第十四話 極界の地にて

極界の地にて(壱)




 その地に名はない。


 かつてそこは北海道と呼ばれる島だった。日本という国にあって、異国の空気が漂う大地。文化も産業も、微妙に違う世界。だからこそ、かつてこの地は観光地として好まれた。日本という国で挫折した人間が再起する場所として、あるいは世捨て人の住まう場所としてこの地は認識されていた。


 旧き人が蝦夷と呼んだ地。

 それより後には北海道と呼ばれた地。


 今、その地に名は無い。

 日本政府は相変わらず北海道と呼び、数年前に放棄した領有権を再び主張している。

 国連や国際社会はそれを認めず、政治的に中立の土地とした。周辺国家は奇書偽書まで持ち出してかの地の領有権を主張し始めたが、実力行使に出ることも適わず今は沈黙している。


「どうしてですか?」


 津軽海峡の海底トンネルを走る電車の中で、三課に所属する新人職員が村上文彦に疑問をぶつけた。前世紀末に運行を始めた新型車輌は快適な旅を常客に約束している。しかし車輌の常客その半数以上は三課に属する職員や警備員で、残りは自衛隊の職員だった。彼らの多くは突撃銃や手榴弾を装備し、緊張した面持ちで椅子に腰掛けていた。

 春に大学を卒業したばかりという新人職員も例に漏れず、迷彩服を着用して過剰防衛としか思えない銃火器を用意している。


「攻め込むってのは、勝てると思っているから攻めるんだよな」

「勝算もなく侵攻する馬鹿はいませんよ」


 文彦の説明に、新人職員は笑う。

 直後、電車はトンネルを抜けた。窓に映る光景に、新人職員の笑い声はそのまま硬直した。


「は……」


 彼は、生まれてきた二十三年間の知識を総動員してそれを理解しようと努めた。縮尺を無視して考えれば、それは深海に生息するクラゲの仲間に似ていた。多面体の寒天状構造には無数の電飾ともいうべき発光器官があり、おそらく獲物を捕らえるべく発達した触手が宙を漂っている。

 その大きさ、二十メートル弱。

 モビルスーツなら対処も出来るだろう。そんな人型兵器が現実に存在し、操縦者が正気を失わなければ。しかし残念ながら彼の知る限り世界には実戦配備されている人型兵器は存在しないし、宙に浮かぶ巨大クラゲを前にして平静さを保てる軍人にも心当たりは無い。


「水の異形だよ。雲間に棲みついて、ときどき降りてくるんだ。ミジンコみたいな奴がさ」


 腰も浮かせず茫洋とそれを眺め、異形が迫るのを見つめながら呟く文彦。


「特異点の無尽蔵の霊気を吸い込んでさ、とんでもないくらいに大きくなるんだ」

「わーっ、わーっ、わーっ」

「こっちから手出ししなきゃ無害だよ。食欲は満たされているんだからさ」


 およそ歩兵の携行できる武器兵器の類では傷つけることは不可能だ。

 少なくとも怪獣撃退のノウハウは自衛隊には蓄積されてはいない。軍隊というのは人間とその創造物を相手にすることを前提に戦略を立て兵器を開発している。人間サイズの怪物なら何とかなったかもしれないが、相手は文字通りの巨大生物だからどうしようもない。その上異形だから、術師の力でなければ傷つけることは出来ないのだ。


「放って置けばいいんだよ、こいつは」


 面倒くさそうな文彦の言葉通り。

 電車はトンネルのそばで待ち構えていた巨大異形を振り払うことに成功した。自衛隊員や三課職員が安堵の溜息を漏らすのを見て、文彦は「やっぱ一人で来れば良かった」と舌打ちする。

 その地に名は無い。

 人の支配の及ばぬ土地に名の意味がどれほどあるだろうか?

