夢幻境より(弐)




 そこは、二十一世紀という時代を考えれば随分と時代錯誤な住居だった。


 よく言えば職人気質の仕事ぶり、そうでなければ古臭さを感じさせる日本家屋である。瓦の位置をきっちりと揃え、黒塗りの板塀より越えて覗く黒松は枝葉の隅々に至るまで手入れが行き届いている。門をくぐり玄関に至るまでに敷き詰められた玉砂利は白く磨き上げられ、大きさも均一である。

 表札には、桧の板に金泥と黒漆であしらった「音原組」の三文字。それさえも塀や門との調和を考え、華美にならないよう最大の配慮がなされているのだと理解できた。その出自と住人の性質を無視すれば重要文化財に指定されても不思議ではない、趣味の良い建物である。


「……」


 水墨画の掛け軸が飾られた、だだっ広い床の間。

 その奥に村上文彦はいた。かけるべき言葉を失い、頭痛に苦しむかのようにこめかみに指を当てている。目の前には、文彦を呼び出した「怪異」の被害者が布団に伏せている。


「オヤジぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」


 若頭と思しき中年の、およそ繊細という言葉と数光年ほどかけ離れた男が叫ぶ。すがるようにしがみつく布団にて眠るのは、犬上にその人ありとまで謳われた、最後の任侠ともいうべき漢だった。


「しっかりしてくれぇ、オヤジぃ!」「おやっさん!」「しなねえで下せえ、ヨネタケのオヤジ!」


 軟弱という言葉など進化の過程で棄てて来たような、屈強な男たちも若頭の後に続いて叫ぶ。漢泣きとの表現がこれほど似合う集団も他にあるまいと、文彦は口に出さずに感心した。


(濃いというか)


 生まれてくる時代を確実に一世紀以上間違えた集団は、彼らがオヤジと慕い「組」の看板でもある長が眠る布団を囲んでいた。

 強気を挫き弱きを助ける。

 今となっては銀幕の中でさえ見ることのない、男の中の男だと魚屋の御隠居が語っていたのを文彦は覚えている。犬上市の生き字引とまで呼ばれる御隠居にそこまで言わせるのだから、文彦は音原米武という男に多少の興味を抱いていた。


(任侠)


 その二文字が意味するところを考えてみる。

 高■健や菅■文太など、雰囲気については調査したつもりだ。では映像で仕入れた知識と現実の乖離、それがどこにあるのか文彦は理性を最大限動員して考えてみた。

 刺青、これは様々な漢たちの腕や肩それに背中に彫られている。

 髪型、やはり角刈りや坊主頭などが目立つ。

 服装、映画で見たような衣装そのものだ。

 組長を囲み嘆く彼らに問題はない。


「おー……チキン・ホークね」


 口を開いたのはベル・七枝だった。

 慣れない正座に悶絶しながら、感想を口にする。両脇を固めていた三課職員のうち、母国が一緒であるパトリシア・マッケイン博士が笑顔のままベルの顔面に裏拳を叩きこむ。意味のわからないその他の職員や組員達は首をかしげ、文彦はかつて音原米武だった者の脈を取りつつ何も聞かなかったことにした。


「身体的には問題ありまセーン」


 学習元が怪しい医学知識を披露しつつ、パトリシア。その後ろにいた「お抱え医師」も、恐怖と困惑の中でこくこくと頷いており肯定の意思を示している。


「体温37度7分。血圧は若干低め。骨格、内臓、筋肉、皮膚、生殖器もろもろ含めてパーフェクトでーす」

「――うん、完璧に……女の子なんだ」


 それが死刑宣告だったかのように、極道達が泣き崩れる。


 音原米武、52歳。


 一声かければ数百の極道者が命を捨てるとまで言われた任侠は、いまや金髪縦ロールの可憐な少女となっていた。

 白い肌、長いまつげ、朱をさしたような可愛らしい唇、程よく膨らんだ二つの乳房。

 ミルクのような甘い匂いが、男くさい板の間に漂ってくる。


「んんっ」


 どう見ても女子中高生にしか見えない米武が、上体を起す。口調こそ今までと変わりないが、その声はアニメキャラクターのような甘酸っぱさだった。眠いように目をこすり、伸びをして髪をかき上げる仕草は幼さと色気が複雑に組み合わさっており、小悪魔的な魅力さえある。

