砂浜の魔人(弐)




 桐山沙穂は不機嫌そうだった。


 いや、それは正しい表現ではない。

 彼女は「形容し難い精神的圧迫感」と「理由なき怒り」と「どうしようもないほどの興奮」に支配されている。先日幼馴染の柄口鳴美と共に買い物に出掛け、沙穂としては少々大胆ではないかと躊躇してしまったセパレートの水着を身につけているのだが、そのことへの羞恥心さえ吹き飛んでしまうほどだった。


「あ、あのぅ……沙穂ちん?」


 同行している鳴美が思わずたじろぐ。こちらもまた地味とは言いがたいものを着用していたが、そもそもモデル顔負けのスタイルを誇る彼女は特に恥らうことはない。それどころか歩くテンポに併せて豊かな乳房を上下に揺らし、形良く引き締まった臀部は左右に揺れる。スレンダーと呼ぶにはあまりにも摩擦係数の低そうな沙穂と並ぶのはある意味彼女にとって拷問に等しかったが、その種の嗜好の持ち主にとっては極楽浄土そのものとも言うべき肢体たる沙穂の姿は決して鳴美に劣るものではない。


「……」

「沙穂ちん、沙穂ちんってば!」


 二人の少女が通り過ぎれば、男の半数が思わず振り返り、更にその半数が声をかけようとする。それら下心むき出しの男どもの後頭部を蹴り倒すように後を追うのは伊井田晋也と仲森浩之である。傍より見れば美男美女同士のカップル二組とも言うべき四人だが、彼らの中に恋愛感情は存在しない。


 鳴美は夏期講習を終えた骨休みをしたかった。

 晋也は数時間後に来る下宿先の未亡人母娘のために場所を確保したかった。

 浩之は午前中に海水浴場に出かけた妹を出迎えたかった。

 沙穂は。

 最初は海に行くのを嫌がった。部活を休むことになるし、泳ぐのが得意ではない。強引に買わされた水着は沙穂の感覚では少しばかり大胆で、これを着ると自分が尻軽女に見られるのではないのかと心配もした。

 が。


「桐山、たとえようもないけど何か凄いな」

「昨日の夕方からねー」


 なんでだろーねえ。

 さすがに事情がさっぱり掴めなくて、と困り顔の鳴美。晋也と浩之は互いの顔を見て「まさか」と眉をひそめるが、それ以上の確証があるわけではなく、そのまま沈黙を続ける。

 そんな同級生三名を半ば置き去りにする形で、沙穂は砂浜を大股で歩いていた。昨夕速達で届けられた差出人不明の封筒、そこに入っていた数枚の写真の事が脳裏から消えないのだ。写っていたのは、最近少し気になる同級生の男の子だ。小学生と間違われることの多い、線の細い印象の小柄な少年。それを気にしているのか普段の教室では乱暴な言葉遣いで振舞うこともあり、それが逆に可愛らしく見えるのだと同級生の女の子たちは話をしている。

 村上文彦。

 写真は彼のものだった。おびえる小動物のように震え、汗と涙とそれ以外の汁に全身を濡らした彼の姿がそこにあった。


(合成写真よ!)


 そうに決まっている。

 姉の水鳥が時々買ってくるボーイズラヴ漫画の主人公のように、艶っぽく切なそうな表情を見せる彼の姿をその写真に見出して沙穂の血液は沸騰した。即座にシュレッダーに突っ込み、その上ライターで燃やして写真を処分したが沙穂の心には大きな「何か」が現在も残っている。

 沙穂は気付いていない。

 自分がどうしてここまで不機嫌なのかを、どうしてここまで気持ちが昂ぶっているのかを。晋也と浩之が「村上は浜茶屋でバイトしてるってさ」と言ったとき、自然と足が浜茶屋へと向かった。それが無意識的なものかどうかはもはやどうでも良く、ひょっとしたら過去に同じ事を繰り返したかもしれないと脳裏にひらめくものを抱きながら沙穂は砂浜をばく進していた。


(……でも)


