第十九話 黄泉道反・中編

黄泉道反・中編(壱)




 限りなく虚無に近しい空間に、村上文彦は放逐された。


 光も闇も存在しない、空気さえそこには無い。しかし真空とはまるで異なる世界だと文彦は知覚した。酸欠で苦しむことも身体が破裂することもない、自身の肉体が端から塵と化しているのを知覚するだけだ。

 おそらくは、そこが虚無であり続けるための作用なのだろう。

 自身の消滅を他人事のように考えながら、文彦は考える。十中八九、神楽を唆した者達の仕業だろう。あるいは逆鉾の力も応用しているのか、いざという時のために隠し持っていた呪符に仕込んだ転移術どころかいかなる術式も発動せず呪符は塵に還った。

 全身に突き刺さり虚空へ誘った鉤爪は今は姿を消しているが、傷口より噴き出す血も霧のように宙に滲み消えてゆく。


(これが、おれの最期か)


 痛みは無い。

 痛みとして知覚させるための何かが、この空間には欠如しているのかもしれない。実感のない死が、己の身に宿っている。術師として生計を立て術師として生き残るために、文彦は数え切れないほどの命を奪ってきた。死にかけたことも数え切れないほどだ。魂を喰らうものと最初に相対した時は、心臓を潰され脊椎が破壊された。即座に「影」で己の傷を塞がねば、確実に命を落としていただろう。


 こんなものか。


 逃げられず、身体の再生もできない。光も闇もない世界では影は生まれない、つまり影使いである文彦の術式を媒介するものが存在しない。たとえ術を封じられずとも、文彦はこの虚無の中で朽ち果てるしかなかったのだ。影使いとしては能力を完封されたことになる。


(布石は打った。親父の封印は、屋島査察官がなんとかしてくれるだろう。親父さえ復帰出来れば家族の心配はねえ)


 桐山沙穂とベル・七枝の二人はジンライ達が面倒を見てくれると有難いのだが。

 濁りかけた意識の中で文彦はムリダヨナーと諦める。

 ルディもジンライも元は父親の配下だ。神楽に討たれた時に家族を守るため文彦に従ったが、出身地では神霊に連なるとされる強力な魔族でもある。世が世ならば一国の守護者として多くの巫女に傅かれる立場の二柱が、女子中高生の面倒を見るとは思えない。


(神楽を唆したのは、やはりユニオンプロジェクトを名乗る連中か)


 自らを虚無へと取り込ませた力の出所を、そう推測する。

 文彦が知る術式体系より外れたデタラメとしか言いようのない秘術。かつて北の大地で特異点暴走を仕掛けた秘密結社であり、文彦もまた彼らの仕掛けた幾つかの陰謀に巻き込まれた経験を持つ。

 神楽聖士の企みは、問題ない。

 神楽そのものが脅威とは言えない。

 なるほど一人の術師として武人として神楽の力量は並の術師を凌駕する。霊格もまた極めて高いだろうが、その強さは絶対的なものではない。たとえ逆鉾を手にしていても、それを圧倒できる者達を文彦は知っている。

 そう考えると、心残りはない。

 生にしがみつく理由もない。


(消える、かあ。おれも千秋と同じように、魂も残らずに消えるんだろうか)


 かつて想いを寄せた少女の最期を思い出し、自分もまた同じ道を辿るならば悪い結末ではない。術師としての実力を身につけた時、文彦は何度か笠間千秋の魂を呼び寄せようとして、その都度失敗した。犬上の濃密な霊気の奔流は、彼女の魂を取り込むことなく輪廻の外に弾き飛ばしたのか。

 意識が拡散する。

 知覚が広がる。

 世界の在る意味。分岐する枝。時間と空間を超えた先に身を置く己の姿と幾つもの可能性。たった一人を探し出すために始まる、永劫にも等しい旅。


(だけどまあ、そんなものだよな)


 あの娘が、笠間千秋の魂が千々に分かたれて数多の世界に散ったのならば。己の魂もまたそれを追いかけていくのもいいのかもしれない。この世界にて成すべきことはもはやないに等しいのだから。

 やがて崩壊が全身に廻ったのを自覚すると瞼を閉じ、そのまま意識を虚無に晒して消えた。




◇◇◇




 数十秒の間をおいて複数の銃声が聞こえる。


 立て続けではないが、止む様子もない。それが戦闘によるものであればあまりに滑稽だし、そうでないとすれば物騒極まりない。官公庁の施設であるその建物は清潔感が漂い、ちょっとしたホテルにも似た雰囲気さえある。

