第九話 夢幻境より

夢幻境より(壱)




 桐山沙穂は悩んでいた。

 悩むのは若人の特権だと誰かが言っていた。北区の合コン女王と呼ばれた姉だったか、それとも岐阜に出張中の父の言葉だったのか、そこまでは思い出せない。


 沙穂は悩んでいた。

 それは最適の回答を導き出せないもどかしさであり、これまでの人生で体験したことのない現実に直面しているが故の苦しみだった。


「ぼく、桐山先輩のこと好きですよ?」


 隣を歩いていた線の細い少年が恥ずかしそうに告白したのは、今から二十六秒前だった。

 その少年が吹奏楽部の一年生で、フルートを演奏していることを思い出すのに五秒を要した。

 木管楽器の合同練習で隣の席に座り、午前中一緒に練習していたのを思い出すのに要したのは三秒。

 練習が終わって相談に乗って欲しいと話しかけられたのを思い出すのに要したのは六秒。

 馴染みの楽器屋に行く途中、唐突に告白されたことを思い出すのに要したのは十二秒だった。


「その、迷惑だったらごめんなさい。でもっ。入部した時から、ずっと先輩のこと見てたんです」


 少年は顔を真っ赤にしてうつむいている。彼は学生服姿でなければ女の子と間違われるような可愛い容姿で、吹奏楽部女子の間でも人気が高い。

 声変わりしたとは信じ難いボーイソプラノが、震える。

 少年の名前は、混乱していてまだ思い出せない。


(磯倉じゃなくて楓じゃなくて、ええと……確か)


「ね、ねえ杉原くん」

「はい」


 とりあえず思い出した名前は間違っていなかった。

 沙穂は少しだけ安堵し、名を呼ばれた杉原ミチルは嬉しそうに沙穂を見る。直視するのが痛々しいくらい、真っ直ぐな眼差し。その種の嗜好を持っていなくても、たとえ男でも、心が揺れるほどだ。


「私なんかより可愛いコとか綺麗なコっていっぱいいると思うよ。ほら、私ってば眼鏡かけてるし、髪形とかあまり気にしないし……身体の起伏とかほとんどないし、うううう」

「せ、先輩っ!?」

「ご、ごめんね。私ってば自分の事を自分で言ってて傷ついちゃった」


 人それを自爆という。

 おそらく自分の人生で、これほど情熱的に異性に求められた記憶は沙穂にはない。幸か不幸か、沙穂はそれを把握するだけの理性を取り戻していた。

 各種学校行事、即席カップルが量産される不可思議なる青春フィールドの中でさえ言い寄る男がなかった沙穂である。

 その素地が間違いなく美人だったとは言え、同年代の娘ほど御洒落に気を遣わなかった沙穂である。

 文彦への思慕を自覚する辺りから「綺麗になった」と親友の柄口鳴美にも評価されていた沙穂だが、ここまではっきりと異性に求められた記憶はない。

 そう。

 人生始まって以来の「モテ期」に突入したのかもしれないと、沙穂は狼狽するのだった。





「というわけで、桐山さんは遂に新しい恋に生きることを決心した模様です」


 他人事だからか、ぼそぼそ淡々と畠山智幸は呟いた。磨き上げられ飯粒のついたスプーンをマイクに見立て、ひしゃげた顔がますます不景気な表情に歪むのも構わず喋りだす。


「えー、当方としましては一学期末にあれほど積極的に村上君にアプローチした桐山さんの、あまりの変心ぶりに動揺を隠せないところですが」


 そこは村上家の実家たるカレー屋の客席で、六人ほど座れるテーブルに犬上北高校の同級生達が座っていた。いずれも畠山に負けず劣らず不景気な顔である。


「堅実な愛を選んだ桐山さんと、どうしようもないヘタレの誰かさんに――」

「乾杯」


 ぬるくなった水の入ったコップを小さく持ち上げ形式上の乾杯をすると、彼らは瞑目し肩を落とす。体格差に関係なく綺麗に揃った動きは見ていて不気味極まりなく、他の席に座っていた客たちは何事かと振り向いてしまう。

 しばらくの間、高校生たちは沈黙したままカレーを食べていた。


「存外につまらん結末だったな」


 最初に口を開いたのは伊井田晋也だ。半分ほど平らげたカレーの皿を見つめたまま、感情のこもらない声で言った。


「誰かさんがヘタレでしたからね」

「沙穂ちんも見捨てるわけよ」

「……村上を弁護する奴いねえのか」


 会話が止まる。

 着席した六名の視線は、自然とカウンターへと向けられた。店を切り盛りしているのは文彦の母、深雪だ。彼女は相変わらず並みのホストでは太刀打ちできないような色男ぶりを発揮し、大勢の客を捌いている。仕草の一つ一つに女性を悩殺する色気があり、カウンター席は女学生やOLで占められていた。


「そういえば村上の姿が見えないな」

「そりゃあ」


 一足早く食べ終えていた仲森浩之は、入り口に近い小さなテーブルを肩越しに指差した。

 二人用の小さな席には、話題の主がいた。つまり想い人との会食に緊張している杉原少年と、畠山たちの視線などが突き刺さり引きつった笑顔の沙穂である。


「どーして顔をあわせられようか」

「然り然り」


 頷き、晋也は食事を再開した。





(ああああああっ、絶っっ対に誤解されている)


 沙穂としては杉原少年と付き合うとは決めていない。決められるはずもない。

 それが沙穂という人間の性である。基本的に真面目で、誠実であり、そして異性に情熱的に求められた経験を持たない。男性に対して積極的になったのは村上文彦相手が最初だし、最近うまくいっていないのも不幸な偶然が重なっただけだと考えている。

 捨てるとか乗り換えるとか、そういう発想さえ思いつかない。

 無論、両天秤とか二股という認識も。


(鳴美も相談に乗ってくれないから、村上くんを頼ろうと思ったのに)


 その時点で致命的なミスを犯している事に気付かず、沙穂は杉原少年を連れて文彦の店を訪れた。ウェイトレスとして働いていたインド風少女ルディは抱えていたお盆を落とし、深雪も一瞬だけ固まった。二人は何も言わず沙穂達を、誰にも邪魔されないカップル用の席へと案内してそのまま作業を続けた。


(なんか……話をしようにも、何を言えばいいのかしら)


 文彦相手の時と同じように会話をすればいいのか。

 それとも、吹奏楽部の先輩として振舞えばいいのか。

 杉原少年は自分に何を求めているのか。


「あの、桐山先輩」

「は、はいぃっ?」


 悩んでいる沙穂の様子に不安を覚えたのだろう、杉原少年はやや上目遣いに沙穂を見る。


「――やっぱり、迷惑だったんでしょうか」

「そっ、そんなことないわよっ。うん、たぶんそういう風に考えると人生楽しめないわよっ!?」

「じゃあ、ぼくとお付き合いしてもらえますか?」


 数秒、沈黙する。


「……迷惑、だったんですね」


 杉原少年の目に涙が浮かぶ。

 今にも泣き出しそうな顔に、こっちが泣き出したいと心中で叫ぶ沙穂だった。




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