第十三話 ひのきのけん

ひのきのけん(壱)




 闇が広がる。

 湿り気を帯びた冷気が、そこが森の中だと告げている。耳を澄ませば、夜風に擦れる木の葉の音や虫の鳴き声も耳に届くはずだ。


(聞こえない)


 露を吸って柔らかな森の土を踏んでも、ベル・七枝の耳には何の音も届かなかった。

 聴覚が失われたのではない。

 心臓の音と、全身に巡る血の流れが生み出す音が、本来聞こえるべき周囲の全てをかき消しているのだ。彼女は意識を失う一歩手前の緊張感に支配され、それを自覚した上でそこに臨んでいた。即ち、戦場にだ。


(お師匠は、森羅万象の全てに心身を任せろって言ってた)


 その場にはいない少年術師の助言を思い出し、自分がその境地に達するには果てしなく遠い道のりが待ち構えていることを痛感した。

 人工物の多い都市ならば、異形の気配を追うのは容易だ。

 ところが森の中には、人にあらざる気配がこれでもかというほど存在している。十年余を越えて育つ樹木には大小さまざまの木霊が宿り、そこを根城とする無害な異形も少なからず住み着いている。日の差す内はまだしも、日付も変わり街の灯さえも数を減らす頃ともなれば、闇に溶け込む異形を特定するのは不可能に近い。


 それでも追わなければならない。

 異形を倒せるのは術者だ、その術者が責務を放棄すれば誰も術者を頼ろうとはしない。

 ベルが追っているのは凶悪な異形だ。他所より迷い込み、犬上の街に至るまでに十数名の警察官に深刻な傷を負わせた存在だ。正面から戦えば、炎術と気法を修めた彼女の敵ではない。だが人手不足の三課では彼女を援護できるだけの人材を確保できず、結果として彼女の独走を赦してしまった。


「大丈夫です、わたしは影法師の直弟子ですよ」


 三課事務員が心配して引きとめようとした時、ベルは己の心細さを隠すように強がってみせた。

 確かに影法師は驚くほど腕が立ち、そして実戦経験が豊富だ。単独で活動する術師としては、おそらく「北の特異点都市」を事実上支配している連中を除けばトップクラスの実力者だろう。彼女はその影法師に師事し、術師としての基礎を叩き込まれたのだ。それまでに影法師の教えを受けた術師はなく、唯一無二の弟子としての自負がある。たとえ影使いと炎術師の差はあっても、術師としての強さを師匠より継いだという自信もある。

 逃げたくないし、逃げるわけにもいかない。


(時刻の期限まで七十分)


 あと一時間ほどで事件の管轄が犬上市の三課から他地域に移行する。魔物を根絶させるべく過激な行動を起こしている神楽査察官たちは、管轄権を奪って犬上市に侵入を果たそうとするだろう。三課の管轄下、いや屋島英美査察官の管理下にある唯一の特異点都市である犬上市には、直属の部下であるベルにさえ伏せられた幾つもの秘密がある。


(そして秘密は、お師匠に関わっている)


 確たる証拠はないが、間違いないと直感が告げている。

 神楽査察官が事あるごとに犬上市に手を出そうとしているのも、彼の目的を達成する上で犬上市の秘密を狙っているのだ。だから屋島査察官は彼女を影法師の家へと下宿させたのではないのか。肌を重ねても彼女を咎めず、それどころか詳細な報告を求めたのではないのか。

 呼吸を整える。

 大丈夫、自分は強い。

 職員相手に口にした言葉は決して嘘ではない。師と慕う影法師と共に、短期間の間に幾つもの異形を討ち滅ぼし封じてきたのだ。熟考し経験を次回に活かす余裕こそないが、鍛え上げた身体は無意識という形で最良の手段を導き出すと信じている。


「焔雀」


 掌に現れた小さなコインを握り締めれば、その甲に小さな炎が生まれる。闇を濁すには不十分な、蛍よりも弱弱しい魔術の炎だ。赤青白の、勾玉のような小さな炎が三つ巴に回転して円を描き、それが一つの形を生み出す。