 その中で銃声が響く。

 炸薬量は決して少なくはない。重く響く、乾いた破裂音。至近で撃てば十分に人を殺傷せしめるような、そういう音がする。それなりに防音施設の整った建物内での音だから、これは由々しき事態だ。


「あー、見苦しい」


 銃声を聞き流しながら、建物の廊下を屋島英美査察官は歩いていた。彼女の部下は三課の職員と共に施設内部を制圧中、彼女は特に部下を引き連れることもせず目的の場所へと向かう。

 ショートの髪に、少し眠たげな眼差し。それでも瞼に半分ほど隠れた眼光は鋭い。二十代後半だが、糊の効いたスーツに身を包んでいるためか実際よりもかなり年上に見える。防弾防刃繊維を織り込んだコートをマントの代わりに肩に掛け、多機能の携帯端末を手にしている。ぶらりと歩く様を威厳という二文字で飾ってよいものかは判断に困るが、不規則に起こる銃声に眉を動かすこともしない。


「館内に繰り返し通達する」


 取り出した小型のマイクロフォンを手に屋島査察官は立ち止まり、虚空を見据えた。


「神楽聖士は秘密結社ユニオンプロジェクトと結託し私兵と共に犬上市を襲撃。術師一般人を含む複数の市民を攻撃し、三叉山遺跡の封印を暴走させようとした。同時に特異点暴走を含む三十五の怪事件、そして二百七十件もの殺人事件に神楽が関与していることが証明された」


 銃声が少しの間だけ止んだ。


「三叉山遺跡で制御する特異点の出力規模は石杜市の三割と予測されるが、犬上と地脈でつながっている国内十八の特異点封印が連鎖的に暴走することが指摘されている。同時に十九箇所の特異点が暴走した場合、これを食い止める人員や機材は三課にはない。石杜および有識者にも問い合わせたが、同様の答えが返ってきた」


 沈黙が続いた。

 それに耐え切れなくなったのか、近くの扉の陰から刀を構えた若手の術師が飛び出した。神楽万歳、人類万歳と叫びながら英美を切り倒そうとした若者は、同時に彼女の足下より飛び出した人影に刀を叩き落される。その人影、コートを羽織り帽子を目深に被った二十そこそこの女は蹴り上げた爪先で若者の両肘を砕き、咽仏が陥没するほどの拳撃を若者の首に与えて悶絶させた。


『相変わらず、甘い』


 女は影より現れ、ついでに縛られた柏原祐を引きずり出しながら英美を見た。英美は転がされた祐を一瞥し、再びハンドマイクを握る。


「神楽が今回の行動に対して口実に用いた影使いの犯罪者は、既にその身柄を拘束している。一課と二課は神楽の三課査察官としての権限を剥奪、同時に三課上層部が神楽と結託していると判断し機能凍結を決定した」


 目的の場所に到達し、英美は扉を叩く。

 即座にそれは開き、三課という組織を実際に運営している上層部の何名かと、テレビや新聞で時折見かける政治家達が視界に入ってきた。彼らは豪奢な部屋の隅っこで膝を抱え震えており、部屋の半分を埋める三課職員達の突きつける銃器や武具を前に脅えていた。


『爆弾での自決など考えぬことだ』


 影より現れたコートの女が呟けば、政治家の一人が隠し持っていた手榴弾がひとりでに転がり落ちる。安全ピンを抜かれたそれは直後に爆発したが、閃光は上がらず熱も爆風も金属片も室内を蹂躙することはなかった。


『無駄だと言っただろう』


 女は政治家を見て、それから床を指差した。

 そこでは確かに手榴弾が爆発していた。密室で使えば人体を肉片に変え消し炭にするだけの衝撃と熱量が、視界を奪うほどの閃光と共に解き放たれている。

 ただ、それはバスケットボールほどの空間に限定されていた。そこより外では微風さえ吹かず、数秒の後に爆発は終わり鉄屑だけが残った。

 爆発の一部始終を目撃した政治家達は愕然とし、コートの女は『特異点を封じ込めることに比べれば、造作もないことだ』と付け加えた。無論それは並大抵の術師にできる業ではなく、武器を構えていた三課職員達も内心では驚いている。