 本当だったらどうしよう。

 いまだ己の気持ちを整理できず、それゆえに容赦なく砂煙を上げて突き進む沙穂だった。




◇◇◇




「……なんで映像が流出したんだよぅ」


 相変わらずテーブルに突っ伏したまま文彦は呻いた。

 ベル・七枝が映像記録を撮っていた事は文彦も後で知った。それがパトリシア・マッケイン博士の手に渡り厳重封印されたことも知っている。

 流出するはずがない。


「しかし業界に幾つか出回ったのは事実だ」


 業界において並ぶ者がないとまで称される術師、すなわち墨染めの麻服を着た若者はしみじみと呟く。どこに住んでいるのか、いかなる組織にて修業したのか、不明な点が多い割に最強最悪の力を有する若者は、幾度かダビングされたであろう安物のビデオテープを文彦の隣に置いた。


「まあ、君も色々なところから注目されているし」


 なにより敵も多い。


「君にダメージを与えたがっている連中なんて掃き捨てるほどいるだろ。第一、こんなのが出回ったところで動揺するなど君らしくもない」

「……だって、委員長に」


 その先は言葉にならない。

 若者は「ほお」と意外そうに呟き、文彦の背後に廻って肩を叩く。


「彼女に尻穴を捧げる気だったのか」

「そんなわけあるか!」


 がばっと上体を起し叫ぶ文彦。

 勢いがつきすぎたためにバランスを崩し、そのまま後ろに倒れこむ。特に殺意もない行動だったので若者は勢いに任せ、押し潰される格好で倒れてしまう。


「わ、悪ぃ。おれ、どーにかしてた……あんたに当たってもどうしようもねえのに」

「大した問題ではないよ」


 少しばかり理性が回復したのか、己の大人気ない振る舞いを恥じて素直に謝罪する文彦。若者は仰向けのまま笑顔で答え、若者の胸元に倒れ顔を埋めていた文彦は赤面してしまう。

 と。

 言いようのない殺意を感じて文彦は上体を起こした。

 海風が、一瞬だけ強く吹く。


「村上、くん?」


 少女の声は震えていた。

 激しい怒りによってだ。

 思い切り聞き覚えのある声だったので視線をそこに向けると、沙穂が浜茶屋の入り口に立っていた。全力疾走していたのか肩を大きく上下させ、荒い呼吸は疲労によるものかそれとも精神的なものに起因するのか判断に困る。


「最初は誤解かと思ったの……ほら、最近ってCGの技術とか進んでいるから合成かもしれないって」


 沙穂の視線は揺れている。焦点が一箇所に定まっていないかのようにも見えるが、向けられる殺意は微動だにしない。


「だって、村上くんがソッチの趣味を持っているなんて信じたくないし。私、本当は村上くんのこと嫌いじゃなかったし。でもっ」

「ちょ、ちょっと委員長?」


 何を勘違いしているんだよ。

 取り繕うとして、己の現状に気付き硬直する文彦。少し線の細い美青年たる若者の股を割るように身体を押し倒し、その胸元に顔を埋めた挙句頬を染めていたのである。

 それでも普通ならば「誤解」と流すこともできただろう。

 しかし。

 昨夕より「写真」の映像が脳裏より消えない沙穂は正常な判断力を確実に失っていた。一見まともそうでも、笑顔の下には困惑と嫉妬と羨望と興奮が複雑に入り交じっていたのである。沙穂の脳内には水鳥の蔵書より得たボーイズラヴの知識が明確なビジュアルとなり、若者と文彦が夜の浜辺で抱擁し非生産的な行為に励む様子が出現する。

