ひのきのけん(弐)




 世界の半分は憎しみで作られている。

 だが残り半分が愛で作られているという保証などどこにもない。


 ベル七枝に魔術の基礎を教えたスコットランドの魔女は、日本へと旅立つベルにその言葉を贈った。楽園はどこにもない、約束の地も今はない。だから人間ってのは、その場その場で最善を尽くすしかない、悔いの残るやり方をしても後に引きずってはいけないと。


 一緒に日本に来てくれないかと、ベルは魔女を誘った。

 魔女は首を振った。本物のエールもポーターもスタウトもピルスナーも無い、あるのは米を混ぜた薄っぺらい色のラガーがあるだけだ。ビール好きの魔女は樽のような豊かな胴体を揺らし、笑ってベルを見送った。


 誰かを頼ることができないのなら、一人で何でもできるようになるしかない。

 それがベルの信念だった。


「立派な考え方だが、やり過ぎではあるまいか」


 同級生達を叩きのめした後、補佐に現れた市井の術師が惨状を一瞥して肩をすくめた。中堅営業マンと思しき壮年の男は柔和そうな表情を崩さない。


「やりすぎかしら」

「もっと穏便に済ませられる実力が、君にはあるだろう?」


 たしなめられ、しばし考え込むベル。


「そうね。どうしようもないほどえげつなくて無修正本番でアブノーマルでフェティッシュで、一度眠りに付いたら十二時間決して覚めることなく発情モードにスイッチが入って脳内で延々と自我と自尊心を辱められ続ける淫夢の符を、彼女たちの枕に仕込むとか」

「ごめんなさい私が悪かった」


 次に目が覚めた時には性の奴隷となってしまうような呪符を人数分取り出したベルに、男は頭を下げた。





 術師としてのベルは確かに優秀だ。

 新人として扱われても問題のない年齢なのに、市井の中堅術師たちを上回る封印数と実戦経験を積んでいる。それらが極短期間であることに多くの関係者は驚くが、それゆえに彼女の扱いに苦慮した。単独行動を好む優秀な術者は独走しやすく、その分だけ危機に陥りやすい。影法師ほどの実力を有していれば余計な人員が逆に足手まといになることはあっても、ベルにはそこまでの力はまだ備わってはいない。

 よって。


「まあまあ、袖すり合うのも多生の縁ってね」


 気が付くとベルは「術師」桐山沙穂を押し付けられていた。

 三課における影法師の立場を微妙なものにした、問題の女である。身中に特異点を有し、同級生という立場を不当に行使して影法師に接近し必要以上の関係を結ぼうとした女だ。特異点処理の際に記憶を喪失し、その上でなお影法師に接近し、結局こちら側の業界に首を突っ込むことになった女。


 好ましくない表現を駆使すれば、師匠を独占し堕落させようとする毒婦にして淫婦。


 実は肉体関係に限って言えばベルは沙穂など足下にも及ばぬ数々の行為を企て実行しているのだが、そんなものは大した絆ではないと彼女は考えている。

 桐山沙穂は、影使いとしての能力を得ているのだ。

 ベルが得られなかった影使いの能力をだ。たとえ特異点の封印時に切り離した人格に与えられた能力だとしても、それは術師として通常考えられる話ではない。特異点の影響で素養を獲得したとしても、術式を行使するためには流派ごとの差こそあれ基本的な知識の習得と技術的な訓練が必要なはずだ。まして影使いの術は、その性質から修業には極めて長い時間と手間を要する。


(特殊な例って言われてる師匠だって、術式を安定させるまで半年以上かかった)


 それさえ術師の世界では驚異的な数字だ。だが沙穂は当たり前のように影使いの術を操っている、その事実が持つ意味を彼女が理解している様子はない。


(桐山沙穂という女が特殊なのか、それとも師匠は影使いを量産できる何かを持っているのか)


 いずれにせよ、影法師がそこまでする何かが沙穂にはある。

 沙穂が影使いとして行動することは、影法師と彼女がただならぬ仲であると触れ回っているようなものだ。影法師唯一無二の弟子という自負の強いベルにとって、それは許容し難い事実だ。それに犬上市や影法師を狙っているであろう神楽査察官は、沙穂が影使いだと知れば必ず動く。

 ならば。


「サホ、あんた拳銃専門よ。ぺーぺーの術でサポートされたらこっちの身が保たないもの、あたしが許可するまで術は絶対使わないでよね」

「……そりゃ、構わないわよ。ジンライ君もいるし、影の術って消耗激しいから」


 ベルの真意に気付かぬ沙穂は、パートナーとしてベルに認められたと思ったのか少し嬉しそうに応じた。魔力により強化された筋力は拳銃の反動に耐えるだけの強さを沙穂に与えていたし、理系である彼女にとって得体の知れない魔術を使うくらいなら拳銃の方が多少なりとも納得できるからだ。もちろん、それが非合法であることは既に諦めている。合法的手段で敵対する術師や異形を倒すことはできないし、借金も返せない。


