黄泉道反・前編(弐)




 柏原祐にとって不幸だったのは、少しばかり彼が幸運だったことである。


 祐は幸運にも身体能力に恵まれ、幸運にも自分より強い存在に遭遇せずある程度大きく育ち、決定的な破滅が来るまでその状態が持続した。徒党を組み、それが壊滅する瞬間まで彼はこの世に自分より強いものがいるなどとは思いもしなかった。

 表現を変えれば、救いようのない愚か者である。

 そして彼は生き返った。


「馬鹿は死ななきゃ直らねえって言うけどさ」


 十人前のカレーライスを平らげていく祐を前に、村上文彦はそう評価した。中学生にしては体格が大きく、骨も太そうだ。目つきが鋭いのはここ数年間の生活が原因だろうが、眼の光は濁っている。もとより粗暴な性格ではあったが、身中に瘴気の類を宿しているせいか顔つきが極道映画の雰囲気に近い。


「生き返ったら、死んだ意味がないよね」

「ああ」


 己の昼食分を奪われたためか、文彦の隣で小雪がしかめっ面で祐を睨んでいる。なるほど彼の形相は凄まじいものがあるが、身中より発する瘴気は雑魚に毛が生えた程度。顔のいかつさも、異形 そのものに比べれば祐の顔など滑稽な部類だ。店の中には既に通報を受けた三課の職員や一般術師が詰めており、彼らは祐の胃袋が満たされるのを待っていた。

 そんな彼らの思惑を知ってか知らずか、祐は十皿目を舐めるように平らげた。満足しきった顔で祐は空となった皿を文彦へと突き出し、ドスのきいた声でこう言った。


「まあまあの味だったぜ。それと服替えてえから金くれ、十万でいい」


 直後。

 何の手加減もなく繰り出された文彦の拳が祐の鼻骨と前歯全てを粉砕し、鼻血を噴いて祐は意識を失った。




 柏原祐にとって不幸だったのは、少しばかり彼が幸運だったことである。

 少しばかり幸運だったため、お節介な異形と同化して生き延びてしまった。

 どうして生き延びたのか後悔するほどしこたま殴られ、祐は己が人間外の存在に変じてしまったことを強く自覚した。




◇◇◇




 その魔物には器となるべき身体がなかった。

 犬上や石杜のように濃密な瘴気が溜まる地ではなく、地脈より僅かに漏れる力がそれの存在を辛うじてつなぎとめていた。このままでは瘴気も薄れ始め、廃工場に残念する怪異に成り果てる……そう覚悟を決めていた頃だ。

 数人の少年が、廃工場に出入りするようになった。

 生命の力は溢れているが、それを使うべき場所を見つけられぬ少年達だ。不安定な心身の力を、ある意味原始的な方法で発散するしかない、ケダモノのような少年達だった。やがて廃工場で血が流れ、柏原祐という少年が半死半生の姿で廃工場に取り残された。


(魂が砕け、自我を維持するものが失われつつある)


 そこにあるのは、もうじき心臓が止まる肉体だけだ。祐という少年に特別な思いがある訳ではない。放って置けば、魔物が願ってやまなかった瘴気が手に入る。ここまで肉体と精神が破損した人間では、特異点を生み出すこともできない。健康的な人間が宿してこそ特異点は無尽蔵の魔力を生み出せるのだ。


(……)


 魔物は廃工場に拡散しており、失われつつある祐の生命を受け止めていた。この世に出でて十四年しか経っていない少年への同情があったのかもしれない。魔物は少年の内部に潜り込み、砕けた魂を自らの身をもって補うことにした。

 そんなことが可能だと魔物は考えてはいなかった。ただ、そうしなければ祐が助からないのは理解 していた。縁など無いに等しい少年を助けるために、魔物は自身の存在を賭けていた。助かったとしても自身の存在は消えてしまう、自殺行為にほかならない。

 では何故?

 自問する時間は魔物に残されてはいなかった。魔物は拡散し、収縮し、砕けた陶器をつなぎとめる漆のように広がって、そうして魔物は魔物ではない別の存在になった。




 柏原祐が蘇って最初にしたことは、彼のこれまでの人生と変わらない行為だった。やられたら、やり返す。

 単純極まりない論理に、返り討ちという概念はない。達観すべき人生を送っているわけでもない。ぼろぼろの服のまま祐は駅前の繁華街に現れ、溜まり場となっているコンビニの駐車場で標的を見つけた。

 十数名。

 まとな人間がひとりで喧嘩を売るような条件ではない。彼らは祐が無事であることに驚き、その服装がボロボロだったことで笑い、平静を保とうとした。滑稽さと異様さが混在する祐は不気味であり、しかし退くことは彼らの選択肢にはない。