「致死性の毒を服用しても同じだ。貴君らは神楽の企みの全てを吐き出し償うまでは、どれほど苦しもうと死によって救われることはない」


 あるいはそれこそが彼らが求めた不死の肉体かもしれないと内に皮肉を込めれば、英美は一歩前に進む。老人や役人を蹴散らせば、一番奥に隠れていた老人が見える。国内の政変が起こる際にはその名が上がるとさえ言われている、妖怪じみた男だ。その胸倉を英美が掴む。

 彼女の記憶が正しければその老人は百歳に手が届きそうなほどの高齢で、重い内臓疾患を患っていたはずだ。病そのものは術式で癒すことは可能だが、加齢による生命力の低下は、基本的には術式では補えない。それなのに老人の足腰はしっかりしているし、肌のつやもいい。還暦前と言って信じるものもいるだろう。


「神楽は不老不死という餌をばら撒くために、それに近い効果を貴君らに与えた。つまり莫大な力を有する異形を封じ込め、その魔力をもって本来ならば寿命を迎えてもおかしくない連中に活力を注ぐ外法だ」


 老人が着ていた上等の絹のシャツを引き裂いて、英美はその胸元に埋め込まれたコインを露出させた。三角四角五角を組み合わせた図形を打刻したそれは、術師が異形を封じた器である。ボタン電池を埋め込んだ安物の家電製品のようだ。


「職業柄、異形が人に憑いて精気を吸うのはよく見ている。だが先生方は逆にバケモノ共からイノチを吸い上げていらっしゃる――これで人間至上主義を掲げているのだから恐れ入る」


 英美の言葉に、老人の胸に埋め込まれていたコインが熱を帯び周囲の肉を焼いて不快な臭気と煙を生む。突然襲う熱と痛みに老人はか細い声で悲鳴を上げ、英美はこれを無視してコインを剥ぎ取る。途端に老人の肌は土気色となり、風船がしぼむように肉や骨が縮み始めた。年相応を通り越して急速に加齢が進み、活力さえ失せた老人は惨めに床に這いつくばるしかない。


「初代の影法師は返していただく。人間至上主義に賛同されるのなら、独力で生きられよ」


 有無を言わさず英美はその場にて拘束された三課上層部の人間や政治家達から異形封印のコインをえぐり出した。肉に埋まり一体化していたそれを引き剥がすのは、当然ながら想像を絶する激痛を伴う。まして彼らの活力の源となっていたものが奪われるのだ。

 悲鳴が、絶叫が上がる。

 止める者はいない。


 


◇◇◇




 身体の隅々に届く鋭い痛み。

 あるはずのない痛みに文彦は困惑と共に意識を覚醒した。


 消滅したはずの身体に痛みが?


 目蓋を貫通し網膜に届く光の刺激。身体の痛み。意識が未だ混濁していることを理解できる程度に回復した脳機能。


(おれは助かったのか?)


 誰が、どうやって助けたというのだ。

 助けられそうな連中には幾つか心当たりがある――たとえば魂をくらうものとか、屋島査察官の使い走りをしている女魔人とか。ただし前者がそれを行う動機はなく、後者にはやや難易度が高い。虚無の力を帯びた異空間封印などという罰ゲーム空間に干渉できるのは、少なくとも自分以上の力量の持ち主か、神楽のあの術の基点となったであろう逆鉾と同系列の神器。


(……脳が上手く再生してないのか、考えがまとまらない)


 身体正常ならば周囲の気配を察知できる魔術的な感覚も機能していない。脳を含めて身体が再生途中かもしれないし、あるいは何者かに能力のほとんどを封じられているのかもしれない。術師として活動しての年月、身体欠損どころか常人なら即死判定されるほどの状況から復帰したことは幾度もある。

 死を回避できたのだと文彦は考え、


「あー、だめだめ」


 目を開こうとして、少女の声にそれを制された。どこかで聞き覚えのある、懐かしい声だった。決して忘れてはいけないと思っていた声だ。覚えているはずなのに、思い出せない。


「村上ってばホントに身体ぼろっぼろなんだから、再生終わるまでじっとしてなよ」


 意識が混濁している。

 皮膚の感覚も正常に働いていない現状で、それでも文彦はかすれる声で唸るように問い掛けた。喉と肺が機能しているのを、この時ようやく自覚できた。


「あんた……なに、やって……」

「んー。騎乗位?」


 悪戯っぽく少女が囁いたように聞こえた。なんだそりゃと反射的にツッコミを入れたくなったが、そこで気力が尽きたのか文彦の意識は再び虚無に飲み込まれて消えた。





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