第41話 怯えている

 少しずつ打ち解けてきたと感じる。もちろんまだ壁はあるけれど、今までとは違って対話が通じるようになってきていた。

 

 やはりクラージュさんも焦っているだけなのだ。彼が生来的に暴力的な人間というわけではないのだろう。


「……習慣?」彼は紅茶を一口飲んで、「……言葉はもちろん知っているが……習慣が才能を超える、とは?」

「はい」私も紅茶を一口飲む。「最初に一つだけお伝えしますが……才能や努力、やる気や根性……これらの言葉を使っても苦しくなるだけだと思います。誰に対しても効果などないので、あまり使わないほうが無難かと」

「……」


 クラージュ様が黙ってしまった。怒らせたかと思っていると、


「……そうかもしれないな……」


 心当たりがあったので考え込んだだけのようだ。


 ともあれ……やる気とか根性とか、そんな言葉は使うだけムダだ。気合いや根性で問題が解決するのなら、だれも能力なんて身に着けない。


 そもそも……やる気なんてものはこの世に存在しない。諸説あると思うが、私は存在しないと思っている。というか師匠がやる気は存在しない派だった。


「……それで、どうすれば良いんだ?」かなり素直になってくれたものだ。「どうすれば……どうすればエルの成績は上がる? 3か月後に試験があるんだが……」

「……申し訳ありませんが、3か月後の試験で好成績を取ることは難しいかと……」

「なんだと……?」そりゃ怒るよね。「……ならお前は、なにをしに来たんだ……?」


 ……うーん……なんて説明したものか。さっきアルマ様に説明をしたときに、ついでにクラージュ様も聞いておいてくれたら良かったのに。


 仕方がないので、最初から説明する。


「私の学んだ学問は心理学という学問です。その中に……数日で成績を向上させる方法は含まれていません」クラージュさんの返答の前に、「そしてエルンスト様にとって……おそらく勉強というハードルはかなり難易度が高い。勉強そのものに可能性が高いのです」

「……勉強に怯える……?」

「はい。その根拠は――」


 ということで、私はアルマ様にした説明と同じものをクラージュ様にもする。

 

 パブロフの犬のこと。ベルが鳴るとヨダレが出るようになったこと。それらの行動の変容を学習と呼ぶこと。


 そしてエルンスト様は『勉強をしたら父親に怒られて怖い』という学習をしてしまったことを。


 ……


 クラージュ様は私の説明をしっかりと聞いてくれた。途中で殴られるかもしれないと思っていたのだが、そんなことはなかった。とても理性的に私の話を聞いてくれていた。


「以上です」私は頭を下げて、「……理性的にお聞きくださり、感謝します」

「……」

 

 クラージュ様は結構なショックを受けたようで、しばらく黙り込んでしまった。


 その間に、私は紅茶を飲みきってしまった。しかし今はクラージュ様の言葉を待ちたいので、私からは何も言わない。


 長い沈黙だった。今のクラージュ様には受け入れがたい現実だっただろうか。もう少しステップを踏んだほうが良かっただろうか。


 ……


 師匠ならどう説明しただろう。もっと直接的に言うだろうか。相手を傷つけずに伝えられただろうか。それとも……別の解決方法を見出しただろうか。

 

 気がつけば日が暮れていた。少し肌寒くなってきて、そろそろアルマ様のところに戻らないといけないな、なんてことを考えていた。

 

 呼吸の音も聞こえるくらいの沈黙だった。怖いけれど、逃げる訳にはいかない。


 ……


 少し、お腹が減ってきた。

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