 祐が繰り出す拳を、少年の一人は金属バットで叩き砕こうとした。


 凛。


 空気が震えた。祐の右腕より闇色の花弁が無数に生まれ、金属バットと少年と、その背後にいた数名の少年と、彼らが背にしていたコンビニの窓と壁を一瞬で通過した。何の抵抗もなく、鳥の影が地面を走るように闇色の花弁が通り過ぎた。

 直後、恵まれた体格より繰り出された祐の拳が正面の少年を捉えた。拳の先端に空気の壁が圧 縮し、それを突破するような感覚に戸惑いながら放たれた拳は少年の身体を文字通りバラバラにした。包丁で切った牛乳寒天のように肉をぶるぶる震わせながら、その哀れなる少年は砕けた金属バットを不思議そうに見つめながら得物と同じ運命を辿ったのだ。


 少年だけではない。

 闇色の花弁が撫でた空間が同時に吹き飛んだ。アスファルトには賽の目の溝が刻まれ、暴風のような衝撃波が人体のパーツを散らしていく。


(ナンだよ、これ)


 あまりにも現実味のない破壊に、祐は自分のしでかした事が理解できなかった。出来の悪い特撮映画のような破壊劇では実感も湧きにくい。それ以上に祐にとって不思議だったのは、暴力を振るうことでの爽快感が失せたことだ。道端の草を引きちぎるような、その程度の感慨しか抱けない。


『魔人となり果てたか、哀れな小僧だ』


 声は背後から。

 鈍い痛みに振り返れば、拳が飛んでくる。真夏だというのにコートを羽織った女が短い刀を逆手に 構え、転がった祐を見下ろしている。いつの間にか周囲に人の姿はなく、コート姿の女しかいない。二十歳を過ぎた頃だろうか、幾つもの修羅場を潜り抜けてきた冷たい視線に初めて祐は恐怖を抱いた。


 結界。


 凄惨な犯行現場は結界の中に取り込まれた。だが祐はそれが何の意味を持っているのか理解していない。女も祐に説明しようとはせず、破壊の爪痕を一瞥しただけだ。あまりにも鋭すぎる地面の 裂け目は、金属の刃物では再現できない代物だ。


『しかも影の刃を使ったか、阿呆が。影法師を狙う神楽が攻め込む絶好の口実を貴様は作ったわけだ』

「な、なんのことだよ」

『知りたければ犬上の街に行け、どのみち貴様のせいであの街は戦火に呑まれるのは必至。貴様の尻拭いができるのも、影法師くらいだろうさ』


 屠殺される豚を見下ろすような目で女は呟き、祐の腹を蹴る。尋常ではない衝撃に祐は意識を失い、同時に霞のように姿が消えた。転移の術である。


『……あとは、せめて時間稼ぎをすることか』


 女は頭をかき、内懐より一枚の紙片を取り出した。紙片は一頭の大型獣に変じ、やはり姿を消す。そうして女は地面に散った人間の部品を眺め、一度だけ舌打ちするとその場を離れた。



 女が張った結界が解け一般市民が悲鳴を上げるのは、それより半日後だった。




◇◇◇




 携帯端末が小刻みに震える。

 誰かが自分にメッセージを送ったのだろう。村上文彦は思い出したように電源を切り、端末を後ろに放り捨てた。

露を含んだ夏草に端末は隠れ、そのまま消える。もはや拾う気はないと、顔に出ていた。


「いいのかね」

「どうせ読む暇もねえよ」


 丈の長い郊外の草原。三叉山の遺跡に至るそこは戦中戦後の開発期でも地元業者が近付かなかった場所だ。殴り合うにはやや遠い間合いに二人は向かい合っている。一人は文彦、そしてもう一人は不可思議なる槍を持つ青年。神楽聖士その人である。

 三課査察官として絶大な権力を持ち、自身もまた強力な術を使う。多くの術師を部下に従え、その背後には財界の大物もいるという。

 光を導く者。

 初代影法師を倒し封印したものとして神楽は術師の世界に現れた。影使いを完封できる希少な属性魔術師として国や組織は彼を重用し、望むだけの材と権力を与えられた結果、いつでも国家転覆を実行できるだけの力をその派閥に蓄えることに成功した。魔人である影法師を排除したい勢力は其処彼処にあり、そういった連中が神楽を旗印に集結しているのだ。

