第六話 七枝ふたたび
七枝ふたたび(壱)
ベル・七枝の朝は、割と早い。
「腑抜けをフヌケと言ってなにが悪いっ、悔しかったらガールフレンドの処女膜ブチ抜いて見せろやゴルア!」
「テメエそれが母親が言うことかよっ、もう一遍人生やり直してきやがれっ!」
店舗兼住宅である建物を土台より揺るがす振動が、下手な目覚まし時計など適わぬ衝撃で睡眠もろともベルを吹き飛ばす。メンコのように布団ごとひっくり返り、ヨガ行者の如き姿勢で着地しては眠り続けることなど到底出来るものではない。
(毎朝毎朝、飽きないですよねえ)
夏休みということもあって、学校に行く必要はない。
奇妙な方向に曲がったままの首を強引に元に戻し、眠い目をこすりながら衣装ダンスから下着を一セット適当に取り出すと再び布団に潜り込んでごそごそと動く。頭も足もすっぽり隠した亀の甲羅のような状態から腕がにゅっと伸びて、あまり良い趣味とはいえない柄のパジャマをぺぺっと吐き出す。そのまま畳の上に指を這わせ、やはり布団の横に脱ぎ捨てていたスウェットに手を伸ばし一気に引き込む。
その間、わずか十秒。
階下の厨房で凶暴なる母子が天地も砕かんばかりの一撃を繰り出す前に、着替えを済ませたベルは布団を跳ね除け着替えもろとも片付ける。
下宿を始めてから半月が経過するが、家主である村上深雪と文彦はどうしようもない理由で毎日喧嘩をしていた。
(むしろ殴り合いたくて、勝手に喧嘩を始めている気もしますが)
ドアノブに手をかけた直後、厨房より近所一帯に二度鳴り響くのは鈍い金属音だ。
あえて文字にすれば「ごいん、ごずん」という擬音が当てはまる。
例えていえば、年代物の中華鍋で人間の後頭部を強打した時の音に似ている。
もちろん、ただの強打ではない。陸上のハンマー投げ選手もかくやという回転と体重移動に基づいて加速され、何の躊躇もなく至近距離より炸裂させなければ、ここまでの打撲音は生まれない。それをやってのけるのは、ある意味で芸術的とさえいえる。
「ベルおねえちゃん、ゴハンどうする?」
少しばかりの沈黙の後に、階下から聞こえてくるのは文彦の妹、小雪の声だ。
手には、直視したくない半固体がべっとりと付着した中華鍋。とりあえずそれが何であるのかを認識しないようにしながら、ベルは階下に降りることにした。
近年術師の業界では専門化が大きく進み、チームを組んで事件に当たるのが主流となっている。
異形の存在を察知する者。
結界を張り異形の動きを封じ被害拡大を防ぐ者。
攻撃を行い異形の戦力を削ぐ者。
防御を行い異形による破壊活動を食い止める者。
治癒を行い異形によって負傷した民間人を回復させる者。
封印を行い異形を拘束し処分する者。
一個の術師が全ての仕事をするのではなく、それぞれの分野に精通したスペシャリストが手を組み行動することで最大の成果を発揮するのだ。全ての分野を一通りこなす万能型選手を育成するのは時間がかかるし、多くの場合その能力はスペシャリストの足下にも及ばない……三課などの組織において限られた時間で訓練する以上、選択の余地はない。
(でも、専門化が進むことで生じる問題もある)
ベル・七枝はその方針に対して疑問を抱く一人だった。
たとえば突発事態への対処能力は、万能型選手に分がある。
多人数で行動するため、小回りが効き難く融通も悪い。
一人でも行動不能となれば、補充人員が来るまで活動できなくなるチームも珍しくない。知恵のある異形たちはそういう「要」とも言うべき術師を真っ先に襲い、難を逃れている。三課もこの事態を重く見ているが、彼らの下した対処法は「要となる術師を増やす」というものであり、問題そのものの解決になっていない。
なによりも。
業界においてトップクラスと言われる術師――たとえば「魂を喰らうもの」や「華門」など――が例外なく万能型の術師という事実がある。彼らは個々の術式においてスペシャリスト達の水準を遥かに超える実力を発揮し、複数分野の術式を組み合わせたものを駆使している。
「つまり術師としての頂点を目指すなら、やれるだけの事をしないといけないと思うんです」
ベルは、そう力説する。
