第2話  死にたい気持ちは、消えはしない

 私には、母がいない。

 父から聞いた話では、兄の鱗太りんたが生まれてから、7年も経って私を身籠った母は、身体の調子を悪くした。医者は、出産は諦めたほうがいいと勧めたのに、母は、せっかく授かった命だから産むのだと、医者の忠告を無視した。

 出産して間もなく、母は亡くなった。

「お母さんは、砂羽が大事だったんだ。自分の命と引き換えにしてでも、守りたい命だったんだよ」

 ほかの大抵の子供にはいるらしい〝お母さん〟と呼ばれる存在が、私にはない。ぼんやり気付いたのは、三、四歳の頃だったろうか。

 だからと言って、悲しいとか、淋しいなんて感情は、なかった。元々いないのだから。だが父は、私の顔を見れば、繰り返すようになった。

(子泣き爺に似ている)

 全体的に顔の造りの薄い父が、私に語る時は、必死の形相に微笑みを張り付けていた。かなり不気味な父の顔は、兄が私に見せてくれた、妖怪辞典の子泣き爺にそっくりだった。

 保育園に上がったばかりの私には、父の言葉などまるで響かなかった。ひたすらに子泣き爺と父の顔を重ね合わせた。父は妖怪かもしれないと、感慨深く、父を見詰めた。

 七つ年上の兄は、父が必死に私に語り聞かせる近くで、いつも怖い顔をしていた。柱に凭れ掛かり《もたれかかり》、黙って唇を噛み締めていた。閉じられた唇の内側には、数多の言葉が押し込められていたかもしれない。

 怖い顔とは裏腹に、とにかく優しい兄だった。

「砂羽、大丈夫だから。お兄ちゃんが砂羽ちゃんのお母さんになってあげるから」

 口癖のように繰り返した。

 兄は、言葉の通りに、洗濯から掃除、食事の支度まで、できうる限り全てを引き受け、私を誰より可愛がってくれた。

 私には最初から、母はいない。ほかの子供ならきっと、母に満たしてもらうのであろう愛情という名の器は、兄に因って、いつだって、溢れるばかりに満杯だった。

 他からどう見られるかはともかく、父と兄と私で構成される家族は、私には当たり前の〝家族の形〟だった。母がいなくて淋しいという感情は持ち合わせないまま、中学生になった。

 だから、私の自殺未遂は、母がいないこととはまるで関係ない。

 私が言い切るのだから、間違いない。なのに、父と兄は揉めた。父は兄を責め、兄は父を責めた。母がいない埋め合わせができていないのは、果たしてどちらだと責め合っていた。

 病室の外で、ひそひそと言い合う声は、次第に大きくなり、私の耳にも届いた。

「お母さんがいないことと、なにも関係ない! どうしてお父さんとお兄ちゃんで、責め合うの? 原因はなにか、直接私に聞いたらいいじゃない! 自殺を図ったのは、私だよ!」

 言葉はいつものように、私の唇の内側に、順序までも正しく、準備されていた。

 だけど、口から発せられることなく、口の中で膨らんで、破裂して、萎んだ。

 父も兄も、私には嫌なことは、一切、報告しない。だからどうせ、尋ねたところで、喧嘩なんかしていないと誤魔化すか、喧嘩していたことまでは認めても、理由なんか述べない。

 私を、理解力のない、子供だと思っているから。

 自殺が未遂に終わり、意識の戻った私に、病室で兄は、優しく尋ねた。

「砂羽。どうして死にたくなっちゃった?」

 口の中に溜まった単語を、連結させ、列車にした。見えない線路の上に、言葉の列車をそっと乗せて、発車させようとした。

 だけど、発車までには時間が掛かる。

 いつもは気の長い兄が、その時はせっかちだった。のろまな私の列車が、唇という名の、重たい扉を開けて発車するのを、待ってはくれなかった。

 兄の唇が動いた。兄の列車は、超特急だった。

「お兄ちゃんが頼りないから、悪かったね。お兄ちゃんは、勝手に砂羽のお母さんのつもりだった。完璧に熟せてるなんて、自意識過剰だった。やっぱり、お母さんではないからさ。お兄ちゃんはお兄ちゃんだから。お母さんにはなれないよ。砂羽が、酒を飲んで手首を切るのを、めることすらできなかった。もう辞める。真似事は。懲り懲りだ! 飯事ままごとしているわけじゃないんだから」

 兄は私の〝お母さん〟だった。ずっと。

 高校を卒業して、働き始めても、変わらず〝お母さん〟だった。

 私を可愛がり、時に叱った。高熱を出せば、背中に担いで、近所の医者へと一目散に駆け込んだ。私の背丈が伸び、体重が増え、小さな子供でなくなっても、相変わらずの〝お母さん〟だった。

 まがい物の〝お母さん〟だと、兄が思っていたことが、衝撃だった。

(お母さん役を辞するってこと? 意味が解らん!)

