前に、苦しそうに言葉を吐き出した兄の目に、涙が溜まっていたことを。
(お兄ちゃんを、私のお母さんにしたら、いけないのかも……)
胸の内に、いつまでも鈍感を装う自分を咎める声がした。でも、口から出ない言葉は、轟音と騒音によって、簡単に消し去られた。
私には、元々いない母親がどんなものか、知る術もない。仮に兄が、お母さん役を一生懸命に熟していたのだとしても、私の兄とは、それだ。お母さんでもお兄ちゃんでも、とにかく、唯一の兄だ。兄の複雑な心境など、解りようもない。
足元の揺れる階段の上で、ぶんぶんと首を振る。
小さい頃、私を膝に乗せて絵本を読んでくれたのは、兄だった。一緒にお風呂に入り、同じ部屋に寝て、雷が鳴れば、「怖くないよ。お兄ちゃんがいるから」と、私が安心して眠るまで、ずっと抱き締めていてくれた。
髪を梳かし、時に三つ編みにしてくれたのも、保育園で使う、巾着袋を縫ってくれたのも、兄だった。
たくさんの目に見えることは、成長と共に自然に減っていったが、兄は私にとって、誰よりも大切な家族だった。
母親役でも、兄貴役でも、私には、どうでも良かった。
(どうして兄は、出ていったのだろう)
私の胸の奥に、大量の水が、噴き出したくてうずうずしていた。
兄が家を出た理由を考える行為が、溜まった水を、噴水みたいに勢いよく噴出させる、突破口になるに違いなかった。
でも私は、じわじわせり上がる水に、必死で蓋をした。
だから、私を突き放した兄の家に、まめに出掛けては入り浸った。
「鍵、ちょうだいよ。お兄ちゃんのいない時、入れないの困る。いつでも来ていいんでしょう?」
次の日、兄の手から合鍵を渡された。
(なぁんだ。お父さんの言った通りかぁ。お兄ちゃん、大人になったって、アピールしたかっただけなんだ!)
胸の内から湧き出したがる想いに、嘘の蓋を被せた。
しかたなかったんだ。言い訳がましいけど。
住み慣れた家より、兄が新しく(古びた安アパートではあるが)構えた住まいのほうが、ずっと自分の居場所のような気がしたから。空気の色の中に、温かみが感じられたから。
私はきっと、兄の纏う空気に、居心地の良さを感じていた。
兄さえいれば、ほっとした。いつも変に強張った全身の力が、兄の存在する場所でだけは、抜けるようだった。
(やっぱりお兄ちゃんは、私の唯一)
学校には、行ったり行かなかったりだった。けれど、兄の構えた家は、私に新しい安らぎの場所を与えてくれた。
擦り切れだらけの畳の上に転がって、服に
手首の傷を眺める。
(私も、十四歳にして、擦り切れて香りのなくなった、藺草みたい……いいんだ、私は。嫌なことは嫌なんだから。嫌なことに向き合えない、軟弱者なんだから。辛くなったら、また手首を切るだけなんだから。お兄ちゃんの家には、なにも嫌なことはないから安心)
兄の家に、すっかり馴染んだ頃だった。
その日も、慣れた手付きで、兄の家の玄関を開けた。足が止まった。
女性用のスニーカーが、狭い玄関に、きちんとお行儀よく揃えられていた。私の物とは、明らかに違う。きっと、有名なブランドの物だ。ブランド品とは縁がないから解らないけれど、「高級だぞ」というオーラが、スニーカーから醸し出される。
流行の厚底だ。でも、威圧感はない。白を基調に、ピンク色と水色と黄緑色の細い線で、花やら鳥やら草やらの模様が描かれている。華やかだが、押し付けがましくない。私を圧倒するセンスの良さだ。
どうやっても褒めるしかないスニーカーを前に、背筋がぞわりと凍てついた。
「砂羽か? 上がれよ」
いつもは、上がれよ、だなんてわざわざ優しい言葉を掛けない兄が、奥から声を掛ける。
玄関からほんの少しの廊下を抜けて辿り着く部屋の入り口から、ひょこっと見知らぬ女性の顔が見えた。
「こんにちは! 初めまして。砂羽ちゃん、ね? 私、
いつか来ると、覚悟していた。だから時々、頭の中でこの日を想像した。
女性の顔は、妖怪〝のっぺらぼう〟だった。
(お兄ちゃんに彼女なんて、まだまだ先だな)
簡単に、胸の内で紙に
なのに、のっぺらぼうじゃない、目も鼻も口もある女性が、目の前に現れた。現実だ。
