第十八話 黄泉道反・前編

黄泉道反・前編(壱)




 どれほどの修練を積もうと、人が人である限り突破できない現実が存在する。


 廃工場に転がっている少年は、人を超えるほどの修練を積んでいなかった。

 最初の二人を殴り倒した頃の構えを見るに、少しばかりの実戦経験と知識は持っているようだった。彼にとって不幸だったのは、彼の知識と経験が必要十分に達していなかったことであろう。廃工場で少年を待ち構えていたのは、十指に余る数の敵対者だった。しかもほぼ全員が長柄の棒を手にしていた。


 逃げることも適わず。


 その状況を考えれば少年が最初の二人を殴り倒せたのは奇跡に近しい成果だった。闘志をむき出しにしている人間を殴って倒すのは極めて困難で危険な行為だ。膂力や動体視力は同い年の少年 少女に比べれば優れ、どこを殴れば人が壊れるのかという情報も持っている。そこに至るまで少年は何度か人間を「壊してきた」し、一対一の勝負なら全員を相手にできるほどのスタミナもある。

 しかし人間の腕は二本しかないし、真後ろを視覚で捉えることはできない。片膝を砕かれた状態で破壊力のある蹴りを繰り出すことは不可能だし、指を数本折られた状態で拳を握ることは極めて難しい。少年は、彼が通う学校では敵無しのツワモノだったのかもしれない。事実、彼を慕い彼を祀り上げ、何人もの少年たちが集って群を生み出した。彼は、彼らは自身の肉体的な強さを誰よりも理解し過信していたから好き勝手に振舞った。


 強いものは何をしても許される。

 そういう驕りがあったのかもしれない。程なくして彼らは類似する思考の集団と接触し、当然のように抗争状態に陥った。暴力とは自身の存在を証明する数少ない手段であり、最強とは彼らの今までの行為に対する免罪符であると信じていたからだ。少年は戦った。正面から戦う限り少年とその仲間は決して負けることはないと計算もしていた。強ければ自然と人は集まり、多少の不足は直ぐに補われる。抗争が長期化すれば、それを力で解決するためには抗争そのものの激化が手っ取り早い手段となる。


 廃工場での一件は、その一つの結末だった。

 少年達の経験や身体能力では到底及ばぬ存在。それが対立する集団に就いた。今まで自身を祀り上げていた仲間たちは逃走し、少年を売った。自らの生命健康と秤にかけられるほど重い絆を彼らは有していなかった。それだけの話だ。

 理不尽な暴力が少年の身体を蹂躙した。

 暴力としか表現のできない仕打ちだ。肉体的な損傷よりも、今までの人生で築き上げてきた自我や自尊心を根こそぎ壊滅せしめるような仕打ちの数々が少年の心身を冒した。彼らは加減を知らぬ 暴徒であり、襲うものも襲われるものも引き際を理解していなかった、だとすれば少年が迎えた「人としての最期」は想像に難くないものだった。


 少年は、自身が人間であるという認識さえ喪失していた。

 怒り、恐れ、後悔、自愛を司るべき感情という感情が消え失せている。心臓こそ今も鼓動を続けて いるが、それさえもあと数時間放置すれば止まってしまう。そういう状況にあって少年は助けを求め悲鳴を上げる気力さえなかった。生物が持つべき本能さえ放棄して文字通りの肉塊と成り果てた少年は、焦点の定まらぬ目で廃工場の天井を見つめていた。


 見たところで心は動かない。動くべき心もない。仮に自我が残っていたとしても間近に迫る肉体の死を歓喜の声を上げて迎え入れるような絶望しか彼には存在しないだろう。


(無惨だな)


 声が聞こえた。

 少年以外誰もいないはずの廃工場に、声が。ぞっとするような低い声が、床より滲み出るように響いた。並みの神経の持ち主なら逃げ出していただろうが、恐れる気持ちさえ少年には残ってはいない。そもそも無意識に死を享受する人間がこれ以上の何を恐れ何を守ろうとするのか。


(喰らうのでもなく恨みを晴らすのでもなく、まして己の技を競うためのものでもなく、世界を滅ぼしてなお足りぬ衝動を抱えているわけでもなく。縄張りを争う餓鬼の小競り合いで心を砕き命を奪うか)