「お兄ちゃんが、砂羽のお母さんになる!」

 自信がなかったのは、きっと兄のほうだった。決まり文句を繰り返し、自分を奮い立たせていたのだろう。

 兄は、決まり文句を消滅させようとしていた。

 不穏な空気を感じる私に、兄は、追い打ちの一言を付け加えた。

「お兄ちゃん、近い内に、あの家を出て行くからね。それが砂羽のためだし、お兄ちゃんのためでもある」

(なに? 出て行く? お兄ちゃんが、傷付いた私を置いてくなんて……薄情なこと、するはずないよ! 違うよ! 有り得ないよ! 私、寝惚けているんだ。まだきっと、夢の中にいるんだ……)

 死に損なった頭は、不穏を打ち消す。ぼんやりと、逃げる道を探す。

 死に損なった私は、退院を迎えた。

(ずっと病人でいたい……現実から、ずっと逃避していられるもの……)

 兄は、退院して家に帰った私に、以前より一層優しかった。

「一緒にご飯を食べようね。入院している間に、随分痩せてしまったから。少しずつでいいから、元気にならなくっちゃ。砂羽の食べたい物、料理するから! 兄ちゃんに作れない物なら、買って来るから! アイスでも、ケーキでも、兄ちゃん、走って買って来るから!」

 返事はしなかった。〝お母さん〟の兄なら、黙っていたって通じるから。

 次に部屋に現れた兄の手の上には、私の好きな、チョコレートの掛かったアイスクリームが乗っていた。

(欲してたぁ~! なんで解ってしまうのだろう? やっぱりお兄ちゃんはお母さんじゃん!)

 兄は、スプーンに載せた絶妙な量のアイスクリームを、完璧な角度で、私の口の中に運ぶ。

(お母さんって、実際どんなん? お兄ちゃんは、私にとっては、完全無欠! 私には、お兄ちゃんさえいればいいんだって!)

「ドラマ、一気見いっきみしようや! 砂羽が感動して、絶対泣くドラマ! 全十五巻、借りて来たからさ! 兄ちゃんの好みじゃ全然ないんだぞ! でも、付き合ってやる。砂羽は、お子ちゃまだから! しゃあない」

「私が感動して泣くかなんて、見なければ解らないじゃん……」

 兄の強行な誘いに、しぶしぶテレビの前に座る。

 私は何もしない。兄がDVDをセットするのを、ただぼーっと待てばいい。

 ドラマの内容は、確かに、兄の好みとは掛け離れていただろう。

 物語りは、主人公の少女、アンナが、五歳の誕生日に、キラキラと眩いペンダントをパパからプレゼントされるシーンで始まる。

「マミーの形見だよ。マミーがとても大事にしていたネックレスだから……身に付けていれば、この先、いつもきっと、マミーがアンナを守ってくれる」

 ルビーの周りにダイヤを散りばめた、ゴージャスでラグジュアリーなペンダントは、五歳のアンナには、似つかわしくない。

 でも、キラキラしたペンダントに、アンナは大喜びだった。

(解ってる! 幸せ一杯のシーンから始まるお話は、直後に不幸が待ってるの)

 私の予想は当たった。

 アンナのパパは、アンナにペンダントをプレゼントした翌日、忽然と姿を消す。

 アンナは、パパが大好きで、パパを信じていた。

「パパが私を置いていなくなるなんて……絶対に、ない!」

 だが、小さなアンナに、姿を消した父の謎を解くだけの知恵も力もない。

「パパはね。アンナのママが死んでから、小さなアンナを育てるのに、ずっとくたびれていた。逃げ出したくて堪らなかったんだろうよ。仕方ないさ。許しておやり」

 アンナを取り巻く周囲は、父はアンナを捨てたのだと嘆いた。

「かわいそうなアンナ。かわいそうに……」

 アンナを抱いて、涙を流した。

 だけど、アンナはあっさり施設に預けられる。お城みたいな大きな家に住んでいたアンナは、パパだけでなく、何もかもを失った。ただ一つ、ルビーのネックレスだけを手元に残して。

 五歳のアンナは、大きな家を失っても、別に悲しくはなかった。ただ、「パパがアンナを捨てた」と、いろんな人に嘆かれることだけが、悲しかった。抗いたかった。

(お父さんは、私を捨てたりしない!)