 その神楽が、他に人も連れず文彦と対峙している。


「市内の要所に子飼の術師を動員して、フリーの連中ひっくるめて術師を押さえ込んだか」


 犬上市には複数の霊脈が流れている関係上、他地域に比べて多くの術師が存在する。

 三課に属しているものもいれば、フリーランスやモグリとされる連中もいる。日和見主義の者も少なくないが、その反対も少なくない。神楽が抱え込む派閥は国内有数だが、それでも犬上市を長時間封鎖し術師を拘束できるほどの手駒はいない。


「我慢できなくなったのかよ、おじいちゃん」

「機は熟したのさ」


 言いがかりに等しい容疑で影法師討伐を唱え犬上に踏み込んだが、あまりに強引なやり口に三課本部すら問題視し、外部より急遽派遣された重武装の術師数十名が市内に展開して神楽一派の牽制に動いている。綾代をはじめとする術師の名家は神楽への不快感を隠そうともせず、今回の暴走は神楽の築き上げてきたものを一気に崩しかねない失態。

 だというのに、だ。

 神楽聖士は文彦の前に立っている。


「も少し周到に進めると思ったんだけどよ」

「力を手に入れてしまえば些末な問題だ」


 槍を、比良坂の名を有す逆矛を引き抜いて神楽は答えた。全てを手にした、あるいは何かを超越したものだけが持つ独特の笑みを浮かべている。

 他者への侮蔑を、隠そうともしない。


「そんなに力が欲しいのか」

「健やかに、縛られることなく生きていきたい。誰だって願うことだろう」


 それが慎ましい願い事であるかのように、神楽はうそぶく。


「百年近く生きてきたんだ。自然に老いて死ぬって実は贅沢なことなんだが、分かってくれねえか」

「この業界、百年程度では若造だろう。俗世を離れて永劫の時を過ごせるほど枯れてはいないのだよ」


 呟く文彦に、にたりと表情を歪める神楽。

 高い魔力を保有する者は全盛期の肉体を長期間維持できる傾向にある。神楽もまた三課創設に関わるほど昔から生きてきた。特に光属性を有する彼は二十歳ほどの外見を保ち、老いに怯える政財界の有力者たちに様々な恩恵をもたらしてきた。


「わかんねー。アレを敵に廻したら寿命がどれだけ伸びてもてめえは破滅だろ」

「ふん。石杜も綾代も、噂ばかりが先行した幻想のようなものだ。北の特異点都市も高度に政治的な宣伝活動の一環に過ぎん」


 わずかばかりの親切心でかけた文彦の忠告を神楽は嘲笑と共に切り捨てた。

 かつて父親を封印した時は野心家であっても多少は切れ者の片鱗を見せていただけに、文彦はその変貌に眉を顰める。光属性の魔力は健在なれど濁った思念が複雑に入り混じる呪詛の鎖が心身を縛る様に、目の前の男が無自覚に傀儡と化していることを文彦は察した。


「霊脈を支配すれば、わたしは真の意味で人を超越する。不死の肉体と無尽蔵の霊力を得た暁には、仙界の骨董品も綾代の遺物も脅威ではないのだ」

「はあ、正気の時にそれを吐けてたら感心したかもしれんがね。祭器ひとつでここまで強気になれるとは

。支配しなくても霊脈の近くにいれば長生きできるだろうに、親父を始末してまでお山の大将になりたかったのかよ」

「仕方がないだろう、わたしは安心を得たいのだ。誰かの支配下にある霊脈の力に自分の生命を委ねる真似など、とてもできない!」


 霊脈を制御する神器――逆鉾を旋回させ、神楽は叫ぶ。


 凛。


 文彦の背後に虚無へと通じる闇色の穴が生まれ、そこから飛び出した無数の鉤爪がその身体を捉えた。

 逃げようと思えば逃げられるはずなのに、文彦は動こうとしない。神楽の得意とする光の魔術とは明らかに異なる、異種異形の術式。数多の術師を見てきた文彦ですら初見となるそれは、本来であればこの世界にあってはいけない力を帯びている。


「! 逃げることも防ぐことも出来たはずだぞ影法師」

「そうなったら、てめえらは俺の身内を襲うだろう。無駄な手間をかける趣味はねえよ」


 全身に食い込む鉤爪が肉を引き裂き骨に達するというのに、文彦はふてぶてしい表情を崩さない。

 逆鉾を構える神楽は必勝を確信しつつも不安を拭えずにいる。かつて文彦の父親を封印した時、無力化した文彦を北の特異点都市に送り込んだのは神楽の指示だ。たとえ術師として高い素養を持ったとしても基礎すら修めていない子供では生き残れないはずの環境で、目の前の男は二代目の影法師と呼ばれるほどの力を得て帰還したではないか。