 声の主は呆れと怒りを共に込めていた。


 凛。


 廃工場の床が震えた。正確には、床に広がる建物の影が、闇が震えた。血と吐瀉物と排泄物とその他諸々の何かに汚れた少年を、影は包み込んだ。


 凛。


 そうして、その街から人がひとり姿を消した。あるいは何かの始まりかもしれない事件が、誰の目にもつかない場所で始まった。




◇◇◇




 最初の事件は犬上市の外で起こった。

 県庁所在地の繁華街に近いコンビニエンスストアの駐車場、放課後や週末ともなれば中高生が立ち寄り騒ぐことで賑わいを見せる場所だ。その日も私服姿の少年達が駐車場の一角で、適当に地べ たに腰を下ろしては他愛のない話で盛り上がっていたという。


「過去形か」

「過去形です」


 二十歳を少し過ぎた青年が冷たい声で呟けば、背後に控える屈強の中年が頷く。青年は薄墨色のスーツを着用し、木刀にしてはすこし長い得物を藍染めの鞘袋に収め携行している。背は高く目元は涼しげで、余計な肉が一切ついていない。後ろで束ねた長髪は神職のそれを思わせ、芝居がかった立ち居振る舞いも嫌味ではない。


「異形は退けたのだろう」


 被害の程度を聞くことをせず、青年は現場となったコンビニの駐車場を訪れた。事件が起こって数日が経過したが、営業が再開される様子はない。


「退けることは成功しましたが、封印には」

「そうか」


 静かな一言だ。しかし中年男は若者の言葉に硬直し、必要以上の汗を顔面より噴き出す。一回り以上年下の青年が発する気配に圧倒され、その先の言葉が出てこないのだ。


 凛。


 空間が軋み、鈍い金属音が響く。鋼の薄い板を力任せに引き裂くような、そういう音だ。術式に基づいて練り上げられた魔力が解放される時、その出力次第ではこのような音が鳴る。その音を出すとなればよほど強い魔力を有している訳であり、まっとうな術師にとっては驚愕的な量の魔力が放た れたことになる。

 青年は無造作に鞘袋を掴むと直上に振り上げた。辛うじてその軌跡を肉眼で追えるほどの速さで 繰り出されたそれは、虚空で何かを捕らえ、次の瞬間青白い火花を散らして大型の獣が地面に叩き落とされる。獣としか表現できない異形は唸り声を上げようとするが、直後胴体に不気味な陥没が二つ生じるや白色の粘液を口中より吐き出し悶絶する。それが青年が鞘袋を繰り出した時に放った衝撃なのだと中年は理解し、獣は戦慄した。


 気付けば周囲に人はない。おそらくこの獣が張り巡らせた結界なのだろう、景色こそ変化がないが明らかに異質な空気が広がっている。この地域を担当する術師である中年男はそれなりの実力者だったが、異形が生み出したこの空間に激しい生理的な嫌悪感を抱き、不快であるがゆえに意識の集中が妨げられている。

 これに対し青年の涼しげな表情は何の変わりもない。たとえ魔に属する血筋のものでも結界の中では理性を保つ事は難しい。青年が何らかの対策を講じたのは間違いないことだった。


「封印など生ぬるい」


 凛。


 今度は青年が持つ鞘袋の内側より音が鳴る。獣の異形が放つよりも遥かに澄み、硬く響く音色が空気を震わせる。一撃でぼろぼろになっていた鞘袋は塵と化し、中身が現れた。


 凛。


 果たしてそれは木刀などではなく、不可思議な形状の刀剣だった。いや、厳密に言えばそれは刀剣という概念には当てはまらない代物だった。刀身は真っ直ぐでありながら刀ほどの長さを持たず、長巻ほどある柄は振るうことで倍以上の長さに伸びた。ちょっとした小槍ほどもあるそれは刀身から柄に至るまでが一つの地金より鍛えられた代物で、その光沢は不思議なことに濃い翡翠色を帯びていた。刀身は鍔元というべき部分で三叉に分かれているが、その形はかの有名なる百合花の紋章に酷似し、反り返った両側の刃は鉤爪のようである。


「比良坂道標之逆鉾、霊槍と呼ばれし一振りだ」


 凛。


 青年が槍の銘を口にすれば槍は震え、再び空間が軋む。異形の獣は槍を見るや狂ったような悲鳴を上げ、青年の視界より姿を消そうとする。槍が持つ本質的な力を感じ取ったのだろう、獣は己が敵に廻した存在の恐ろしさを自覚した。