『呼んだかね』


 それは小さな小さな鳥だった。夜店の飴細工よりもはるかに小さく、そして細緻な姿の鳥だった。尾羽は孔雀に似て、しかし翼の造作は大鵬を思わせるものがある。冠を戴く頭には三角四角五角の紋様が刻まれ、羽ばたき巻き起こすのは熱風だ。


「悪意ある異形を見つけて」

『造作もない』


 声が聞こえたわけではないが、そう小鳥が答えたとベルは理解できた。

 ふいと炎の息を吐き、焔雀と呼ばれた小鳥の異形は闇夜に消える。

 それから数秒後。

 ばちり、ばちりと周囲の森で木の葉が弾ける。蜂の針穴より細い炎の嘴が木々の葉を貫き、僅かに焦がしているのだ。音は、掠れるほどの小さなもの。たとえ聴覚が上手に機能しても、聞き取るのは至難の業だ。彼女がそれを察知できたのは、火の粉としか形容できないものが現れては消えているからだ。

 炎は動く、ベルはそれを目で追う。

 かすかな炎は表れては消え、やがてある一点で大きく弾けた。踏み込むには遠く、しかし認識できるほどの距離。ベルは渾身の力を込め、虚空を蹴り上げた。


 凛。


 トレッキングシューズが炎に包まれる。炎は螺旋を描き、螺旋は一条の槍となって虚空を貫き、先刻火の粉が弾けた闇に炸裂した。


 凛。


 鼓動の激しい音さえかき消してしまうような絶叫が森に響き、それから不気味なほど静寂な時間が訪れる。


(……任務、完了)


 それだけを認識するとベルは焔雀を消し、そのまま次の任務に移行した。




◇◇◇




 中学生の夏休みは短い。

 高校受験が存在しない中高一貫校の青蘭女子であっても、休みは短い。授業もそれなりに厳しい。名門と呼ばれる学校とて看板に胡坐をかいていられる時代ではないから、生徒の個性を伸ばすという方針で様々なタレントをかき集める。運動に秀でたもの、学力に秀でたもの。名士を親に持つ生徒も少なくない。

 ベル・七枝を青蘭女子に編入させたのは、三課査察官であり彼女の直属上司である屋島英美だ。わざわざ青蘭女子を選んだ意味は当初知らされていなかったが、教師たちはベルの裏稼業に理解を示していた。


「優秀な術師を輩出することは、未来への投資です」


 編入時に理由を尋ねた時、理事長を名乗る老婦人は穏やかな顔で答えた。


「術師の仕事は奇麗事じゃないですよ」

「理解しているつもりです」


 本当だろうか?

 ベルは理事長が微笑んだ時、面にこそ出さなかったものの言いようのない怒りを感じた。どうみても戦後復興期、高度経済成長の頃に青春を過ごしたとしか思えない能天気さだ。若い頃に社会主義とかに夢を抱いていた世代かもしれないが、個人の主義主張に口出しするほどベルに余裕はない。


 術師が相手にする異形というのは、人の心が生み出す闇だ。そして人の心が持つ闇というのは、人間が抱え込む矛盾に由来する。心身ともに不安定な年頃の子供たちが一箇所に集うのは、下手な怨念より厄介なものを生み出す事が多い。


(それでなくとも、閉鎖された環境は人を歪ませるのに)


 人間は生まれながらにして善である。

 理事長はそれを繰り返していた。良家の令嬢として育ち、人生の修羅場や怨念というものを回避して今に至った女性なのだと、ベルは後で知る。知る前から、そんな気はしていたが。


「欲望に忠実なだけ、バケモノの方が好感を持てることも……ある」


 いちばん最初にベルに魔術を教えた者の言葉を口にして、彼女は拳を強く握った。

 金星の名を戴くスコットランドの魔女は、人間の美しさと醜さを共に説いた。ベル自身、生まれ育った地で様々なものを見聞し、術師となってからはそれより多くの物事を体験した。人の善意も悪意も共に見て、その上で性善説を主張できるほど彼女は強くない。