(師匠に迷惑はかけられない)


 沙穂の存在は疎ましいが人格を否定するほど嫌ってはいない。それに師匠たる影法師が護ろうとしている人間を、自分が処分するわけにはいかない。


(できるとすれば、きっつい現場に突入して悲鳴を上げさせるだけよね)


 借金の返済も早くなるだろうから帳尻は合うだろう。

 そういうことを内面に隠しているとはおくびにも出さず、ベルは朗らかに笑う。

 なお借金返済どころか膨れ上がる賠償額に両名が打ちのめされる前日の出来事である。




◇◇◇




 ひとを殺そうと思ったら、自分が殺されることを覚悟し、その上で動け。

 誰かが言った。

 蟻を踏み潰すように人を殺したかったら、偉くなることだと。正義とか内政とかそういう問題に逃避しつつ何千何万の命が気軽な一言で失われるだろう。彼らにとってそれらは数字の問題であり、心を押し潰すべき重荷にはならない。

 つまり。


「ヒューマニズムでバケモノは退治できないわよ」


 犠牲は回避できないし、そこで潰れてしまっては術師としてやってはいけない。

 ベル七枝は冷たい口調で桐山沙穂を批難した。

 術師の仕事は後手後手に廻る事が多い。封印より外れて暴れた程度の異形は弱っておりそれほど脅威ではないが、凶悪な異形の侵入ともなれば否が応でも人の生き死にに直面することになる。治癒の術式を修めた人員が常に待機している犬上市の三課でも、救えない被害者は多い。影法師の使う究極的な治癒の術式も完全に死亡した人間には意味を持たず、汚された死人の身体を繕う程度のことしかできないのだ。


「不倫関係を清算しようって時に女に刺されて、半死半生のところをバケモノに美味しく食べられましたって感じよね。そのまま理科室に飾っても良いくらいに綺麗な食い跡」


 一人で住むには少し贅沢すぎるマンションの一室。

 光沢さえ発する白骨死体が、それに不釣合いなほど立派なスーツを着て横たわっている。アイロンをかけたばかりなのか折り目が立っており、下腹部に刺し傷こそあるものの血が染みた形跡はない。おそらく近くに隠れていた異形が布地に染み込んだ血液さえ勿体無いとばかりに消化したのだろう。


「どのみち出刃包丁が根元まで埋まるほど思い切り刺されていたもの、バケモノがトチ狂って応急処置したって助からないわ」


 現場検証をしていた三課職員が転がっていた大型の出刃包丁を拾い、ベルに見せる。魚市場の職人が持つような本格的な代物で、山姥の持つ鉈を思わせるような大振の刃だった。何度も何度も突き立てるには重すぎるし、最初の一撃で根元まで深々と刺さったのなら引き抜くのも容易ではない。怨恨による刃傷沙汰となれば何度も何度も刃が突き立てられるようなものだが、この被害者の衣服に一箇所しか刺し傷の痕がないのはそのような理由なのだと……それはもう愉快そうというか感心しきった表情で三課職員は説明していた。


「サホ?」

「……これ、死体よね」

「魂は昇って魄は沈んだから、モノホンの死体」


 現実味のない被害者を前に沙穂は困惑している。

 ベルの言葉に自然と力がこもる。

 目の前に転がっているのは、いかなる術を用いようと助けることもできない死体だ。虚飾を削るだけ削り、人の本質を剥き出しにした姿とも言える。骨となれば生前が痩せぎすだろうが肥満児だろうが関係はなく、更に焼いて灰となれば生前どれほど貧富の差があろうと何の違いも見出せない。そしてたとえ重度の薬物中毒者でも、焼いた骨を砕いて一握の灰としてしまえば健常者と変わる所はない。

 死とは全ての人に等しく訪れる終焉であり、それ以上の意味は宗教家が自問する領域で術師の扱う分野ではない。

 もちろん弔う者にとっては故人との思い出をつなぐ触媒だろうが、そうでない者にとっては骨灰にどれほどの価値が見出せようか。


「屍食鬼の類にしては、礼儀正しいですね。部屋の掃除してるし」


 鑑識を担当している職員が驚きを口にする。白骨死体は通夜の席で使うような床に寝かされ、弔うための白帷子も手縫いのものが近くに置かれていた。遺産配分で困らぬよう印鑑や株券それに預金通帳が一箇所にまとめられてテーブルの上に置かれ、香典が一人分添えられている。通報を受け最寄の派出所より警察官が駆けつけたときは、虫除けと死臭隠しのためのシキミ香が焚かれていたという。


