第十五話 影雷

影雷(壱)




 村上家の朝は賑やかだ。


「やはり朝から喧嘩するのは良くないと思うんだ」


 さんざん罵声を浴びたというのに村上文彦は至極真面目に己の意見を述べると、努めて平静に食卓に向き合った。寸前まで彼は産みの母親に、仮性だの短小だの早漏だの、どこまで真実かどうかは不明だが本当だったらそれはそれで男性としてのプライドが酷く傷つく言葉を喰らっていた。そもそも実の母親がそういうのを把握する状況はモラル上大変問題があるのだが、文彦はその点に触れることも避けた。


「ほほう?」


 バレンタインともなれば老若を問わず近所の婦女子という婦女子からチョコレートを集め、駅前のホストクラブに絶望と敗北感を味わわせた母・深雪は、中性的な笑みで息子を見る。背後では、ダブルノックダウンを待っていたベル・七枝が聞こえないほど小さく舌打ちしている。


「何を企んでいる、文彦」

「……物凄く言いにくいんだが」


 眉間にしわを寄せ歯を食いしばり、可能ならば視線も外したいという衝動に駈られる。文彦にとってその話題は禁忌中の禁忌であり、人として触れたくないとさえ思っていた。それはベルに貞操を奪われたことよりも屈辱的で、恐ろしいことだった。


(一体なにを)


 術師ではなく一個の人間として、ベルも文彦の言葉に興味を抱いていた。

 数秒の沈黙。それに耐え切れなくなった文彦が口を開く。


「親父との馴れ初めって、どんな感じだったんだ?」


 雷鳴が轟いた。

 爽やかな八月の朝。雲ひとつ無いはずの青空に突如暗雲がたちこめる。


(お父様)


 ベルは息を呑んだ。それは村上家に下宿して以来気にしていたことだったが、触れてはいけない話題に関するものだったからだ。三課の資料では、術師の力を有していたにもかかわらず三課急進派の手で殺害されたとある。文彦はいわば親の仇である組織に協力しているのだ。その理由について屋島査察官は教えてくれないし、犬上支局の人間も沈黙を保っている。


(どうして、今ここで?)


 朝の喧嘩を避け、ここで問う理由がわからない。北の都市より帰還して、その翌日だ。弟子を自称していながら、文彦の真意がどこにあるのか掴めないのはとても悔しい。

 と。

 ベルは深雪が硬直しているのに気がついた。たとえ男前でも寡婦である。人生裏街道まっしぐらな息子と、出来が良いとは言え得体の知れない娘を抱え店を切り盛りしてきた女性だ。その一言は、仕事の忙しさに悲しみを忘れていた深雪の心を強く揺さぶったのだろうか。


「こ、光司朗さ……ううん、ダーリンはねっ」


 びし。

 その感覚を、ベルは脳の情報処理ミスと考えたかった。

 つまり錯覚だ。

 視覚聴覚が捉えた情報を、理性が全力で否定したがっている。ホストクラブが運動会開けるほど集まってもぶっちぎりで優勝できそうな外見色男が、くねくねと腰を動かし頬を染め身悶えるように甘ったるい声を出す。なるほどこういう部分をみれば、女性に見えるかもしれない。衣装によっては大企業の敏腕秘書でも務まろう、クールビューティーだ。


(で、でもっ)


 だとしてもそれは現状を肯定することにはならない。

 全身の神経が悲鳴を上げ、その場より逃れろと本能が筋肉に命令を下す。しかし体が動かない。おそらくベルと大差ない状態の文彦が彼女の腕をがっしと掴み、離そうとしないのだ。

