夢幻境より(肆)
ふさふさの尻尾が左右に揺れている。
髪の毛の間から飛び出している耳は尖っているが、沙穂を前にやや垂れ気味だった。それが感情を示す器官でもあるかのようにめまぐるしく動くのは、杉原少年の存在が物質的に希薄だからかもしれない。
『あの、ですね』
横にはウェイトレス姿のルディがいた。盛大にスカートを翻し物理法則さえ捻じ曲げる勢いで飛び蹴りした彼女は、着地点として沙穂の部屋のベランダを選んだのだ。ルディは沙穂や杉原少年のことなどどうでもいいのか、着崩れしたウェイトレスの制服を正したり、天哮砲で壊れてしまった自分の携帯電話を適当に眺めている。
『杉原ミチルというのは、社会生活を営む上での偽名なんです。本当は、ジンライって』
「あ」
その名を耳にして沙穂はようやく自分の中の違和感がひとつにまとまったのを理解した。小物や宝石を入れる箱の中から、狼の紋様が打刻された銀貨を取り出した。そこにはしっかりと迅雷の名が刻まれている。
「少しだけど、覚えてる」かすれる声で沙穂は続ける「私、とっても大きな狼さんと一緒にいた。理由はわからないけど、狼さんは私を守ってくれた」
『それが、ぼくなんです。狼の姿では今後沙穂殿を――桐山先輩を守りきれないから、人の姿で行動を共にしようと思ったんです』
「……誰かの命令で?」
返答するまでに数秒の間が空いた。その気まずい空間で一人蚊帳の外に置かれていたハヤテは『忠犬だねえ』と呟いた。
『この姿になったのは影法師様の助力あってのこと。ですが!』
「とりあえず命とか色々助けてもらったし、お礼は言うわ」
それに私が知らない大切なこと、いろいろ知ってそうだし。
沙穂はジンライ少年の頭を撫でてやった。
ジンライ少年は照れながら「えへへへ」と嬉しそうに尻尾を振るのだった。
虎ほどもある大きな狼が、桐山沙穂の目の前にいる。
『ジンライと申します』
狼は静かな口調で挨拶する。狼が先刻まで杉原ミチルと名乗る少年だったことを彼女は覚えていたが、それを直ぐに理解し納得できるほど彼女の思考は柔軟ではない。
『沙穂殿の身を守るため、人と獣の姿を得てお仕えするものであります』
美少年の姿で告白してきたのも、全ては自分を守るため。ジンライは穏やかなかつ生真面目な調子で説明する。ベッドに腰掛け壁に背を預けていた沙穂は、正面よりこちらを見てくるジンライの姿に既視感を抱いている。ジンライは沙穂の記憶喪失について言葉を濁していたが、自分はジンライと親しかったのだと納得することにした。
「影法師って人の命令なのよね」
『そうでござる』
「なんで本人が説明したり護衛してくれないの?」
ジンライの動きが止まった。顔はこちらに向けたままだが、視線がめまぐるしく動く。これを見て不審に思った沙穂は上体を起し、ジンライの頭をがっしと両手で掴んだ。ジンライの顔は険しく獰猛だが、杉原少年として認識しているためか恐怖感はない。
「どうして」
『……初対面の人物が「君は魔物に狙われているので二十四時間護衛する」と言って付きまとったら嫌でござろう。生身の人間にストーカーされるよりは、動物の方が安心もできましょう』
それは相手にもよると反論すれば、ジンライは更に黙る。
「影法師って人が誰かにもよるわよ」
自分の身を案じてくれるのは、悪い気分ではない。事情を説明せずに護衛するなど、普段の沙穂なら腹を立てているところだが。
きっと自分は影法師を知っているのだろう。
「影法師って人のこと教えてくれなかったら」
『?』
「くすぐり倒すわ」
言うや沙穂はジンライの背に飛び乗って、首筋や背中をわしゃわしゃと指で掻く。気持ちよい部位はジンライでも一緒なのだろう、わふわふと気持ち良さそうな声で悶えるのを見て沙穂は言葉を続けた。
「止めて欲しくなかったら、正体を教えなさいっ」
『その許可は得えてないでござるよ』
とは言うものの、快楽に溺れそうなジンライは忠誠心の限界が近いのを悟っていた。
◇◇◇
柄口鳴美は怒っていた。
