魂をくらうもの(参)




 三叉山には無数のあやかしが棲んでいる。


 霊脈の交差たる犬上の地は、他地域に比べて莫大な量の魔力が満ちている。三叉山は溢れるほどの魔力を封じる要であり、土地神をはじめとする異形のものたちを養う活力の源でもある。しかし中腹にある遺跡を建造した者が誰なのか、いつ頃これが建てられたのか知る者はいない。


 あやかしも、詳しくは知らない。

 気が付けば三叉山は異形にとって住み心地の良い場所となり、犬上の地に住まう術師にとっても特別な場所となっていた。かの「魂を喰らうもの」が桐山沙穂の特異点を封じるためこの場を選んだのも偶然ではなく、三叉山に宿る霊気と、摘出した特異点たる金剛石の周囲に張り巡らされた八振りの短剣が生み出す結界が、二重になって特異点の暴走を防ぐのを知ってのことだった。


『……?』


 言葉を持たぬあやかしの一匹が、結界に近付こうとした。

 短剣の一つ、その柄にある石英の鈴が凛と鳴り、あやかしは酔っ払って倒れた。毛玉に手足が生えたようなあやかしは、心底気持ち良さそうに手足を天地に向けて痙攣している。

 形無しの異形が、今度は結界の周囲で踊ろうとした。


 凛。


 別の鈴が鳴る。今度は結界の周囲に素焼きの壷が幾つも現れ、形無しの異形を吸い込むとそのまま消えた。消えた先などわからない。近付こうとしていた他の異形たちは慌てて退き、遠巻きに結界と特異点を眺めることにした。




 月の美しい夜だった。

 満月にはまだ数日の余裕があるが、それでも夜闇を濁すほどの月光が三狭山を照らしていた。

 街灯はない。

 不思議なことに三叉山を囲む一帯には街灯は存在しないのだ。三叉山の周りに住む者は、深夜は電灯さえ消して早く就寝する。三叉山が何であるのか肌で感じているからこそ、住む人もまた夜の作法を守るのかもしれない。


(星明りだけでも十分か)


 村上文彦は星空をちらと見て、感情のない声をかすれるように出して呟いた。

 真夏の夜は寝苦しいほどに暑いが、広葉樹の生い茂る三叉山は思ったよりも涼しい。冷気をわずかに含んだ湿り気が夜露となって木の葉を濡らすまでにはまだ時間があり、目に見えないものの湿った空気が渦を巻いている。


 中腹までは、徒歩で十数分。

 その昔に調査団が利用した、わずかに土を踏み固めた程度の細い道を駆ける。道端にある丈の長い草の影には小さな物の怪たちが、駆け抜ける文彦の姿を珍しそうに眺めていた。


(異形たちが騒いでいる)


 普段ならば、小さな物の怪たちは術師の姿を見れば直ぐに姿を消して逃げ出す。それが、この夜に限っては物の怪たちは文彦が来ることを心待ちにしていたかのように、文彦を見ては三叉山の中腹をしきりに指差すのだ。それを見て文彦は速度を加速させる。魔力を温存するために、術で跳躍することさえ惜しい。


 凛。


 木々の向こうより響く、鈴の音。

 全身を鋼のバネに変え一気に駆け抜ければ、月明かりに照らされ浮かび上がる巨石と、鈴を結んだ短剣の結界。

 そして。


『文彦、文彦だね!』


 月の輝きよりもまばゆい光を放ち、桐山沙穂に良く似た娘が巨石の上に立っていた。沙穂と違うのは、眼鏡を着用していないこと、そして何より形良く盛り上がった乳房である。文彦がそれを理解したのは、娘が衣服を身につけていなかったからだ。


 全裸の娘。


 彼女は己の身体を隠そうともせず、文彦を見つけると嬉しそうに手を振る。その場を動こうとしないのは、彼女の周囲に八振りの短剣が刺さり結界を形成しているからだ。結界を越えて手を出せば、指や手首が瞬時に砕け散り、そして同じ速さで再生を果たす。苦痛を感じているのかは知らないが、それが己にとって害あるものだとは知覚しているのだろう。

 言い返せば、文彦と会えたことによる歓喜は肉体崩壊の恐怖に勝っていることになる。


『文彦。会いたかったよ、文彦!』


 全身を動かし、喜びの感情を示す娘。その身体は半ば透き通っており、内側より淡い真珠色の光を発している。姿はともかく、その性質は人間のものではない。見れば巨石を十重二十重に、三叉山に棲む異形たちが囲んでいる。

 彼らは皆、沙穂に似た娘に対して警戒しているようだった。


(無理もない)


 結界を通してさえ感じることができる、圧倒的な魔力だ。それは三叉山より滲み出る力とは異なり、異形たちの身体や精神を侵食する性質を持ち、彼らの警戒心と恐怖心を刺激している。迂闊に近寄れば、力の弱い小物ならば取り込まれてしまうだろう。


「おれも会いたかった」

『嬉しいよ、文彦!』


 文彦が巨石に登り結界の前に立てば娘は歓喜の声をあげ、娘より発する光は八本の短剣を吹き飛ばす。


 凛。


 吹き飛んだ短剣に結ばれた七つの鈴が、文彦と娘を囲むように新たな結界を生む。今度の結界は目に見える輝きを帯びた障壁を生み、巨石そのものを包み込んだ。異形たちは一様に驚き、数歩退く。娘は文彦を抱き締め頬をすり寄せる