「あらゆる事態を想定して、これに対処できる術師。誰が欠けても任務を遂行できる工作員。どんな苛酷な任務でも生還できるような凄腕になりたいんですよ」
そう言って村上文彦に特別指導を願い出たのは、下宿し始めた晩のことだった。
なにしろ実戦経験豊富な術師という点で文彦の存在は貴重である。三課という組織だけではなく、ベルが知る限りにおいてでだ。
影法師、村上文彦。
術師としての実力は勿論、高い。彼が潜って来た実戦も、尋常ではない。ベルと二つしか歳が離れていないというのに、この差は一体なんだろうかと思うほどだ。
「強くなりたいんです。そのためには、どんな恥ずかしいことも……どんなエッチなことも耐えてみせますからっ!」
「そんな修業はねえよ」
ひどく冷めた口調で文彦は呟いたという。
術師の訓練は様々である。
ひたすら理論追究に励むもの、筋肉トレーニングを課すもの、滝壺にて悟りを開くもの、熾火の上を走るもの、飢餓状態に自らを追い込むもの。科学的な裏付けなどほぼ意味を持たないと言われている業界だから、誰もが試行錯誤で訓練方法を編み出す。
それでも歴史だけは無駄に長い業界なので、経験から「効果あり」とみなされた手法が多く用いられているのもまた事実である。
「同期で三課に入ったコは、いっぱいエッチな事して魔力を高めていったって言うんです」
「真に受けるな」
特訓最初の日にベル・七枝は至極真面目な顔でそう言い、村上文彦もまた真剣な表情で返した。そこは文彦の家からそれほど離れていない運動公園の一角で、ジョギングコースから少しはなれた茂みだった。元より人通りが多いわけではない公園の、しかも早朝ということもあってあたりに人影は全くない。
特訓してほしいというベルの願い事について文彦は拒む権利があったが、彼はそれをしなかった。その上で始まった特訓ではあったのだが、この文彦の言葉にベルはさも意外そうに声を出し、己の不満をあらわにした。それは「行為」を否定されたことではなく、同期の友人が学んだ事について文彦が否定的な見解を示したからである。
「エッチしても強くなれないんですか」
文彦は直ぐには答えず「ああ、もう」と顔に手を当て何と説明すれば良いのかと考えている。もちろん、そんな気の利いた回答が直ぐに出てくるはずもない。
「エッチしても強くなれないなら、ただのセクハラです。でも、あのコは本当に力が上がってたんですから、嘘はついてないんです!」
「……炎術師が交合しても意味ねえんだよ」
とりあえず間違っていない事を口にする文彦。
色々まくし立てていたベルはぴたりと止まる。
「交合が意味を持つのは練気で術を組み立てる連中だ。生気とか霊気を繰る連中は自身の力を増幅させたり、力を回復させる目的で交合しているが――練気の使い方も知らねえ奴が交わったところで、子宝に恵まれるのが関の山だ」
そもそも炎術とは地水火風空の五大に基づく元素術の一派であり、本来は複雑な詠唱と結印そして精神集中で力を発揮する。元素術師の例に漏れず理屈っぽい連中が多く、体術を軽視し自らの頭脳で術を組み立て敵を倒すことに至上の悦びを見出しているように思われている。
(しかるに)
説明を受けて愕然とし突っ立っているベルを見て、文彦は言葉に出すことなく嘆息した。
ベルは炎術師でありながら元素術の理論構築には興味を持たず、フィーリングで炎を生み出しては体術と組み合わせて肉弾戦を挑む。元素術師が基本的に持つはずの魔杖も持たず、整然と組み立てた呪文も用意しない。気功使いとしての訓練を受けていれば、今頃は一人前の術師として十分な活躍をしていただろう。
何故、彼女は炎術を修めたのだろうか。
それが文彦にとって最大の疑問だった。
「大体その訓練するってことは、おれと交わるんだぞ」
「そういえば……そうですね」どれほど考えたのかは知らないが、はたと気付く「やっぱり堅実に修業します」
ぺこりと頭を下げるベル。
それはそれで問題ないはずなのだが、無意識に蹴り倒す文彦だった。
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