 土地に住まうものはそう言った。

 困惑する新人職員に、文彦は恭しく頭を垂れ


「ようこそ、地獄の一丁目へ」

 と、悪戯っぽく笑った。




◇◇◇




 そこは、馬鹿馬鹿しいほど明るく活気に溢れた都市だった。

 人間至上主義者にとっては禁断の魔都、人の精を吸わねばならぬ異形の眷属にとっては聖地、そして腕を磨こうとする術師にとっては絶好の修練場。しかしそこには破壊の爪痕は驚くほど少なく、道行く人の表情には笑顔が多い。


「石杜へようこそ、萩島書記官。それから、おかえりなさい村上さん」


 駅のホームで三課の新人職員と村上文彦を出迎えたのは、年の頃十六の少年だった。

 どこかの高校の制服と思しき紺のブレザーに灰色のスラックスで身を包み、ボーイスカウトが被るようなベレー帽を着用している。文彦に比べれば大人びた顔立ちだが、歳相応のあどけなさもある。


「……あの、村上君?」


 少年が何者か理解できない新人職員は困惑し、文彦は彼の脇腹を小突いて敬礼した。


「国連平和維持軍特務第三課所属の萩島一平書記官ならびに外部協力者村上文彦、これより特異点都市石杜における情報収集および平和維持活動に着任します」


 新人職員も慌てて敬礼し、最後に少年も慌てて敬礼した。


「私立石杜学園生徒会執行委員会筆頭補佐官、夜野孔太です。三課の協力に感謝と歓迎の意を表します」


 舌も噛みそうな長ったらしい名前を互いに口にして、文彦と孔太は苦笑する。


「とりあえず三課の詰め所に案内します」


 事情がつかめず困惑している新人職員萩島に、孔太はこれ以上ない営業スマイルで応じた。

 拍子抜け。

 そういう言葉が、萩島の脳裏に浮かんだ。

 三課の教育機関では、石杜という都市は人の生存に適さない魔界の入り口だと説明していた。人口三十余万の内半数以上を術師や異形が占め、いかなる政府にも与しない反社会的な集団だと。


(政治的な脅しも経済的な締め付けも全く通じない無法者の街、それが三課の教える石杜の姿だ)

「予想していたのと、随分違いますね」


 なるべく当たり障りのない言葉を選び、それでも意外そうに萩島は感想を口にした。文彦と共に案内された三課の詰め所も、ごくごく普通の建物だった。調度品が少ないのが多少気になる安普請の建物だが、三課の職務を考えれば贅沢な部類とも言えた。


「市街地の治安も良いし、産業も安定しています。物価が東京と比べて若干安い程度なのは辛いですが、生活するのに必要な商店も揃っている……その、驚きました」

「ははは」


 板についた営業スマイルで孔太は声を出して笑い、横にいた文彦は視線を外した。萩島と自分は関係ないと無言で主張している。


「三課が出張る必要があるんですか、村上さん」

「いろいろ」


 珍しく言葉を濁し、溜息をつく文彦。

 何のことか分からない萩島は詰め所の責任者に挨拶すべく奥に踏み込んだ。三十手前なのにすっかり禿げ上がった男は萩島を見るなり歓喜の笑みを浮かべ、挨拶もそこそこに彼の手を握り職務室へと連行していく。時折詰め所の奥から「そんな話は聞いてません」とか「自分が責任者ですって?」など悲鳴に近い声が上がるが、やがて小さな打撲音と共に静かになる。萩島は姿を見せず、代わりに先刻の禿頭男が爽やかな顔で現れた。男は取り急ぎ身の回りの品をかき集めたと思しきボストンバッグを抱え、なにか急いでいるのかはっきりしない口調で孔太への御礼と文彦への警告をまくし立てる。


「それでは後は任せた」


 と、数分前まで石杜の三課責任者だった男は建物を飛び出して消えた。


「……」


 文彦は知っている。

 今しがた飛び出した男も、文彦がこうやって連れてきた男だったのだ。三課に入隊する前は警視庁で将来を嘱望されたキャリア候補生で、うっかり正義感と功名心が同僚より高かったので石杜への赴任を希望した。三ヶ月という時間が彼に何をもたらしたのか文彦は知りようもないが、足下に落ちた封筒の文字を見ることはできた。


『辞表』


 ひょっとしたら前衛芸術の一環かもしれない文字が、そこにある。およそ日本社会にあって共通の意味を持つ文字が、そこに。


「記録更新です」


 すまし顔の孔太。

 耳をつんざく萩島の絶叫が再び奥から聞こえるが、孔太と文彦は構わず三課詰め所を後にした。




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