 拳骨に血と涎が付着している。


 ベルのものではない、人間の血だ。足下には、折れたての前歯が数本、血と共に転がっている。

 折られた前歯より少し離れた場所に、中等部の生徒と思しき女子中学生が数名、前歯と同じような状態で倒れている。一人は鼻が潰れ、一人は前歯が数本折れ、一人は後頭部を打撲されたのか顔面から地面に埋まり、その他はどうってことのない怪我で、どうしようもないほどの恐怖に怯え互いに庇いあうように震えていた。彼女たちの半分はベルの同級生で、残りの半分は同じ学年の娘達だ。


 彼女たちは、その犯罪歴で判断すれば善良な市民だ。誰にも怪我を負わせず、誰の財産も奪わず、誰の命も奪っていない。拳銃も毒ガスも手榴弾も対人地雷も大口径ライフルも携行型地対空ミサイルランチャーも、およそ生命健康を損ねる以外に使い道のない器具とも縁のない生活を送っている。国家の情報網に危険人物と認定されることも、遺伝資源に致命的な損傷を及ぼすようなバイオテロを起したことも、倫理上不適切な書籍を出版したことも、一国経済を傾けるほどの損失を企業に与えたことも、もちろんない。

 そのままなら歴史に名を残すことなく生涯を終えるであろう娘達だ。

 彼女たちは、ごく普通の娘達だ。

 普通の娘が持つ、年頃の娘達が持つ心の闇を抱えていた。学校という閉ざされた環境で、自身の矛盾を誤魔化しながら、イレギュラーな存在を排除することで自己を保とうとする。普通の少女達だ。


 だから。


 ベルの教科書がカッターナイフのようなものでズタズタに切り刻まれ、

 体育の授業中に、ベルの制服の内側に接着剤を大量に流し込まれ、

 教室の机と椅子が、ベルの分だけ廊下に放り出され、

 しかし彼女は最初それが同級生達の嫌がらせとは気付かなかった。まず最初に疑ったのは敵対した術師の仕業であり、術師に敵対的な魔物の悪戯だ。桐山沙穂がそうであるように多数の制服や教科書のストックを有しているベルはそれほどショックを受けず、考えたとしても周囲に迷惑をかけずに魔物を討ち滅ぼすことだけだった。


 全く傷ついた様子のない彼女に同級生たちは焦り、その態度と心の強さからベルへの敵意を増幅させた。そうして、自分たちでは慎ましいと思っていた嫌がらせがまるで役に立たないことを自覚し、直接行動に出ることを決めた。彼女たちはベルを校舎裏の人気のない場所に呼び出し、どうでもよい理由で因縁をつけたのだ。


 暴力によって異分子を排除する方法は原始的かつ効率の良いやり方だ。

 それだけにベルは激怒した。彼女たちはベルの身体に致命的な損傷を及ぼすような器具を手に、襲ってきた。

 対応は素早かった。にやにやと口を開いていた女生徒の鼻が潰れ、驚いた女生徒の前歯がまとめて折れる。悲鳴を上げようとした生徒が踵落しに沈み、その他の生徒は逃げ出す前に平手打ち一発で戦意を喪失していた。ただの平手打ちではない、掌底気味の構えに気を乗せた一撃だ。歯の根どころか顎関節に異常を来たすほどの強烈な衝撃が全身を襲い、女学生達は吹き飛ぶ。ほぼ全員が泣きじゃくり、失禁する者さえいた。


 先刻までベルに向けられていた悪意は、今では恐怖と保身に替わっていた。時折殺意に近いものが向けられても、ベルが石畳を踏み砕き、錆び付いていたバレーボール用の鉄柱を蹴り一発で圧し折るのを見れば、敵意など完全に失せる。

 悲鳴と嗚咽は日本語にはなっていない。

 全員を叩きのめした後。

 ようやくベルは、襲撃してきた同級生達が、魔物に支配されたり術によって操られたのではなく……自らの破壊衝動と強迫観念そして歪んだ仲間意識からベルを襲ったのだと理解した。


(ああ)


