第七話 砂浜の魔人
砂浜の魔人(壱)
犬上市の海浜地帯は、戦後の開発を免れた稀有な地である。
網元が頑として海浜地帯の切り倒しや開発を認めなかったこと、少し奥地にも十分な平地が広がっていた事もあり、海浜に手をつけることなく犬上の街は発展することが出来た。目立って素晴らしい魚が水揚げされることはなく、周辺各県に名を轟かせるほど景観が優れているわけでもなく、田舎町のごくごくありふれた砂浜と岩場が犬上市の海浜地帯だった。
それ故に。
二十一世紀を迎える頃、犬上の浜は知る人ぞ知る浜となっていた。浜の大部分が今も網元の管理下にあり、その景色は半世紀前となんら変わりがない。その意味では街中に浮かぶように立つ三狭山と同じく、なにやら森羅万象を越えたるものを感じさせる。
「浜自体に特別な意味は無いがね」
砂浜に沿う道に立ち、黒瀬津雲老人が呟く。昔は塩を得るために海藻を乾すべく玉砂利を敷き詰めた道は、自動車が入ることはできない。人より重いものが踏み入れば砂利が沈み、車輪やキャタピラでは空転してしまう。地を踏み固め砂利を薄く敷けばそんなこともないだろうに、白く磨いた玉砂利を分厚く敷いているのは網元の悪戯だと言う者もいる。
これでは浜に車やトラックを乗り入れることは難しい。
「救急車はどうするので」
「腕と気合で乗り入れておる」
翁の隣にいた若者は、それはそれはと半ば呆れつつも納得する。もっとも数キロ離れた岩場まで行けば魚を陸揚げするための港があるわけで、そこから小船で怪我人を運んだり浜茶屋の建材を運ぶのだと説明されて「ああ」と若者は苦笑した。
「駅前から歩いて半刻も要さぬし、そこらに駐車場もある」
どうせ海に浸かって疲れるのだから、数分歩いても問題あるまい。
「しかり」
砂浜にて泳ぎあるいは陽に肌を焼く人々を眺め、翁の小さな言葉にやはり小さく肯定する。翁達いにしえより住まう者と海にて遊ぶ者の間におそらく決定的な意識の差もあるだろうが、これを口にしたところで何の意義もないと若者は考える。夏場だというのに袖の長い墨染めの麻服を身につけた若者は、どう見ても海水浴客ではない。
「さて客人の探し人ではあるが」
若者の素性など詮索せず、翁は杖を浜に向ける。
それほど狭いわけではない砂浜に、浜茶屋は二軒のみ。賑わっているのは一方であり、翁はそこを指し示し、それから大きく肩を落とす。
「色々あったようじゃ、まともに話するのも難しいかもしれん」
「尻穴突っ込まれた程度で逃げ出されては、同業者として困りますがな」
「なに?」
いいえこちらの話で。
若者は翁に会釈すると砂浜に向かった。
◇◇◇
「悪ぃね、うちの馬鹿息子は二号店だよ」
本当に済まなさそうに、それこそ拝むように手を合わせて頭を下げるのは村上深雪だった。
学生を主に相手にしているカレー屋は、本格的な夏休みに入ったこともあり主な客層たる大学生は幾分数を減らしている。が、それを補って余りあるほど別の客――つまりこれ以上ないというほど男前である深雪目当ての女子中高生が、入れ替わりで客席を埋めているのだ。
(なんというか、ひとり宝塚状態というか)
(うむ)
男として色々な意味で敗北しそうになりながらも、仲森孝之と伊井田晋也は頷いた。頷く行為に意味があったわけではなく、犬上北高校において双璧をなす好青年としてのプライドがさせたものである。背丈や容姿では何とか太刀打ちできるが、汗臭くもむさ苦しくもない中性的なオーラを発する深雪の魅力には勝てない。もっとも孝之と晋也は普通の女子中高生など最初から眼中にない訳で、客席の半分より上がる黄色い歓声を適当に聞き流しつつ話を進めることにした。
「二号店?」
初めて耳にした単語に、少しだけ驚く晋也。
「そんなものがいつの間に」
「夏限定の店でね」
そういや話してなかったっけと意外そうに返す深雪。
