第35話 レスポンデント条件づけ
3か月後の試験で好成績を獲得することは不可能。
それが私の結論だった。
「ふぅん……」この人の、ふぅん、はちょっと怖い。「……勉強とか教育とか……その辺があなたの専門分野なんじゃないの?」
「はい。ですから、不可能だと即答します」言ってから、「もちろんカンニングや裏工作をすれば別でしょうが……それは専門ではないので」
「得意ではあるでしょう?」
「……そうかもしれませんけど……」
結局裏工作でレギスリーさんの件も乗り切ったからな……裏工作が得意技だと思われているのかもしれない。
ともあれ、アルマさんが言う。
「……なにかしら記憶術とかないの? 記憶しやすくするとか……」
「なくはないですけど……」頭の中でストーリーを作る方法とか。「個人的な意見ですが……まだエルンスト様はその段階に達していないかと」
「……段階……?」
「はい。まだエルンスト様と直接話したわけではないので確証はありませんが……おそらく勉強に怯えているという状況だと思われます」
「……怯える……? それはどうして?」
さて、どこから説明したものか。これは心理学の根幹に係る場所なので、詳しく説明したい。
「レスポンデント条件づけと呼ばれるものが行われるからです」
「……知らない単語ばっかり出てくるわねぇ……まぁ、他の世界の知識だからしょうがないか……」
そりゃそうだ。こうやって会話が通じているだけでありがたい。
アルマ様が「続けて」というので、
「はい。レスポンデント条件づけ……」古典的条件づけとも呼ぶ。「それにはもっとも有名な実験があります。パブロフの犬、と呼ばれるものです」
「パブロフの犬……」
「そうです。犬は食べ物を見るとよだれが分泌される生き物です。その食べ物を与える直前にベルの音を鳴らしました。その後、食べ物を与えるのです」
「ベルを鳴らしてから食べ物を与えるの……? そんなことをして、なんの意味が?」
「最初はなんの意味もありません。たまたまベルが鳴ったあとにエサが出てきた……そう犬が認識するだけです」
最初はただの偶然だと思う。
だけれど……
「これを何度も何度も繰り返します。ベルを鳴らす、エサをあげる。ベルを鳴らす、エサをあげる。これを繰り返すんです」
「繰り返すと……どうなるの?」
「最終的に……犬はベルの音を聞くだけでヨダレが分泌されるようになりました」
「……エサがなくてもヨダレが出たの?」
「はい。何度も繰り返しているうちに『ベルの音=ヨダレが分泌』という学習をしたのです」それが学習というもの。「本来……ベルにヨダレを分泌させる機能はありません。ですがその犬にとっては、ベルの音=ヨダレを垂らす、というものになった」
アルマ様は「ふぅん」と相槌を打ってから、
「面白い話だけれど……それが今の話と関係あるの?」
「はい。原理としては同じです」珍しく長く喋っているので、苦しくなってきた。「本来……勉強というものは恐怖心を感じるものではありません。ただの行為であり、苦痛でも快楽でもない」
最初は誰だってそうだ。嫌いでも好きでもない。犬にとってのベルの音と同じ。
私は続ける。
「エルンスト様が勉強をしていると……とある行為が付随しはじめたんです」
「とある行為……?」
「はい。エルンスト様視点から見ると、今回の一件はこうなります。自分が勉強をすると父親が怒る。それは怖い」
「……それは……」
「そうです。本来は違います」本当は成績が振るわないから怒られている。勉強をするからではない。「しかし、それは関係ありません。現状起こっていること、それが重要なのです」
条件付は時間が立つと機能しない。ベルが鳴って数時間経ってからエサを提示されたって、ベルに反応することはない。
「学習するには直後でないといけないんです。それが一番効果が高い。そして今……エルンスト様が最も強く学習したのが自分が勉強をすると父親が怒る。それは怖いという事柄です。小さな子供が父親に怒られるというのは、想像を絶する恐怖なのです」
場合によっては殴られるのだ。怖くないわけがない。
ともあれ私は結論に話を進める。
「勉強をする、父親が怒る、怖い。勉強をする、父親が怒る、怖い。これらを繰り返した結果、エルンスト様はとあるものを学習しました」
「勉強は、怖い……」
「はい。父親がいなくても、勉強という事柄を前にするだけで怯えるようになってしまった」
犬にとってのベルになったわけだ。犬が本来意味のないベルの音にヨダレを垂らしたように、エルンスト様にとって本来怖くないはずの勉強に怯えるようになった。
それが学習。正確には不随意反応の学習。
人間は見ず知らずのうちに色々な事柄を学習している。そして学習させている。
だからこそ人間関係は難しくて面倒くさいのだ。
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