 十数名の極道たちは硬直し、息を呑んで頬を染めた。

 今までの人生で体験したことのないシチュエーションに、心と身体が勝手に反応してしまう。そうした気まずい硬直の中、文彦は足元を覆う布団をそれとなくめくった。何事も無かったかのように布団の乱れを正した文彦は、出入り口に最も近い三課職員に声をかけた。


「赤飯を人数分たのむ」

「……了解しました」


 意味するところに気付いた職員達は愕然としながら退室し、子分達はひっくり返る。


「お赤飯?」


 日本の風習に精通していないベルは子分達に尋ねるのだが、その日は誰も答えてはくれなかった。






◇◇◇





 その頃、桐山沙穂は自室で杉原ミチル少年に自身のアルバムを見せる事態に陥っていた。


 現状の認識はとても大切だ。

 桐山沙穂はそう考える。たとえば吹奏楽での演奏、壇上の指揮者だけではなく自身が所属する楽器の調和、木管楽器全体での調和、それが吹奏楽部全体となった時にどのような音を和するのかを考える。会場の湿度、気温、人の混み具合、客席の構造や材質まで考慮して、初めて音楽は本来の実力を発揮するのだ。

 だからというわけではないが、沙穂は現状認識に対して少しばかりの自信を持っていた。


(うううう)


 現状認識と対処は、必ずしも一致しない。

 沙穂は、自分が初歩的なミスを犯してしまったことを自覚した。


「桐山先輩って、小学生の時は眼鏡かけていなかったんですね」


 杉原ミチル少年が、やや興奮しながら沙穂のアルバムを眺めている。どういう経緯で杉原少年が沙穂の家に上がったのか、それさえ記憶に残っていない。

 アルバムは、村上文彦を家に誘った時に見せようと思って用意したものだった。沙穂が最高の恋愛指南書として愛読している「乙女原まいむ」の恋愛漫画「銀と星のアルバム」を参考に立てた綿密な作戦だったが、今回に限っては全て裏目に出ている。


 気がつけば杉原少年はそこにおり、沙穂は家族が全員出払った自宅のキッチンで紅茶の用意をしていた。しかも鼻歌など歌って。


「眼鏡外すと、もっとステキになるのに。勿体無いなあ」


 しげしげとアルバムの写真を眺めた後、ぽつりと呟く杉原少年。どきっとした沙穂は淹れかけの紅茶をカップごと引っくり返し、慌てふためいた。




◇◇◇




「簡単な説明と、長くていい加減な部分があってわかりにくい説明の二つが用意されている」


 奥歯が砕けるほどの平手打ちを数度食らわせ、適当に取り出したバーボン「ベンチマーク」を一瓶流し込んで、若頭はようやく理性を戻しかけた。村上文彦はバーボンと血と唾液で汚れた右手を軽く振り、空き瓶を後方に投げ捨てた。とっておきの一本だったのだろう、所有者たるパトリシア・マッケインが血の涙も流さんばかりに抗議しているが、文彦はそれを無視した。


「な、何を説明するってんだ」

「色々」


 他に表現しようもないことなので、文彦は短く返した。柳葉敏郎を少し老けさせた印象のある若頭は、歯茎から血とバーボンを滲ませながら歯を食いしばり、縁側に胡坐を描く。他のやくざ者たちは別室に担ぎこまれているのだろう、床の間では「変質」を迎えた元組長の着替えをすべく三課職員とベル・七枝が奮闘中である。


「アレは、普通に考えたら魔物の仕業だ」


 人間であそこまでの変異を引き起こせる術師は滅多にいないし、それだけの実力を持っていたら屋敷ごと吹き飛ばせば済む話だ。


「魔物ってのは、魑魅魍魎とか幽霊の類か」


 厳密に言えば違うのだが、文彦は「ああ」と頷いた。途端、若頭は屋敷が揺れるほど力強く拳を床に叩きつけ、冗談じゃねえと叫んだ。


「バケモノが極道襲うなら、血みどろの惨劇が相場じゃねえのか! 夢●獏や菊●秀行、百歩譲って荻●真の世界じゃそうだろうがよっ!」


 若頭、何気に読書がマニアック。


「ヨネタケのオヤジはよ、漢なんだぞ。ワシだけじゃねえ、この組だけでもねえ、関八州にまで名を轟かせた任侠だぞっ! それが、それが……初潮を迎えたばかりの、人形みてえな別嬪さんに化けただとっ。お天道様が決めたことでも、ワシは認めるわけにはいかねえんだっ!」