 幼いアンナは、頼りない知恵で、必死に父を探し始めるのだが……

 全十五巻には、五歳のアンナが二十五年の時を掛け、父の失踪の謎は解き明かすストーリーが収められている。

 ほのぼのした、父と娘の愛の物語かと思っていた。

 違った。殺人、暴行、裏切り、深い闇と哀しみ……

 私は、一本見終えるのに、五回は笑い、十回は泣いた。

 私の横に座りDVDを鑑賞する兄は、私が笑うと笑い、私が涙を零すと、私の頭を撫でた。

 DVDは、一気見は出来なかった。

 自殺を企て、何日も生死を彷徨い、体力の落ちた私。五回も細々と笑い、十回も涙を流せば、くたくたで座っていられなかった。

 兄は私を背負って、部屋のベッドに運んでくれた。兄の布団も、私の部屋に運び入れた。

「いつでも起こしてくれればいいから。兄ちゃんは、ずっと、砂羽のそばにいるから。明日、また一緒に、DVDの続きを見よう」

 くるりと背を向け、横になる。

 痩せてはいるが骨太で、ごつごつした大きな背中は、私にとっては、お母さんの背中だ。

(お兄ちゃんは私のお母さんだもの)

 病院で、兄の口から出た言葉は、やはり幻聴に違いないと、眠りについた。

 兄の献身的な介護は、私の身体を、次第に回復させた。

 生々しい手首の傷だけは、「私は死のうとしたんだよ!」と叫んでいたが、病院では、学校に行くことに問題なし、と判断された。

 おかしなものだ。身体が元気になれば、心も元気になるってわけじゃあ、ないだろうに。

「学校に行かれるの? 嫌なことは……死にたくなるようなことは、学校で起きたのじゃあないの?」

 兄は、何度も私に尋ねた。

 自殺の原因について、私は一切語らなかった。

 どうしてかは、自分でも解らない。

「生きることが……辛く思えた」

 ひたすら、漠然とした言葉を繰り返した。

 もしかしたら、自分自身、気付いていたのかもしれない。

 自殺の原因は、直接的には〝苛め〟だ。だけど、根本的な……もっと深く掘り下げてみたら、自殺の理由は、どうしようもない自分自身への不満や腹立ちといった、案外漠然としたものだと。

「どうしようもない自分は、どうして、どうしようもないのか?」

 答えを出すには向き合うしかない。だけど、向き合えないから逃げた。

 ずっと傍に付き添ってくれた献身的な兄にも、〝苛め〟のことも、私の抱えるなにかについても、結局なにも伝えられなかった。

 だから、身体が回復したら、なにも解決していないまま、なんでもない顔をして、学校に行くしかなかった。

 当然、とてつもなく不安だった。怖かった。

 制服を着た背中には、びっしょりと嫌な汗を掻いた。顔色だって悪かったに違いないから、兄は実のところ、なにか勘付いていたかもしれない。

 自殺未遂後の初登校は、学校まで兄が送ってくれた。

 兄は、先生とも、話をしたようだ。

 なにを話したのか、私は知らない。いつものことだ。

 兄と先生の話の内容は知らないが、〝苛め〟はなくなった。

 私を苛めていた女子たちは、自殺の原因として、名前を挙げられるのを恐れたようだった。

 気持ち悪いほどに優しくしたり、もしくは遠巻きにして、関りを避けた。〝苛め〟と取られる行為や言語を避けるには、関りそのものを避けるのが賢いと、知っていたのだろう。

 それはそれで、不気味ではあった。でも、随分と呼吸し易くなった。

 学校生活に復帰して一か月、兄は、ずっとタイミングを見計らっていたようだ。

「お兄ちゃん、この家、出るよ」

(夢じゃなかった! 幻聴じゃなかった!)

 仄かな記憶が呼び起こされた。

「そんなの……嫌だよ。お父さんだって、ダメだって怒るよ! 私のお母さんをするって言い出したの、お兄ちゃんでしょう? お母さんがいないんだから、お兄ちゃんは、私の傍にいてよ。いなくなるのは、ダメ……」

 駄々を捏ねた。小さな声で、兄に聞こえないように。

 二回目の自殺は、シナリオなんかない。派手な演出もない。

 ただ簡単に、死にたくなっただけだから。

(どうでもいいから、なんにも感じない場所に行きたい。生きる意味が解らない! 別に私、頼んでない! お母さんの大事な命と引き換えに、生んで欲しいなんて、これっぽっちも願わなかった! 生きていることの嫌なことなんか、一つだって我慢できない!)

 ナイフで自分の身体を切るのは、とても痛い。

 痛いのは、実際には切れた後だ。ドクンドクンと脈打ちながら、血がだらだら流れ出す頃から、痛み始める。

 迷いながらよろよろとナイフで傷を付けると、ナイフがよろよろしている間、ずっと痛い。

 当時の私にとって、〝生きる〟とは、ナイフでよろよろと、ずっと身体に傷を付け続けることのようだった。

 思い切りナイフを引けば、引いた瞬間はそんなに痛くない。暫くの辛抱のあとで、きっと、痛みも、傷みも、何も感じない場所に行かれる。

 理解していても、どんなに死にたくても……なかなか思い切り、カッターナイフで自分の手首は切れないんだ。

 だから、威勢よくするために、なにかを誤魔化すために、お酒の強いのを煽るんだよ。

 強いお酒も、一気には飲めない。むせる。でも、飲み続ける。その内、脳味噌が腐ってくる。腐りきる前にやるんだ!

 一気にカッターナイフを引く。

  シュパーン

                               つづく


 

 

 

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