同級生の沙穂が杉原ミチルと付き合い始めたことにだ。あれほど文彦に思いを寄せていた沙穂の心変わりは、友人を自負していた鳴美にとっても衝撃的だった。文彦に対する気持ちは本物に思えたし、だから色々相談にも乗っていたのだ。
それが。
確かに部活の後輩とやらは可愛い。あのような美少年に告白されたのなら舞い上がるのも無理はない。鳴美とて告白されたら躊躇しないだろう。
とはいえ、沙穂の場合は話が違う。
一学期の始まりの頃から、彼女は文彦に対する好意を抱き続けていたではないか。学期末の告白そのものは玉砕したが、夏休みにそれを挽回したはずだ。鳴美や他の同級生達は、そんな沙穂を応援していた。
相手がよりによって文彦という選択肢のマニアックさに困惑することはあってもだ。
(沙穂ちんのこと、見損なったっす)
羨ましいというのもあるが、男女関係の仁義という古臭い価値観が鳴美にはあった。派手な外見と抜群のスタイルにもかかわらず堅実な学生生活を送っているだけあって、部分的には沙穂より真面目な部分もある。だから沙穂の行為が裏切りと映ったのだろう、鳴美は沙穂の家に上がりこんでいた。
本当に嫌いなら絶交してしまえばいい。
そうしないのは沙穂に対して信じたいという思いが僅かでも残っていたからだ。畠山智幸は杉原少年を沙穂の新しい彼氏と解説していたが、ひょっとしたら勘違いかもしれない。ならば誤解を解くためにも話をしなければいけない。
携帯電話では駄目だ。あれは顔が見えないから気持ちが伝わらない。そう考えた鳴美は直接沙穂の家を訪問した、幸いにも沙穂の母は在宅であり彼女が部屋にいることを教えてくれた。
(とにかく話をしなきゃ)
駆け足気味に階段を上り、部屋のドアを叩く。
「沙穂ちん沙穂ちん、大事な話があるの!」
入室の同意を得る前に扉を開ける。鳴美の気配に気付いたのか扉の向こうでは何かどたばたする音が聞こえるが、鳴美は構わずに開け放した。
と。
「沙穂ち……」
鳴美は固まった。
最初それが見間違いであることを祈り、しかしそれが紛れもない事実であることを認識した。
そこに沙穂はいた。
上着を脱いでリラックスした沙穂が、そこにいた。
杉原少年もだ。
沙穂は少年の身体をくすぐるように密着して身体に手を廻し、そのままの姿勢で鳴美を見ていた。杉原少年は四つん這いで一切の衣服を着用せず、頬を赤く染めながらやはり鳴美を見ていた。どのように解釈しても、どのように妄想を働かせても、得られる結論の幅は狭い。窓際に褐色肌の美女が携帯端末を掲げて撮影しているあたりがトドメだった。
つまり。
「あは、は……」
軽い目眩を覚えつつ、鳴美は後ずさる。沙穂は未だに状況を把握できていないのか、瞬きしかしない。
「そのぅ、まさかそこまでとは思ってなくて――ゴメン、もう邪魔しないから」
沙穂の返答を待たず、鳴美はドアを閉め部屋を去った。
鳴美が家を出て行く頃になって沙穂はようやく事態を把握する。杉原少年が大狼ジンライへと戻ったからだ。
『危ないところでしたな、沙穂殿』
ジンライが呑気そうに息を吐く。
『ケダモノの姿で沙穂殿の部屋にいるのが知れれば問題がありますからな。急な変身だったので着衣までは手が廻りませんでしたが、御学友の目をごまかすには』
その先の言葉を発する前に、発狂寸前の沙穂はジンライの巨躯をルディもろとも窓から外に放り投げていた。
翌日は犬上北高校の夏期登校日だったのだが、全校に嘘とも真実ともつかない怪情報が錯綜した。
その中心たる桐山沙穂は高校生活で初めて職員室呼び出しを喰う破目となった。
担任教師にたっぷり説教を喰らった職員室からの帰り道、教室の入り口に張られた一枚の紙に沙穂は気がついた。安っぽいケント紙には、
「編入試験会場」
と、毛筆で書かれている。入り口より中を覗き込めば、金髪縦ロールの可憐な少女達が問題用紙を前に悪戦苦闘している様子。
(……まあ、私には関係ないか)
おそらく一年生に編入されそうな少女達に無言でエールを送り、当たり前のように学校を休んだ文彦の誤解を何とか解こうと考えながら沙穂は帰宅の途についた。
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