「本人は『乙原まいむ』って名乗ってるぞ」


 若頭の動きが止まる。

 文彦はその様子をぢーっと眺めていたが、待つのも飽きてきたので若頭の唇の動きを追うことにした。


「『まいむたん、まいむたん、可憐だよまいむたん。おにぃたんと一緒にお花畑で』」

「ぬうううううううんっ!」


 唇の動きを朗読されて逆上したのか、いきなり白鞘の短刀を引き抜いた若頭は文彦を口封じしようと刃を突き立てる。が、文彦は全く焦らず人差し指に「影」の鉤爪を生み出し、これを一閃することで短刀を鍔元より断ち切ってみせた。慄く若頭。「まいむ」の着替えを手伝っていたベルが「さすが師匠と」感心するが、文彦は無表情のまま影の刃を若頭の咽元に突きつけた。


「専門用語交じりの長ったらしい説明と、その英語版。解説する人に選ばせるわ」

「オッケー、ラスカル・ガイ。ナーウ、パトリシアせんせーのDoki・Dokiドリル講座スタートね!」


 わざわざ怪しげな日本語と英語を織り交ぜて、白衣姿のパトリシア博士が不敵な笑みを浮かべた。若頭は目眩を感じつつも文彦に助けを求めようとしたが、既に彼の姿はどこにもなかった。




◇◇◇




 少女漫画家、乙原まいむ。

 代表作は「銀と星のアルバム」「放課後のキス」「新月の夜に星のダンス」の三部作。丁寧な心理描写と丁寧な作画により生み出される叙情的な物語は、古式に倣ってはいるものの少女漫画の王道と評価されている。

 思春期の少年少女の葛藤を主題としたそれらの作品群は、最初期の単行本が1980年代という旧さにもかかわらず、現在も多くの愛読者が存在する。


『アシスタントを雇わず作品を仕上げることでも有名ですね。だからキャリアが長い割に、寡作ですよ』


 電話の向こう側で、同級生の畠山智幸が答える。随分と不機嫌そうだが、漫画のことに関しての話題だったので普段より饒舌かもしれない。


「作者の経歴とかわかるか?」

『いえ、さっぱり』反応は早い『エッセイ漫画はおろか、インタビューさえ心当たりありませんね。原画展は行われても、サイン会も行われたことがないようで』


 その種の情報を集めるのなら、三課でも不可能ではない。しかし迅速性とマニアックさを考えて、村上文彦は同級生の畠山に連絡を取った。文彦は走り書き程度のメモで調査の続行を三課職員に指示し、端末での会話を打ち切ろうとする。


「突然連絡して悪かったな、それじゃ」

『――桐山さんのこと、放置して良いので?』


 文彦の動きが止まる。それを気配で感じたのか、端末の向こう側の声が澱む。


『このままじゃ寝取られますよ』

「おれの知ったことか」

『そりゃまあ、まあ。将来を約束したとか、結婚を前提に付き合っているとか、それ以前の状態でしょうが』


 事実その通りなので、文彦の言葉も止まる。


『でも、村上くんには口出しする義務があると思いますよ』

「……なんでだよ」

『だって村上くんって』


 性の奴隷なんでしょ?

 と言ったところで文彦は携帯端末の回線を切った。後ろで作業していた三課職員が、おやと手を止めて文彦を見る。


「良かったんですか、電話」

「必要な情報は仕入れたし、構わねえよ」


 上辺では何事も無かったように、文彦は現場検証を再開した。

 そこは屋敷の離れであり、子分はおろか若頭さえ立ち入ることを禁じられた秘密の場所だった。若頭の話によれば、組長は暇を見ては離れに籠もり、そこで夜を明かすことも珍しくないという。


(考えたくもないし認めたくもない事実だが)


 部屋の半分を占めるのは、大きな本棚。中央には一人分の大きな机があり、僅かに傾斜している。様々な画材とケント紙が机の脇に置かれ、完成した原稿と下書きが整理されていた。ネームと呼ばれるそれらの描きかけ原稿たちは、鉛筆で描かれたものだった。


「これ、本当に下書きなのか?」


 漫画のことは良くわからない文彦は、そう感想を漏らした。


「直筆のネームです、しかも未公開原稿の」職員の一人が興奮に震えながら続けた「こりゃあ本人と見て間違いありませんね」


 本人と言われて。

 文彦は部屋の中を一瞥した。内装も趣味良くまとめられているが、どことなく少女趣味である。極道の業界に伝説として名を残した任侠とは、どう考えてもイメージが一致しない。