 この程度ですべてを諦める筈がない。

 致命となる罠を仕掛けて今ここに臨んでいると考えるべきだ。


(だが、霊脈の力を得たわたしならば真正面から叩き潰せるはず)


 神楽は逆鉾を掲げ、文彦を虚無の穴に導くことを優先した。霊脈をもって人を超越する手段と神器の存在を教えてくれた組織、ユニオンプロジェクトは文彦の力を封じる手段――虚無の穴への追放――も授けてくれたではないか。鉤爪に囚われた文彦は得意とする転移術も使用できず、魔力という魔力を虚無の穴へと吸い込まれている。鉤爪に切り裂かれた身体が再生しないのがその証拠だ。

 九割九分九厘、神楽の勝利は揺るがない。

 だというのに。


「もう一度だけ言うぞ。今なら引き返せるかもしんねー。三叉山の要が暴走したら犬上市どころじゃねえ、太平洋から日本海まで吹っ飛ぶってパトリシア博士が警告出してるぞ。屋島査察官だって報告書を何通も上げてるはずだ」

「魔人と呼ばれるものが霊脈を制御し封印を施したという与太話か。人類の敵がそんな面倒な真似をするものか! アレはわたしと同じく光の導き手が遺した人類の遺産に違いない! そしてそれはわたしが継承するのが相応しい!」

「わー論理が破綻してる上にてめえの支離滅裂具合も理解てきてねえ」


 まあ十分に時間は稼げたわなと文彦は諸々を諦めることにした。


「ははは、論破されてわたしの正しさを認めるに至ったか」

「会話が成立しねえってことは分かったよ」


 身体の一部が虚無の穴に取り込まれつつあるというのに文彦の表情は揺るがず。


 轟。


 三叉山が揺れた。

 火山でも地震でもなく。

 空間が震えたのだ。

 異変の中心部である三叉山、霊脈を制御する要である巨石。かつて魂を喰らうものが桐山沙穂の暴走する特異点を封じた場所に、光り輝く金剛杵が突き刺さっている。まるで鍵穴に刺した黄金錠のように。

 文彦が持てる力の全てを込めた金剛杵は巨石を貫き、それが犬上市を支える地脈霊脈の全てを縫い留めた。


 凛。


 揺れが止まる。犬上に住まう異形たちは、三叉山から自らに供給された無尽蔵の霊力が途絶えたことを理解した。







(三叉山の遺跡が封じられた……いや、霊脈の交点が、直に)


 犬上を根城とする異形の一人が、異様な静寂の中でそれに気づいた。大地や風にはいまだ大量の霊気が宿ってはいる。数日ならば飢えず乾かず、耐えられる程度の蓄えである。


(だが数日を過ぎれば)


 この地に住まう異形は人間に牙を剥くだろう。己もまた例外ではない。

 親しき隣人すら糧と見做す瞬間を果たして耐えられるのか、出すべき答えを呑み込んで異形は人混みに紛れて姿を消した。




◇◇◇




 投げ捨てられた携帯端末は、通信回線を開いていた。

 各所に忍ばせていた収音器具とカメラが端末を経由して一部始終を中継する。

 正副予備を含めて展開したそれらの機材は文彦と神楽の会話を逐一報告していたのだ。


 地脈霊脈が閉ざされ、普段よりも明瞭な映像と音声が拾われる。


「貴様ぁ!」


 鉤爪に囚われ虚無に消えつつある文彦は、神楽の形相を見て薄く笑う。


「この地の霊脈は切り離した」


 ただの影使いには出来ない所業。どちらかといえば仙術を修めねば霊脈の操作などできないのだが、激昂する神楽は冷静な判断を出来ずにいた。構える槍――比良坂道標逆鉾に力を注ぐが、あれほど帯びていた輝きも今は途切れている。


「バケモノ連中の面倒は石杜に頼んであるから、心配はねえ。せっかく村上の家から取り上げた逆鉾は役に立たなくなったなオメデトウ」


 嗤う。

 鉤爪に全身を引き裂かれ虚無に侵食されているというのに、文彦は人生で最も輝いた笑顔を浮かべた。


「他所の特異点を解放した方が早いかもしれんが、ガンバレ」

「!」


 無理だろうがね。

 普段ならば聞き流すであろう捨て台詞に貫かれ絶句する神楽の貌を見届け。

 何のためらいもなく文彦は虚無の穴に身を預け、あっさりと姿を消した。それを追うように展開した鉤爪もまた花弁が閉じるように穴を塞ぎ、ゆっくりと宙に解けて消えた。





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