「普通の葬儀屋だってここまで丁寧にはできないって、警察の人が呆れてました」


 なにせ警察の到着から半刻も経過しないうちに檀家の坊主がやってきたのだ。聞けば前夜に連絡を受け、この日この時に訪れるよう指示されたとか。虫も寄らず腐臭もしない白骨死体は何も語らない。


「臭わない亡骸ってのは、扱いやすくて良いわ」

「そういう問題じゃないような」


 不快さも気味の悪さも感じさせない死体を前に、担当術師として呼ばれていた二人の少女は情けない漫才を延々と繰り返していた。




 標的というべき異形は直ぐに見付かった。

 なにしろ異形は被害者の不倫相手だったのだから。


『だって、あの人……奥さんと別れるって約束してくれたのにっ。娘さんが大学受験で微妙な時だからってっ。だから、だからっ!』


 大手企業には必ず一人はいそうな、お色気系OLが泣きじゃくりながら白状した。元は自殺して半死半生の女性に憑依して身体を操っていたのだが、身体が同化するにつれ人間社会を満喫するようになったという。


(だからって不倫して、痴情のもつれから刺した相手を食うってのもねえ)

(わたしに言われても)


 エロスとバイオレンスが炸裂する伝奇アクションではない。

 健康を謳う割に血色悪いことで有名な芸能人が脳裏に浮かぶ、三流ゴシップ誌の記事にもならないような話だ。


(まあ、こういう事件もたまにはあるわよ。犯人も自首してるんだし、とっとと封印かまして次の事件事件。あんたの借金返さないとっ)

(……いいのかな、こんなの)


 と。

 釈然としない沙穂を引きずりベルはそれ以上の追及を避ける事にした。




◇◇◇




 変革は自覚を伴わぬことが多い。

 それは本人が満足していなかったり、本人が意図せぬ変化が訪れているからかもしれない。


「誰、この人。知り合い?」


 毎日数件の事件を追いかければ、様々な人間に出会うものだ。

 突発的に起こった、妖魔の出現。

 無目的に行動する低級な異形ではなく、思想信条を有し特定の施設や人物を欲求とは関係なく破壊し殺害する集団。過去に何度も、幾つもの場所で妖魔たちは政府を転覆させあるいは人類という種を滅ぼそうと暗躍してきた。現在も、世の裏では妖魔と術者たちが戦っている。妖魔を専門に追いかける術師もいるくらいだ。

 そして人の世の裏側に近しい犬上の街ならば、妖魔の影もよく現れる。

 彼らが何を目的としているのか、末端の術師にまで伝わらないことは多い。妖魔の迎撃を専門に扱っているのは政府系の組織であり、秘密主義で知られる彼らから情報を引き出すことを術師たちは既に諦めている。


 とにかく倒す。それを合言葉にして術師は黙々と戦う。

 そういうわけで、日付が変わる直前に桐山サホとベル七枝は数名の少年少女を救い出した。そのまま放置していれば妖魔の餌食となっていただろう、術式によって麻痺状態に陥っていた中高生達だ。歓楽街に近い場所で発見された彼らは私服姿で、頭髪やピアスなどの装飾も様々だった。彼らの多くは自身の生命が危なかったことを理解して泣き出し、残り半分はベルが生み出した炎の奇異さに驚いていた。炎は生命のように動いて少年少女を一瞬だけ包み、麻痺の術式のみを焼き尽くしたのだから、度肝を抜かれるのも無理はない。


(これ、なんかの撮影?)

(そんな訳あるかよ。俺たち殺されそうになったんだぞ)

(でもでも、あっちの女は拳銃ぶっ放してたし)


 歓楽街の裏通り、人のあまり訪れない行き止まりの路地が妖魔の餌場になっていた。蜘蛛糸を吐いて麻痺の術式としていた妖魔は既にベルの火炎で焼かれ、浄化の術式を込められた弾丸を数発くらい、その上で封じられている。極普通の編成を組んで異形に挑む術師では倒しきれない強敵だったが、牽制役として大狼ジンライが蜘蛛型妖魔を威圧していたのでサホとベルの二人でも十分に対応できた。

 もちろん無傷ではない。術式を編みこんだ糸を吐く蜘蛛は下手な術師より厄介な存在で、たった一体にも関わらず十数人分の術を同時に解き放つのだ。ベルは右上腕部の骨が折れていたし、脱臼したまま銃を撃ったサホは左肩の筋を痛めている。皮膚の上層をえぐる傷は無数に等しく、制服は血液と泥で汚れボロボロになっていた。