「網元やってる黒瀬の爺さまに頼まれてて」
浜茶屋に借り出されているんだよと言えば、曖昧な表情で固まる男二人。
「……海の家で?」
「家に居づらい理由があるみたいでねえ」
とは言うものの。
染色体上は母親である手前、その理由までは口にできない深雪は苦笑するしかなかった。
◇◇◇
具のない焼きそば。
のびたラーメン。
とけかかったカキ氷。
匂いだけは素晴らしい、冷凍のイカ焼き。
「あとは、粉っぽいカレーライスだな」
それが、浜茶屋の定番メニューである。
「形式美にこだわる者ならば、絶対に外すことのできない代物だ」
浜砂と潮風で微妙に痛んだ畳に胡坐をかき、墨染めの麻服を着た若者は唸る。起きているのか眠っているのか判断に困る細い目をくわっと開き、ついでにテーブルに拳を叩きつける。
「浜茶屋で美味いカレーを出して許されると思っているのか! 見損なったぞ、影法師!」
「……じゃあ喰うなよ」
「それとこれとは別問題だ」
すっかり空となった皿を見て呟く村上文彦に、しれっとした顔で返す若者。
昼時を過ぎた浜茶屋の客席には空席が目立つ。売れ筋は飲み物や氷菓に移り、主食というべきカレーやラーメンを頼む客はほとんどいない。それでなくとも地元の客が多いのだから飯や飲み物を持参してくるわけであるからして、いくら網元が道楽で続けているとはいうものの量販店に比べれば若干割高になってしまう浜茶屋を利用する客は、昼を過ぎると数を減らす。
若者の他に客といえば、波に飲まれて救い出された小学生が寝込んでいたり、下心丸出しの大学生が隣町より来たという女子高生を口説いている程度。実質、客はゼロに等しい。
「とっとと帰れ」
テーブルに麦茶の入ったコップを乱暴に置く文彦。
「つーか仕事なら三課の事務局行けよ」
「私用だ」
僕もたまにはそういうことがある。
涼しげな顔で言う若者に、露骨に嫌そうな顔で反応する文彦。
「ほほぅ」目が据わる文彦「業界最高の術師が、こんな寂れた海水浴場で独りバカンスか」
「いや、世界でもここにしかない珍獣を見物に」
「珍獣だと?」
訝しげに首をひねる文彦。浜茶屋の仕事が忙しいとはいえ地元のニュースに一応気を配っており、若者が出張るほどの珍獣出現となれば文彦が気付かぬはずもない。それに気付いたのか、若者は少しばかり身を乗り出し神妙な表情でこう言った。
「おお。世にも珍しい『押しかけ弟子の女子中学生に童貞と処女を奪われた挙句に映像記録まで業界に出回って逃げ場のない影法師』を――」
見物しに。
と言い終えるか否かの瞬間、疾風の勢いで文彦はどこから取り出したのか大型フライパンを縦にして戦斧のごとく一気に振り下ろし、若者はこれを白刃取りの要領で受け止めた。止められてなお文彦は憤怒の形相でフライパンを押し続け、若者もまた割と必死にフライパンを押さえ続け、結果として数秒でフライパンの取っ手はへし折れる。
「ぐぬぬぬぬぬ」
「はっはっはっは。僕を殺しても事実は変わらないだろうに」
折れたフライパンを放り出し、乾いた声で笑う若者。攻防は十秒にも満たない時間だったので、他の客は気付いていない。文彦は仕方なく向かいの席に腰を下ろし、若者を睨む。
「笑いたければ勝手に笑えよ」
おれの不手際に違いはないからな。
不貞腐れたような、むしろ観念したといった感じで力なく呟く文彦。おそらく関係者より何度も似たことを言われたのだろう、視線がとても遠い。彼岸あたりを見つめていそうな雰囲気さえある。
「あーはははは」
言われた通りに、若者は笑う。
文彦は反応しない。
「重症だな」
「……画像の一部、委員長にも見られた」
うわあ。
テーブルに突っ伏す文彦に、若者はかけるべき言葉を失った。
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