 総天然色。

 フルボイス。

 もちろん静止画像ではなく全編アニメーションである。


「い」


 一秒経過。

 何が起こったのか文彦は気づかない。


「い」


 二秒経過。

 とりあえず沙穂に弁明しようと片膝をついたところで。


「……いやぁぁぁぁぁぁぁあっ!」

「委員長っ?」


 文彦の理解を超えた部分で絶叫し、泣きながら走り去る沙穂。あまりにも唐突の事なので反応できなかった文彦は、誤解を解く最大最後の好機を逃すのだった。





 どういうわけか泣きながら走り去っていく桐山沙穂を見て、村上文彦はこう呟いた。


「なんでおれが委員長を追いかけるんだ」


 沙穂と文彦は恋人ではない。

 沙穂に対して多少の好意を感じることはあっても、それ以上の関係に発展するつもりはない。かつて沙穂の身中に発生した「特異点」のために恋人の真似事をしたことはあっても、文彦としては本気になれなかった。

 自身が術師であること。

 沙穂の気持ちが作り物とも言うべき代物だったこと。

 文彦の中に、笠間千秋への想いが僅かに残っていたこと。

 それらのことが無意識に文彦の心を縛った。現在の沙穂に文彦への好意があったのは彼にとって驚きではあるが、だからこそ文彦は意固地になっていた。首を振って立ち上がり、拳をこれ以上ないと言うほど強く握って己に言い聞かせる文彦。

 墨染めの麻服を着た若者は上体を起し、ほうほうと頷く。


「おれと委員長は何の関係もねえはずだ」

「然り」


 麻服の砂粒を払う文彦。


「君と彼女の間には何の関係もない。そもそも君が彼女を求める理由がない」

「……そりゃその通りなんだが、なんか引っかかる言い方だな」

「別に」


 さらりと流し、すっかり温くなった麦茶に口をつける若者。視線が遠い。普段よりろくでもないことを考え実行している若者だが、こういう仕草を見せるときは一際物騒な言動が多い事を知っているだけに、文彦は声のトーンを低くして唸る。小型犬が威嚇しているような文彦の仕草はむしろ可愛らしくもあったが、若者は空になった安物のタンブラーをテーブルに置いて自然に微笑む。


「君には尻穴まで許した可愛い弟子がいるじゃないか」

「いいんちょぉぉぉぉぉおおおっ!」


 半ば自棄に叫びながら文彦は沙穂の後を追うべく走り出した。

 浜茶屋の主人と少ない客はぎょっとして振り向くが、若者は文彦が脱ぎ捨てた安っぽいエプロンを拾って身につけた。




◇◇◇




 沙穂は走った。

 ひたすらに走った。

 起伏に富んだ砂浜を駆け、遮るものなく陽光を浴びて焼けた白砂を後方に蹴り上げながら沙穂は走った。

 胸は、微動だにしない。

 体型矯正機能のある水着を着ても、寄せて上げて胸に廻すだけの余分な肉がない肢体ゆえの悲劇である。体育の授業において陸上部やバスケ部に所属する女子がある意味で羨ましそうに沙穂の身体を見つめているのは、そのためである。そういう体質だから仕方がないといえばそれまでなのだが、小学生女子児童にさえ同情されてしまう沙穂の胸は伊達ではない。恐るべき空力特性を発揮する沙穂の身体は、吹奏楽部の基礎訓練による走り込みで鍛えられた下半身の脚力を完全な形で推力に変換する。ある程度の硬さを持った陸上競技場ならともかく、踏み込む角度にムラがあれば足首まで砂に埋もれるので推力が衰える上に余計な抵抗が生じる。


 その意味で沙穂の走法は理想に近かった。

 砂をかくのは親指の付け根の一点であり、砂が舞い上がるのは爪先が砂を蹴る際の衝撃が後方の砂を巻き込むためである。前後にリズムよく大きく振り上げる腕の動きにも無駄はなく、その速度は硬い地面で走っている時と比べても遜色がない。


「つまりナンパ目的で桐山を追いかけた連中はことごとく途中で力尽きたわけだ」


 あのスタミナと瞬発力はバスケ部に欲しいものだ。

 砂浜に累々と倒れる優男達の群を蹴り除けながら、仲森浩之は冷静に分析を下した。傍らでは伊井田晋也がもしゃもしゃとカキ氷を頬張り、時折襲う頭痛と格闘しながら沙穂の後姿を視線で追う。