「文彦くん、これ」


 そう職員が指したのは、壁の一角にかけられた数着の服。

 ふりふりのドレスに、金髪のカツラ。絹のストッキングや赤い靴まで揃っている。


「個人の趣味は尊重してしかるべきですけどね……でも、これは」

「あー。本人としては葛藤しまくりの半生だったんだろーな」


 常人には感知できない魔力を視界に捉えつつ、文彦は大きく息を吐いて肩を落とした。


「とりあえず原因の一端が見えてきたんだ、対処しようぜ」





◇◇◇




 杉原ミチルは意外なほど落ち着いていた。

 憧れて、告白してまでついてきた思い人の部屋を初めて訪れたというのに。部屋の主である桐山沙穂が、口から心臓が飛び出さんほど緊張しているというのにだ。


「小さい頃は屈託ない笑顔を見せてるのに、中学校に上がった頃から表情が曇っているんですね」


 天使のような表情を曇らせて、杉原少年は沙穂を見つめる。

 その種の嗜好を持っている女性、たとえば文彦に対してセクシャルハラスメントを繰り返しているベル・七枝のような女ならば、十秒とて理性を保つことはできないだろう。

 どうして自分は彼を家に上げてしまったのだろう。

 杉原少年の言葉など耳に入ることもなく、沙穂はずっと自問していた。沙穂は、たとえ部活の後輩とはいえ、他に誰もいない部屋に男性を招くような真似はしない。文彦相手でさえ、未だに実行できなかったのだから。


(でも初めてって気がしないのよね)


 沙穂は違和感を抱く自分に気がついた。

 家というのは、たとえ建売の規格品だとしても居住する人間の癖が染み付く。同じ間取りであっても、初めて敷居を跨ぐ時には躊躇するものだ。それは住人の生活習慣に由来するものだったり、個人的な思想信条に基づく改築改装が顕れた物である。


「桐山先輩?」


 杉原少年は、部屋の調度品と融和していた。視覚的な調和ではない。少年は、随分前からそこが定位置であるかのように、ちょこんと可愛らしく座っている。沙穂が普段椅子代わりに腰掛けるベッドに向き合うように、甘めのミルクティーの入ったマグカップを両手で持っている。

 小首など傾げて尋ねる様は、とても可愛らしい。


「そ、そうね」はっきりしないものを抱えたまま、沙穂はとりあえず会話を続けることにした「受験勉強とか大変だったし、反抗期でお母さんと喧嘩することもあったし。正直言って、つまんない中学時代だったわ」

「でも、部活はやってたんですよね」


 間が生じる。

 沙穂は、てっきり杉原少年が言葉を続けると思っていた。

 杉原少年は、きょとんとしたまま沙穂を見つめている。

 会話が停止し、視線だけが交わされる奇妙な時間。理性の殻を破って性欲衝動という名の獣を解き放つには十分な時間だ。沙穂は自らの迂闊さを呪いつつ、鈍器になりそうな品物の位置を確認した。使い込んだ英和辞書、ダイエット用に借りてきた1kg鉄アレイ、距離を稼ぐためのヌイグルミも必要だ。アドレナリンが一気に分泌され、機能が飛躍的に上昇した神経と筋肉が予測される全ての事態に備えて力を蓄える。

 が。


「ぼく、先輩を悲しませたくないんです」


 静かに微笑んで、杉原少年はミルクティーを口にした。




◇◇◇




「簡単に言えば、夢の仕業って事かな」


 卓袱台に幾つかの資料を並べつつ、それが何の気休めにもならないことを自覚していた。魔術の存在や異形の存在を感覚的に理解しても、当事者としてそれを納得するには「理性」というのは厄介なのだ。だから一般的な被害者に対しての説明は、マニュアルに従って三課職員が時間をかけて説明することが多い。

 そういう意味で、今回は例外だった。


「夢ってのは、助平な夢を見せたり悪夢を見せるバケモンが絡むのか」

「カテゴリーとしての夢魔ってのは存在するが」


 オカルトに少々興味のあった若頭は、文彦の言葉に興味を持っていたようだ。


「一人の壮年男性を初潮直後の少女に造り替えるって真似は、普通のバケモノには出来ない真似と思ってくれ。現象としては不老不死の術に近いから、そこらの術師連中にだって実行できる代物じゃねえ」


 決して不可能ではないが、それを成功させるためには年単位で組み立てる術式と、莫大な力が必要になる。よほど有能な術師を抱えていても、それらの術師が数年がかりで取り組み、しかも成功するとは限らない術に賭ける者はいない。