 凛。


 逃げ出した異形は、己の身体が一向に前へ進んでいないことを理解した。ひと跳びでビルを飛び越える超常の脚が空を切る。そこには翡翠の光沢を宿す無数の鉤爪が食い込んでいた。鉤爪は背後より現れ、それは虚無より出でる代物だった。鉤爪は次々と現れ、異形の獣を捉える。


「比良坂を上り黄泉路へと逝け、人にあらざる異形よ!」


 青年が槍を一閃すれば、獣の異形は虚空に引きずり込まれ姿を消す。異形の獣が抱え込んでいた瘴気や魔力も共に消え失せ、結界も解けはじめた。青年は槍を折り畳み新たな鞘袋に収め、何事もなかったように結界の外に出る。そこは視察予定だったコンビニの駐車場で、現場検証を行ってい た警官たちは突然現れた青年と中年に驚きつつも敬礼した。


「関係はあるが、全てではないな」


 切り刻まれたアスファルト、破壊された店舗を一瞥し青年は結論付けた。現場に残る瘴気の種類、たった今消滅させた異形の攻撃パターンを思い出し、呟くと面白そうに地面の傷に触れた。獣によるものと思しき爪跡とは異質の、明らかに鋭利な切り口が数箇所存在している。機械を使用してもここ まで滑らかには分断できない、鏡面のような切り口が現れる。


「まるで影使いの技ですな」


 かつて村上文彦と共に仕事をしたことのある中年は、青年が見つめる先に視線を向けた。文彦が好んで使う影の爪は厚さを持たない二次元の刃であり、素材の硬度や摩擦力そして粘度など関係なく切断することが可能だ。雨水を立方体に刻み、今のようにアスファルトをこれ以上ないほど滑らかに切り、それらは影使いの特異的な能力の一つとして広く知られている。


「元素使いが真似した可能性もあるが、影使いが関わったと考える方が理解するのは楽だ。近隣で活動する影使いは誰だ」

「それは」


 中年男は沈黙した。

 影使いはその特性上、三課でも微妙な立場にある。同じ組織にありながら半ば監視体制下に置かれ、絶対数と活動領域は日に数度に本部へと報告されている。それが可能なのは影使いの術師が 基本的に少数で、その学習体系が整っていない点にある。影使いが増えるのは偶発的な事故に等しく、多くの場合は発見と同時に思想教育を施すか他の術系統に転向させている。

 だから三課の監視体制下にある影使いの数は極めて少ない。第一線で活動している術師に限っては片手で数えられるほどだ。青年はその事情を熟知し、その上でこの問いを発したのだ。


「近隣で活動する影使いは、その……」

「犬上支局の村上文彦。彼以外にいないだろうな」

「仰る通りです」


 中年男の回答に満足したのか、青年は槍を収めた鞘袋を杖代わりにして地面を突いた。


「犬上支局の村上文彦を容疑者として武装解除を命じ同時に拘束せよ、彼には一般市民の虐殺と建造物破壊の容疑がかけられている。必要なら術式および器具の使用も許可する」

「彼は事件当日、三課の指令で石杜市に出向しております!」

「奴ほどの影使いには距離など関係ない。影使いは転移術を得意とするのを知らぬとは言わせないぞ」


 だったら転移術を使える影使いは全員容疑者ではないのか。

 ごく当たり前の疑問は、中年男の口より出ることはない。

 それこそが青年の目的であり、青年にとってはこの事件は単なる口実に過ぎないのだ。


(村上文彦を始末し、犬上の地に踏み込みたいのだろう)


 あるいはこの現場で起こった事件さえ、青年によって引き起こされたのかもしれない。青年、神楽聖士という男はそれだけのことを過去に何度か行っている。


「我々に残された時間は少ないのだ」


 さも深刻そうに、しかしどこか他人事のように査察官である神楽は唸ってみせた。中年男は意見を飲み込み、それに従うしかなかった。




◇◇◇




 ひとりの少年が店の前で倒れていた。

 衣服はぼろぼろで、怪我の跡も多数見られる。自分と同じ特異体質でなければ間違いなく中学生だろうと、文彦は認識した。


「んー」


 まっとうな中学生は背中に刀傷など存在はしない。まして全身より瘴気を放つことも。


『どうします』


 開店前の掃除に現れたルディが事情を察知して少年を見るが、彼が目を覚ます気配はなかった。


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