私は兄にとって、〝妹〟という、絶対に奪われないポジションに位置していることを、十分に理解していた。だからこそ、〝彼女〟と呼ばれるポジションには絶対にならないのも承知していた。だけど、兄は私のモノだ、という感覚だけは、どうにもならなかった。
「こんにちは。初めまして。砂羽です。霧島砂羽です」
わざわざ苗字まで名乗ったのは、(私は、兄と同じ苗字なんだぞ!)と、
普段、他人に興味のない私は、誰かをじっと観察することなどない。でも、愛羅は別だ。見開いた目が乾いて、何度も瞬きを挟みながら、私は愛羅を観察した。
髪は、金色に近い茶髪だ。巻き髪なのか天然なのか、くるくるした髪は、肩に掛かるくらいの長さだ。右側の耳の上で、片側だけを、可愛らしい星型の、焦げ茶色の髪留めで止めている。茶色の髪留めは、たかが星型なのに、憎らしいほどセンスがいい。残念なほど、安物には見えない。
目は、しっかり引かれたアイラインと、びっくりするほど長く上向きにカールした
鼻は小さく、つんと上を向いている。意地悪そうな鼻だ。良かった。
口は小さいが、唇にはふっくらと厚みがあり、たっぷり塗られたグロスが、私よりずっと大人の女と語っていた。女性の嫌いな唇に違いない。男を魅惑する唇と呼ぶのか? 兄は、ふっくらした唇になんか、興味ない、はずだ。
派手な化粧とは裏腹に、服はカジュアルで、気取りがない。
上品なリボンで襟元を結ぶスタイルの、白の、ふわっとしたブラウスに、タイトなジーンズ。二十歳前後の、健康的な体格に、とても似合う。癪に障るほど垢抜けていて、お洒落で、素敵で、褒めるしかない。口には出さないが。
兄は、まるで関係ないかのように、窓際の壁に寄り掛かり、畳の上に長い足を延ばして座っている。漫画本を読んでいる。
「ちょっと、
私に自己紹介したのと打って変った、馴れ馴れしさと甘えを声に
(ああ、嫌だ! 嫌なことが、起きた!)
最初から気に入らなかった愛羅への嫌悪感に、拍車が掛かる。
(死んでやる! 死んでやる! 兄と愛羅を見続けるなんて、耐えられない!)
私の中に、微かに、三度目を実行しようという想いが首を
「もう! 鱗ちゃんが紹介してくれないなら、いいよ! えっとね、私は……
意外だった。派手な顔に似合わない、愛羅の控え目な自己紹介が。心臓がどきっとした。もじもじする愛羅は、可愛かった。
すかさず兄が、ぼそっと呟く。
「なにが『お友達です』だよ! 彼女! 砂羽、愛羅は俺の恋人! 俺の大事な人! だから砂羽、仲良くしてよ」
私と兄の間に、見えない間仕切りが置かれた。
私のモノだった兄が、遠い人になった。
じんわり瞳に溜まって来るしょっぱい水を、流してなるものかと
「嫌だ、鱗ちゃん……なんだか照れるじゃん」
(ああ、マジ嫌だ!)
嫌悪感を覚える。でも、嫌だと思うほど、愛羅に視線は奪われる。目で追えば追うほど、愛羅は魅力的だ。
愛羅は、兄に恋をしていた。兄に恋する愛羅に、私が恋しそうだ。愛羅の兄への気持ちが、全身から滲み出ている。私が目で追う愛羅の視線は、いつも兄を追っている。金の粉が噴き出しているみたいなキラキラした瞳で、兄を見詰める。
憎らしい。でも、可愛らしく魅力的だ。愛羅の素直な想いは、私に伝わる。いい人かもしれない。なのに、いい人だなんて思うのも、癪なんだ。
どういうわけだろう。複雑な感情は、自殺三回目の決行を、延期に導いた。
運動会の延期は、雨降りの時だけど、自殺の延期は、どうやら晴れ間が見えた時らしい。
死んでしまうのは簡単だ。でも、愛羅や、愛羅を恋人にした兄が、この先どうなって行くのか、意地でも見届けてやる。奇妙な生への執念が、私に芽生え始めていた。
(自殺なんか、いつだって決行できるんだから。同級生に苛められたけど、関りの薄い同級生ばかりだった。どうせなら、関りの濃い兄と、ひょこっと登場した愛羅の、この先のドラマに参加してやる! 兄は私のモノだったんだから。簡単に愛羅にあげて、「はい、さよなら! 私はお先に逝くね!」じゃ、つまらない!)
珍しく積極的な私の心は、悪魔的要素をふんだんに含んでいた。
だけど……興味を持つって、きっと、生きるに繋がるんだよ。例え、悪魔的要素を含んでいても。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます