見えない響き

本居鶺鴒

第1話

 風に色が付いているみたいだった。私にしか見えない色。

 

 私は彼のピアノの音色が好きだった。私は音楽についてまるで分らない。正月によく放送されている、高価な楽器と安物の楽器とを区別するテレビ番組で、違いが分かったことが無い。そもそも、モーツァルトとバッハの違いもよく分かっていない。

 今私の心を満たしているこの音楽を生み出したのが、果たしてモーツァルトなのか、そもそも私が聞いたこともない誰かなのか。そんなことに興味は持てなかった。


 彼の弾く穏やかな曲が好きだ。明るい音色が私の心の傷を癒すみたいな錯覚に浸れて。大きな傷があるわけじゃない。普通に過ごすだけで生じる、擦り傷みたいなものを、優しく覆ってくれる気がした。

 彼の弾く激しい曲が好きだ。魂の奥からめりめりと、普段私が持たない感情を引きずり出されるみたいで、その時に一緒に、自分でもまだよくわかっていない恋心に似たなにかが表に出てくる。


 彼の弾く明るい曲も暗い曲も好きだ。そっと沈み込むように重く。彼の心の中に入り込むことを、許されているような気がしてくるから。




 放課後、私は帰宅部だからホームルームが終わるとすぐに靴箱へ向かう。靴を履いて、移動教室で頻繁に使う旧校舎へ。旧校舎には入らずに、裏に回ってそこに座る。そこが彼のピアノを聴く時の定位置だった。

 日が差さない場所で、地面は常に湿気っている。湿度を持った独特の土のにおいと、見ていて気持ち悪くなるどろどろとした苔の様なもの。漫画なんかで不良がタバコを吸っていたり、ケンカをしているような場所だけれど、偏差値の高い高校だから、そういう人はいなかった。

 旧校舎と学校の敷地を区切るフェンスの間は、あまり綺麗な場所ではない。正面の暗い小路を誰かが通ることはめったになくて、これまで何か月もここに通っていて、私が見かけたのは散歩の老人を数回だけだった。


 彼――ピアノを弾いている人を見たことは無い。ただ、間違いなく男子生徒だということは分っている。

 東大に入るか藝大に入るか悩んでる。そんな噂を聞いた。名前は……アラタだったか、アヤタだったか。とりあえず男ということを知った。


 私はこのピアノを弾いている相手が女子生徒でもいいと思っていた。

 だって、こんなに美しい。



 私は彼がどんな顔をしているのか知らない。一学年上の先輩だということと、先ほど言ったように成績がいいこと。そんな本当に噂話でしか知らないのだ。それなのに、恋焦がれている。顔も分からない。名前も定かではない。話したことすらない相手に。

 不思議だ。

 とっても不純な感じもするし、とても純粋だとも思えてしまう。


 ただ、私は今日も彼のピアノを聴く。

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見えない響き 本居鶺鴒 @motoorisekirei

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