「それで、夢ってのは何物なんだよ」

「心の奥底で願っていること」


 一拍置いて、文彦は息を吐いた。


「たとえばガキが将来に描いている夢。小学生が作文の宿題で適当にでっち上げるような奴」


 自分でも上手に説明できないと思っているのだろう、文彦は苛立ちながら卓袱台を軽く叩いた。


「おれの見立てでは、あの組長は……フリルの似合う可愛い女の子になりたがっていた」

「願って実現するなら日本は戦争に勝っとるわい!」


 今度は若頭が卓袱台を殴る。


「手前、ヨネタケのオヤジに喧嘩売ってるんか!」

「乙原まいむだろ」


 ちら、と後ろを見る文彦。そこではふりふりのエプロンドレスを着た乙原まいむが、男くさい邸宅の中を忙しく働いている。その後ろを、筋骨隆々とした男たちが亡者のような表情で追いかけていく。生気を失った彼らが向ける病的な眼差しは、かつてオヤジと呼んで慕った人間の尻や腰やふくらはぎだった。


「ああああああ」


 任侠として踏み越えてはいけない一線が、あっさりと突破されていた。

 若頭は卓袱台に突っ伏し、文彦は重要なる一言を追加した。


「問題なのは『夢の絞りカス』がどこに消えたかだ」


 残念なことに若頭は文彦の言葉を聞き逃していた。そこに乙原まいむを音原米武へと戻す唯一の手段が隠されていたのだが、こうしてその好機は喪われてしまった。




◇◇◇




「ぼく、桐山先輩のこと大好きです」


 当人を目の前にしてそうそう口にできる台詞ではない。

 ところが杉原ミチル少年は、記憶を操作される以前の桐山沙穂がそうだったように、あっさりと告白した。

 だが。


(違う)


 桐山沙穂は今や確信に近いものを抱いていた。


(杉原くんは、私に好意を抱いている。だけど、それは女性としての私じゃない)


 杉原少年の眼差しは真っ直ぐだ。

 きらきらと輝いている眼は磨き上げた硝子玉のようで、濁ったり荒んでいる村上文彦の三白眼とは大違いである。そういえば杉原少年は幼い容姿という点では文彦と共通しているが、容姿や言動に関しては正反対の部分が多い。

 杉原少年は、身体を構成する全ての部位が白磁人形のように繊細である。

 ただの繊細さではない。

 気軽に押し倒しても、ふるふると震えつつも全てを受け入れてしまいそうな、そういう危うさを含んだ繊細さを杉原少年は有している。これで小悪魔的な態度で振舞えば沙穂もどうにかなっていたかもしれない。彼女が自らの理性を最大限に発揮できたのは、少年の眼を見たからだ。

 一言でいえば、揺ぎ無い信念。天然とかそういう表現が似合いそうな純粋さ。

 それが杉原少年の瞳の奥に輝いている。


(絶対的な信頼感と、ひょっとしたら忠誠心)


 自分に向けられた感情をそう分析し、沙穂は頷いた。


「私の事、好きなのね」

「はいっ」


 嬉しそうに即答する杉原少年。


「じゃあ、愛している?」


 笑顔の中に戸惑いが混じる。

 視線は沙穂に向けたまま、杉原少年は愛想笑いで応じた。


「大好きです、はい」

「愛しているんじゃなくて?」

「はい、好きなんです」


 きっぱりと言う杉原少年。沙穂はテーブルに額を打ちつけ、そのままの姿勢で固まった。


「杉原くん、ミルク好き?」

「はい、大好きです」

「日向ぼっこは?」

「とっても好きです」

「最近ドラマに出てる西方かずみは?」

「好き好きーです」


 会話を繰り返すたびに、沙穂の額に青筋が浮かび、杉原少年の額に汗の玉が浮かぶ。NHKが推奨しそうな青春群像劇というよりも、末期症状を呈した頃のトレンディドラマか昼のメロドラマを思わせるどろどろとした空気が部屋に漂っている。


「……あのですね、お付き合いして欲しいのは本当なんです。桐山先輩のこと大好きだし、ぼくは先輩のそばにいないといけないんですっ。あの、冗談とかドッキリとかじゃなくて……信じてもらえます?」

「からかい半分で告白してたら、ぶっ殺すわよーほほほほほほ」

「き、桐山せんぱ……い」


 弁解しようとして、沙穂に睨まれてしまう杉原少年。

 それでも沙穂の誤解をなんとかしようとする杉原少年は――




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