 逃げるな、そして一緒に地獄に落ちろ。

 瞳孔が開きかけた眼差しが、そう語っている。シチュエーションがもう少し色っぽければベルも文彦に好意以上のものを抱いたかもしれない、しかし状況が悪すぎた。


「あは、あはははははは」

「それでえ、それでえ。あたしとダーリンが運命の出会いをー」


 拷問は開店直前まで続いた。

 ベルの精神がそこまで保たなかったのは言うまでもない。




◇◇◇




 二学期が始まるまで残り一週間。

 運動部のインターハイ選手権は軒並み終了し、それらの部活で中心的に活動していた三年生達が引退する時期でもある。

 運良く県大会のベスト8まで勝ち進めた男子バスケ部だったが、優勝候補に挙げられ数年前より台頭しているスポーツ進学校を前に善戦するも結局は敗退。たとえ既に副主将である仲森浩之が突出した運動能力とセンスを持っていたとしても、球技というのは基本的にチームプレイが肝である。


(本気で勝つ気があるなら、新人戦と秋の大会前にやっておく事が山積みだな)


 伸び始めた同学年の生徒を新部長に推し、浩之は引き続き副部長職に就いた。その人事は部内に少しばかりの衝撃を与えたが、勢いと情熱そして可能性を持った人物をトップに据えることで部内に活気を呼びたいという浩之の主張が支持された。

 新しくチームを組み立てる上で有望そうな部員には既に目をつけている。可能性を持った部員は他にもいる。赴任したばかりで専門知識も情熱もない顧問は当てにならないし、コーチを雇えるような人脈も部費も無い。人心を掌握しチームを引っ張っていくのは部長の仕事であり、本来コーチや顧問が行うべき諸々の作業を浩之やマネージャーが担当することにしたのだ。

 やるべき事は、本当に沢山ある。

 その日の部活は休養日だったが、練習試合の相手を探すよう顧問に催促するべく浩之は登校していた。


「……」


 八月下旬の犬上は、日差しの強さこそ盛りを過ぎたが日の出ている内は殺人的な暑さが市街地を覆う。駅前の北高校も例外ではなく、校門から玄関まで遮蔽物が一切存在しない前庭は熱射病と貧血の危険地帯として生徒に恐れられている。

 その危険地帯を通り過ぎようとして。

 スポーツバッグを肩にかけていた浩之は、足下に見慣れた物体が転がっているのに気がついた。それを物体と評したのは、そいつを人間と認識してしまうのがひどく自分にとって屈辱的だという思いが浩之の内側にわき上がったからに他ならない。便宜上同級生の苗字を当てはめることにしたそいつは樽と肉塊を掛け合わせたような胴体に短い手足を生やし、盛夏の日差しにこんがりと焼かれながらうつ伏せに倒れている。

 肉塊の名は、畠山智幸といった。


「……」

「……」


 走るより転がる方が早いと言われ、事実歩くのが極めて遅い畠山である。

 転倒すれば手足がつくより先に下腹が地面に当たり、脂肪なのか腹筋なのか判断に困る弾力で起き上がるような男である。

 身体的特徴より得体の知れない言動や性癖から北高における変態の一人に間違いなく挙げられる男である。

 その畠山が、玄関まであと十数メートルの距離で倒れていた。


(後頭部を鈍器で殴打され、立て続けに何度も何度も踏まれたような惨状だな)


 文化的かつ平和な都市では滅多に見られぬ暴行を畠山は受けていた。普通ならば骨は砕け肉は裂け血を流し臓腑を傷めるほどの状況だろうに、彼はただ気を失っているだけだった。本来ならば致死的に働く真夏の日差しも、皮膚を香ばしく焦がす程度。

 十分に変態的体質だ。

 本当だったら放置したいが、そういうわけにもいかない。蹴り起したい衝動を必死で押さえ、浩之は畠山を揺り動かす。振り回すに近しい行為を数十秒続けた後、物体は生物に戻った。


「殴られて踏まれたって感じです」


 それは見れば分かると浩之は冷たく返す。


「自分を襲った奴くらい覚えてろよ。女教師にセクハラしようとして逆襲されたのか、女生徒に手を出そうとして逆襲されたのか、近所の女子小学生に手を出して逆襲されたのか」

「仲森君にお弁当を届けようとやってきた三つ子の女子中学生に声をかけようとして」


 殴打数発。


「もちろんジョークです」


 鼻血を流しながら畠山は必死の笑顔を浮かべた。



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