 これは集団リンチだったのだ。

 だとすれば、これまで教室で起こっていた数々の出来事も納得はできる。確かに自分の中に流れている日本人の血は半分もないし、髪の毛や瞳の色も違う。骨格の造りや肌の色も、今まで過ごしてきた文化体系も違う。ベルの存在は排除すべき異分子なのかもしれない。

 呆れ、それ以外の感慨も持たずベルは拳骨の汚れをウェットティッシュで拭き取る。人間の前歯を折るほどの強打を食らわせながらも、彼女の拳は皮膚一枚傷ついてはいなかった。

 知らず溜息が漏れる。


(群れて、圧倒的優位に立って、贄を求める。自分が大多数の一員であると自覚し、少数派を迫害することで自身の存在を安定させようとする。人間としては当たり前の欲求と本能)


 安心を得るために犠牲を欲求する感情。

 残酷な事件を報道するテレビ番組や、近所で暇を持て余した主婦が立てるゴシップ紛いの噂話と大差はない。少しばかりの同情と、そこから得られる圧倒的な安心感が欲しいのだ。火事というのは対岸で見るに限る、己の裾が焦げるまで火に迫るのは病的な放火魔か勇敢な消防士だけである。


(この子たちは、自分が消し炭になることなんて考えたことあるのかしら)


 這って逃げようとする一人を髪ごと掴んで引き戻し、手首をひねる。ぶちぶちという音と共に、脱色され染め直した跡のあるセミロングの髪の毛が数百本、束で抜ける。毛根を傷めてはいないが、快楽とは程遠い刺激が彼女の神経を刺激し、絶叫を上げさせようとして身体が硬直した。彼女は同級生達を煽動してベルへの嫌がらせを企てた中心人物の一人で、表立って周囲を操るのではなく、別個にリーダーを立てて自身の意見を通すタイプの人間だった。


(何も知らないと思うけど)


 一応は規則だからと、ベルは今までよりきつい口調で喋った。


「第零種対策員職務妨害その他諸々の現行犯って奴で、あなたたち全員拘束するから」


 それから数秒もたたず、パトカーのサイレン音が青蘭女子の周辺で鳴り響いた。最初それが冗談かハッタリだろうと考えていた女生徒たちも、武装した警察官がベルの背後に駆けつけるのを見て蒼ざめた。


「拘束しなさい」

「はっ」


 ベルの冷たい言葉、敬礼する警官たち。手錠ではなく樹脂製の拘束具で手足を縛られるに至り、女生徒たちは己の身に起こる事の一端を理解した。

 言葉にならない絶叫。

 しかし誰も来ない。喧嘩沙汰になれば駆けつけてくるはずの教師も、正義感を持った高等部名物の先輩も来ない。まるでそこが閉ざされた世界であるかのように、女生徒たちに救いの手を差し伸べるものはいなかった。


(これが……「理解」ってやつ?)


 理事長の言葉を思い出し不快そうに眉を寄せるベル。背後では錯乱した女生徒達がベルに助けを求めている、彼女たちは心からの謝罪なるものを口にし、自分たちが同級生であることや、あるいは地元の名士を両親に持つことを口にして、その知恵が廻る限りの全てを尽くして現状を脱するべく説得を試みようとした。


「七枝さんっ」

「大丈夫よ、またとない社会見学できるんだから」

「……社会……?」

「連行して」


 無言で敬礼し、女生徒達はパトカーの中に放り込まれる。悲鳴を上げるものには猿ぐつわが噛まされ、モノクロの扉が無慈悲な音を立てて閉まった。来たときと同じ盛大なサイレンを鳴らしてパトカーは去っていく。

 異形との関連性が無いと判断されるまでそう時間はかからない。むしろ秘密維持と称しての脅しめいた警告に女生徒達は震え上がり、同様の警告は両親にも届けられるだろう。


「くそっ」


 やり場のない怒りを込めて折れた鉄柱を踏めば、それらは融解してただの鉄塊に戻った。呼吸を荒げ肩を上下していたベルは鉄塊を蹴り飛ばし、未だやり残している幾つかの仕事を片付けるべく学校を抜け出して街に消えた。





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