「もうじき専門家と警察が来て、あなたたちを保護するわ」


 すっかり現場慣れしてしまったサホが被害者の少年少女を捕まえて説教気味に話す。


「簡単な検査と治療、事情聴取と被害補償のために数時間から半日前後の期間あなたたちの身柄を拘束するわ。家庭や学校には組織と警察の方から説明が行くので心配しないように」


 ちなみに逃げ出すとバケモノに憑依されたと判断して容赦なく攻撃するのでヨロシク。

 弾倉を交換し、安全装置を解除する。可能なら逃げ出そうとしていた少年は息を呑み、へなへなと腰を抜かす。


「ベル?」


 治癒の術式を封じ込めた呪符を用意しつつ、サホは普段は口やかましい同僚ベルが不思議なことに沈黙しているのに気がついた。たとえ練気を修め多少の苦痛に耐性を持つ身でも、上腕部の骨折というのは想像を絶する痛みのはずだ。早い内に処理しなければ内出血や発熱で体調を崩すことになる。仕事はほとんど終わっていたとはいえ、予定外の事故は常に起こるのだから三課で待機する必要がある。


「ねえ、ベル?」


 視線を少し動かせば、直ぐに彼女は見付かった。

 ベルは助け出した一人の少女の前に立っており、彼女の顔をまじまじと見つめていた。負傷した上腕部には治癒の呪符が既に貼り付けられており、骨がずれて癒着しないように空いた手で患部を押さえながらベルは少女を見ていた。


 中学生にしては派手という印象。

 あちこち撥ねた髪は真っ赤に染めてあり、歳相応の童顔を厚化粧で強引に書き換えて派手なものにしている。田舎っぽさの残る犬上の街には珍しく時代を追いかけた衣服に靴だが、それらは化粧と同じく本来の機能を発揮できないほどボロボロになっていた。


「どうしたの、知り合いでもいたの?」


 サホの言葉に少女が肩を震わせ引きつった顔でベルを見る。


「い、いるわけないでしょ。あのね、青蘭ってのは名門の上にお堅い校風なのよ」


 こんな盛り場で深夜に他校生と遊んでいるのが知れれば運が良くて停学処分だ。

 少女だけに聞こえるような声で小さく呟けば、うずくまっていた少女は痙攣する。ベルは嘆息し、丈夫さが取り得の携帯端末を展開して三課の支局を呼び出した。


「えーと、ベルさん?」


 単独行動を好むベルは三課への報告を最後にまとめて行う。それは癖といっても過言ではなく、一緒に組むようになったサホも対応に苦慮する部分だった。優秀な術師はそういうものだとパトリシア・マッケイン博士も諦めていたし、三課職員も書類さえ提出できれば経過は問わないとしていた。

 そのベルが。


「……もう一度言うわよ、蜘蛛型妖魔を撃退する際に民間人に協力を要請して身柄を一時拘束したわ。氏名は森崎螢、青蘭女子の中学生。彼女の協力なしに妖魔を封じることはできなかったから、保護者と学校には説明しておいて」


 会話というよりは一方的な通告をまくし立て、端末の回線を閉じる。


「あんた、偽善者?」

「簡単な忠告よ、鼻を折られた森崎さん」


 恐怖と屈辱に顔をゆがめた少女、森崎蛍が顔を上げる。ベルは偽善者呼ばわりされても涼しい顔で、蛍と同じ視線になるべく腰を落として不敵な笑みを浮かべた。蛍はベルに嫌がらせをした同級生の一人で、裏拳一発で軟骨を砕かれた少女だった。術式により傷は癒え鼻も元通りとなったが、幻覚としての痛みが今も彼女を悩ませている。ベルを見た時に面に出した感情は、憎悪と恐怖と安堵が入り交じった複雑なものだった。

 こんな形でなければ生涯関わりたくないと、態度に出ている。


「忠告って、何よっ」

「ずれてる」

「……へ?」


 間が空いた。


「ばいんばいんの胸が上下にずれてるって言ってんのよ、グラマラスな森崎さん。気付かれる前に直しといたら?」

「っ!」


 その指摘を受けて初めて蛍は、分厚い胸パットが外れているのを自覚した。

 恥ずかしさと怒りで混乱した彼女は慌てて胸の位置を修正し、文句の一つも言ってやろうと顔を上げる。


「ふざけないで、七枝っ!」


 先刻までの恐怖が吹き飛んだ、罵声に近い叫び。

 しかし、その時既にベルとサホの姿はどこにもなかった。





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