第7話 不可侵領域
見つかった。見つかった。見つかってしまった。
見つかったら殺される。よくわからないが私は追われているのだ。だからきっと無事ではいられないだろう。
だから必死に隠れていたのに……ついに見つかってしまった。
動けなかった。クローゼットの出口は完全に塞がれているし……なにより目の前の女性に魅入られたように固まってしまった。
「ふむ……」彼女は笑顔のまま、「ポーカーフェイスなのね。もっと慌てる場面じゃないかしら?」
十分に慌てている。ただ……私は表情が変わらないタイプなのだ。子供の頃からそうだった。
「まぁ……なんでもいいわ。とにかく、暗殺者さん」優しそうな笑顔に見える。悪魔の笑顔は優しいのだろうか。「あなたは――」
迷っている暇はなかった。目の前の彼女が油断しているうちに逃げ出さないといけなかった。
私は立ち上がって、体当りするように彼女にぶつかる……予定だったのだが、
「あ、れ……?」
立ち上がろうとして、途中で足の力が抜けた。視界がグルグル回って、とんでもない嘔吐感が押し寄せてきた。
目の前が溶けたような感覚だった。絵の具で描かれた世界が全部崩壊して、真っ暗になってしまった。
急速に薄れていく意識の中で、ああ自分は気絶するんだな、と他人事みたいに思った。
……
目が覚めたら、処刑台かな。
☆
「人はどうして人の心を推し量ろうとするのだろうね。そんなことをしても無意味なのに」
誰かの声がした。
「それ……心理学の先生が言っていい言葉なんですか?」
返答をしたのは私だった。間違いなく私の声なのだけれど、どこか他人みたいな感覚だった。
ああ……夢を見ている。私の夢の中の光景。そう気がつくのに時間は必要なかった。
「考えてもみたまえよ」先生は楽しそうに語る。「人の心なんて、絶対にわからないことさ。わかってはいけないことなんだ。自分の心、他人の心というのは……絶対に侵されてはいけない不可侵領域なのさ」
話しているのは私の大学の先生だ。私の心理学の師匠みたいな人。
人間としては褒められたものじゃなかったけれど、私は彼女のことが嫌いじゃなかった。ケンカしたこともあるけれど、人間ならケンカの1つくらいするだろう。
しかし人の心が不可侵領域、か……
「……じゃあなんで、先生は心理学を学んでるんですか? 人の心を覗くのはいけないことなのでしょう?」
「心理学を学んだところで、人の心は覗けないよ」
「そうなんですか?」
それは意外だと、当時の私は思った。今の私にとっては当たり前のことだった。
心理学は人の心なんて読めない。魔法みたいな学問じゃないのだ。
「ガッカリさせたのならすまないね。しかし事実だ。心理学の基礎というのは……人の心は読めないというところから始まるのさ」
「……じゃあ、どうするんですか?」
「人の行動を見る。行動を見て、普遍的な法則を導き出す」
「普遍的な、法則……?」
「そう。そしてそれはきっと……キミの役に立つと思うよ。どこに行っても、どんな分野でも役に立つ。応用の幅は無限大だからね」
応用の幅は無限大。
ならば私の目的にも応用できるかもしれない、と当時の私は思っていたはずだ。
私の目的って、なんだったのだろう。当時の私はどうして心理学を学ぼうと思ったのだろう。誰かの心の中身が知りたかったはずなのだが……
「1つ問おう。どうしてキミは……心理学を学ぼうと思ったんだい?」
「……私は……」
私は――
どうして私が心理学を学ぼうと思ったのか。
それはもう……思い出すことができなかった。
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