泥水の中の金魚たち
四十万胡蝶
第1話 自殺未遂
私の左の手首には、傷跡がある。もう古傷だ。傷が生々しかった頃は、ずいぶんと死にたかった。だから、傷跡はひとつじゃない。
初めて手首を切った時、傷からだくだくと赤い血が流れるのを、朦朧とした意識の中で眺めながら、ようやくこれで、心に傷を負うことから解放されると、幸せな気分に浸っていた。
大量のアルコールを摂取して、脳味噌がいかれた勢いで、夜中の風呂場に鍵を掛け、浴槽の中でカッターナイフを思い切り引いて、手首を切り裂いた。
少女漫画みたいに、綺麗に逝きたかった。
だから、演出も怠らず、用意しておいた真っ赤なバラの花びらを浴室中に散らし、そのまま意識を失った。
「救急車! 救急車、呼んで!」
「
「砂羽! 砂羽! 頼むよ。戻って来て」
ピッ ピッ ピッ ピッ
(夢の中? それとも死んだのだろうか?」
「砂羽、砂羽ちゃん。早く気付いてくれよ」
「目を覚ませ! 砂羽」
「
「先生、霧島さんの意識が戻ったようです」
「霧島さん、霧島砂羽さん。解りますか?」
ピッ ピッ ピッ ピッ
(うるさいなあ。ピッピピッピと、なんの音よ……)
(明るい……ここは……どこ? 生きてる?……死ねなかった……死に損なった…)
「霧島さん、解る? 病院ですよ。ずっと意識がなかったんですよ。解りますか? 思い出せますか?」
最悪の気分だった。自分が死ねなかったことに気付いた時は。うるさい音の正体が、私にくっつけられた、心臓の鼓動をご丁寧に音に変え、生きているのを主張する機械から発しているのが解った時は、がっくりした。
(この心臓に、止まって欲しかったんだよ!)
父と兄の顔があった。
「良かった。無事で、本当に良かった」
一回り小さく見える父は、そう言って泣いていた。背の高い兄は、父の隣に、不機嫌そうな顔で突っ立っていた。
(なにも良くない)
心の中で呟いたけれど、
「ごめんなさい。心配掛けて」
掠れ声で口から吐き出されたのは、お利口さんの謝罪だった。でも、酸素マスクも装着していたし、なんだか喉にチューブも入ってたみたいだし、声にはならなかったと思う。
だから、安心して黙っていることにした。
「二度とごめんだぞ、こんな悲しいことは。自殺に走るほど、なにが苦しかったんだ? 生きていれば、誰にだって、嫌なこと、辛いことくらいあるさ。でも、生きるんだよ。人間ってのは、そういうものだ」
父の言葉に、首を横に振りたかった。なのに、頷いた格好になった。
私は、どこかが人とずれていた。
でも、当時中学二年生だった私には、どう他の人とずれているのか、解らなかった。
成績は中ほど。身長も体重も中ほど。五十メートル走のタイムも中ほど。とりたてて変わってなど、いないはずだった。
中学で仲良くしていた友達の
「どうして無視するのよ! 私がなにしたって言うの? なにが気に入らないのさ? 無視なんか決め込まないで、文句があるならはっきり言葉にしなよ!」
そう詰め寄ることを、私はしなかった。
無視したいのなら、仕方ない。独り、静かにしていた。
その内、絵里香だけではなくなった。絵里香を囲んで数人が、私を指さし、ひそひそするようになった。なにを喋っているかも不明だったし、自分の噂をしているのかも確かではなかったから、尚一層、沈着を装った。
数日後、教室の黒板いっぱいに、私の悪口が書かれていた。
しょうわる砂羽! 死ね! 性格ドブス! この世の悪‼
横取りはやめてください! ええかっこしい
バーカ ぶす 祟られろ‼
気取るな! 消えろ! 消えろ‼
気持ち悪いんだよ! くっさー
汚染物質‼ 空気がケガレル ブタ ケダモノ ゲス野郎
呆然と立ち尽くす私の耳に、けたたましい笑い声が響く。教室の中を見渡すことができなくて、何人に笑われているのかまで、解らなかった。
でも、高音あり、低音ありの、男女入り乱れた大勢の笑い声であるのは、確かだった。
「気取ってんなよ! 澄ましやがって。きもちわりーんだよ! 空気が悪くなる」
ソプラノの声を持つ、誰かが叫んだ。
「ドブスのくせに、澄まして人の彼氏を横取りしたんだよ。サイテー! でしょ? 絵里香~」
ギスギスした声は、私を無視するようになった絵里香が連むようになった
「
絵里香だった。顔を覆って泣き始めた。大袈裟に鼻を啜る。
「かわいそう、絵里香」
絵里香の肩を、真昼が
まるで、身に覚えのないことだった。酒井くんは、私にとって、クラスメイトの一人に過ぎなかった。
実のところ、絵里香が酒井くんを好きであることすら、知らなかった。だから、放したい言葉は、心の中には充分に用意された。
「なんの話よ! 私、なにも知らない! 絵里香が酒井くんを好きだなんて、聞いてない! 酒井くんとも、特別親しくないじゃない? 嘘つかないでよ!」
でも唇は、まるで瞬間接着剤でくっつけたみたいで、用意された言葉のただの一つも発せられなかった。
黙って、席に座ろうとした。座ろうとした椅子を、誰かが蹴った。
派手に転んだ。笑われた。
翌日から、私は学校に行く度に、なにかを失い、なにかを壊され、なにかを汚された。
例えば、上履きだったりノートだったり、体操服だったりしたわけだけれど、汚され壊され失って行くのは、取るに足りない物に過ぎないと、必死に自分に言い聞かせた。苛める奴等に、抵抗なんかしなかった。現実の世界から逃避するのは、簡単だったから。
頭の中で、ひたすらシナリオを書き続けた。自分を悲劇のヒロインに見立てた、自殺のシナリオだ。
漠然としていた自殺遂行のシナリオは、制服にインランと書かれ、頭を思い切りトイレの便器に突っ込まれ、皆の前で服を脱がされ、加速する苛めと並行して、完成に近付いた。
因みに、真っ赤なバラの花弁を散らす、最高の演出は、トイレの便器の中に思い切り顔を突っ込まれた時に閃いた。ちかちかする、火花みたいな、頭と目の痛みと共に。
仕上がったシナリオは、寒い冬の夜、風呂場にて上演された。観客は、誰もいなかったけれど、私は酔いしれた。
「これでようやく、苦しみから解放される。辛かった。本当は、毎日とっても苦しかった。絵里香。真昼。これで許してあげられる。だけど、だけど、自殺に追い込んだのは、あなたたちなんだから。お兄ちゃん、お父さん、今日までありがとう。ごめんね。助けを求めることができなかった。ごめんね」
やっと口から言葉を吐いた。正直だったろうか。女優気分に浸って、綺麗ごとを並べただけだったたかもしれない。
嫌な人生は、続いてしまった。
つづく
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