「このままだと脱水症状になりそうだな」


 倒れている男たちを見て他人事のように言う晋也。既に幾人かが「み、みず~」と呻いており、そういった連中に柄口鳴美が磯釣り用のイワイソメを「はい、お口開けてぇ」と強引に飲み込ませようとしているのだが、それについても晋也は見なかったことにした。


「桐山を追いかけなくていいのか」


 追いかける意思など微塵も見せずに問う晋也。


「追いつけなかったら恥ずかしいので嫌だ」


 多分追いつけないだろうしと爽やかに笑いながら断る浩之。鳴美は自分の作業に没頭しているので晋也の問い掛けさえ聞いていない。

 確かに沙穂の速度は尋常ではない。

 硬い路面で走れば高校女子陸上の記録さえ打ち出せそうな勢いだ。それほどの脚力を持っていれば体育の授業などで噂になっているだろうが、晋也達は沙穂がこれほど足が速いことを今まさに知ったのである。噂にさえ上らないというのはいささか奇異であり、まして同級生として交友のある身であるからこそ晋也は声には出さなかったものの大変驚いた。

 なるほど晋也の疑問ももっともである。

 たとえ吹奏楽部の基礎訓練として走り込みを続けているとはいえ、持久力と腹筋そして肺活量を鍛えるために走りこんでいた沙穂には速度を上げるためのノウハウはない。それでも沙穂の身体が下手な陸上選手のそれを凌駕する走力を生み出しているのは、もちろん理由がある。

 それは。


(特異点の後遺症か!)


 既に点となって視界から消えそうな沙穂を追いかけつつ文彦は舌打ちする。

 一時的とはいえ身中に特異点を宿し膨大な量の魔力を帯びた沙穂は、日常生活に支障のないレベルとはいえ身体機能が変質したのである。それはベル・七枝が魔力感覚の増大と共に身体能力が飛躍的に上昇したことに似ている。魔術感覚を鍛えていない沙穂だから、この程度の変質で済んだのかもしれないと文彦は唸る。


(全力で走るとマズイし、跳ぶのもマズイ)


 そのまま走っても、小学生並の身長しかない文彦の足では沙穂に追いつかない。


(追いかけるの、やめようかな)


 追いかけてどうするというのだ。

 告白をするのか?

 好きかどうかもわからないのに?

 走りながら自問する。そもそも何故沙穂は泣きながら走り去っているのだ、その点からして文彦には理解できないのに、追いかけて何をするべきか分かるはずもない。頭のどこかで誰かが囁く。

 追いかける必要などない。

 追いかけて自分に何の得があるのだ。

 沙穂は仲の良い同級生じゃないか。ここで追いかけると自分が彼女に対して特別な気持ちを抱いていることになるではないか。


(そうだ)


 おれは追いかけなくてもいいんだ。

 一人勝手に結論を出して足を止めかける文彦。浜茶屋を放り出してしまったことも今更ながらに思い出して、引き返そうとする。

 が。


「あ、文彦さんっ」


 嬉しそうな少女の声。

 足を止めた場所には女子中学生というべき数名が水遊びをしており、その中で一際プロポーションの良い娘……金茶の髪をポニーテールにした、イギリス系の少女が文彦に笑顔で手を振る。

 それがベル・七枝そのひとであると認識した途端、文彦の全身が硬直し汗が一気に噴出す。ベルの周囲にいたおそらく同級生と思しき少女達が文彦を見てなにやらひそひそと話し、その仕草に文彦が二度三度大きく痙攣する。


「文彦さん?」

「うわぁあぁああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 およそ数秒の硬直。

 心配そうにベルが近付こうとした瞬間、文彦は空母のカタパルトで押し出された戦闘機の如き加速で砂浜を駆け出していた。爆発したかのように砂が舞い上がり、風船でも割れたかのように空気の避ける音が周囲に響く。


「なんか、あったのかな」


 もちろん何かあったのだからこそ文彦は逃げるように駆け出したのだが、己のした事など綺麗さっぱり忘れていたベルは不思議そうに何度も首を傾げるのだった。

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