「ひとつ、訊いていいか」


 抱き締められ、背中や腰に手を伸ばされ、されるがままの文彦がひどく冷たい声で尋ねた。


『何でも訊いてよ、文彦』


 ついばむように数度文彦と唇を重ねてから、娘は沙穂のものと変わらない笑顔で返す。表情を変えず棒立ちのまま、文彦は一度だけ瞼を閉じ、それから娘の目を真っ直ぐに見て言葉を続けた。


「おれを好きになった理由を、教えてくれないか」

『……』


 桐山沙穂の姿を持ち彼女の記憶を有する娘は、意外そうな表情で文彦を見ている。結界の内部に吹き荒れる彼女の魔力は、術師たる文彦の身体精神にも干渉しているはずである。だが文彦は唇を噛むことさえせず、ただ娘が答えを返すのを待っていた。


 十秒。

 二十秒。


 並の異形ならば散って消滅し、術師であっても瞬時に精気を吸い尽くされ意識を失う。結界が多くを防いでいるとはいえ、台風のように噴き出すそれらは周囲に集まっていた異形たちにも侵食を始め、逃げ遅れた小物達が融けるように娘の魔力に吸収されていった。

 処置が遅ければ、この恐るべき魔力は宿主たる沙穂にも牙を剥いただろう。

 魔力は宿主の生命を取り込み、その本質を変化させてしまう。それどころか暴走する魔力は周囲の人間にも干渉し、その本質を侵食する。


 三十秒。


 結界は意味を失い始めていた。

 漏出する魔力は全体の一握りだったが、その量は圧倒的だったのだ。娘の放つそれは三叉山全体を覆い、そこに棲むあやかし達を苦しめ始めている。


『文彦も私の仲間になればいい、そうしたら教えてあげる』


 とびきり素敵な笑顔で、沙穂を模した娘は微笑んだ。




 質問に大きな意味があったとは思えない。

 三叉山で起こる異変に顔をしかめつつ「魂を喰らうもの」と呼ばれた若者は、山より街へ逃げ出そうとする異形を片っ端から封じつつ、そんな事を考えた。

 桐山沙穂より分離した特異点は、若者の予測を遥かに超える速度で暴走を開始した。若者が知る限りそれは記録に並ぶものであり、まっとうな術師の手に負える事態ではない。しかし若者は文彦の実力を知っており、ただ小さく肩をすくめて様子を見守ることにした。


 凛。


 それは鈴の音ではなかった。

 娘は、それに気付かなかった。抱き締めた文彦の身体が柔らかくて、その抱き心地の良さに蕩けてしまいそうだったのだ。


『好きよ、文彦。愛してる、あなたの全てが欲しいの』


 凛。


 再び音が鳴る。


『愛していると言って、文彦』

「恋人なら間に合ってる」


 短く答え、文彦は娘を強く抱き締めた。


 凛。


 音が鳴り、ずるりと何かが落ちる。それは文彦の背中に這わせた娘の手首だった。骨も肉もなく、硬い寒天質の手首は地面に落ちると光を失い夜闇に融けて消える。痛みは無いが、失われた手首は再生しなかった。娘の表情は一変し文彦より逃れようとする、しかし動かした手足は文彦に触れるたびに崩れ、文彦の身体に吸い込まれていく。

 放出していた魔力は、いつの間にか消えていた。

 四肢を失い芋虫のようになった娘を、強く抱く文彦。抱き寄せれば腰が胴が乳房が崩れ、生首となって娘は己の身に起こった事をようやく理解した。


『わたしは死ぬの?』

「それは生ある者が口にする問いだ」


 肺も声帯も無いのに、娘は震えた声で言う。もはや娘は豆電球ほどの光さえ発することはなく、身体が再生することもない。文彦は生首を抱え唇を重ね、それから耳元で何かを囁いた。

 娘は息を呑み、その生首もまた崩れる。

 手に残ったのは、幾つもの宝石を貼り付けた金剛石だ。紅玉碧玉翡翠をそれぞれ摘めば簡単に外れ、全てを取り外した金剛石には無数の亀裂が生じる。ふうと溜息を吐いた文彦は金剛石を口中に放り、リンゴでも頬張るかのように噛み砕く。

 石は砕け、そこに封じられていた魔力と沙穂の心を飲み込んで文彦は呟いた。


「――魂を喰らうのは、あの人の専売特許じゃないってことだ」


 ポケットに宝石を突っ込み、一度だけ月を仰ぎ見た文彦はそのまま三狭山を後にした。




◇◇◇




 その日、桐山沙穂はいつものように目を覚ました。


 いつものようにシャワーを浴びて、二番目にお気に入りの下着をつけて、春に姉が選んでくれた服を着て出かけた。


「あ」


 駅前の予備校に行けば、掲示板には休講と短く書かれていた。

 そういえばそんな連絡もあったと、なんとなく思い出す沙穂。


(第一、こんな気合入った服で授業受けるつもりだったのかしら)


 自分の姿格好を見て、そんな事を考える。講習を受けるというよりも誰かとデートするかのような出で立ちに、我が事ながら苦笑してしまう。


「部活も休みよね」


 昨晩かかってきた副部長――陸上部の男子と付き合い始めたというホルン奏者の女生徒からの電話を思い出し、やれやれと首を振る。堅物で知られる副部長が彼氏の話題となれば、会話が日本語の文法を逸脱する始末。


 あれがノロケというものか。

 自分は、ああはなりたくないものだ。

 そう。

 沙穂は心底そう思った。自分は不幸にも付き合っている相手がいないが、恋人ができてもそういう付き合いはしたくないものだと本気で考えた。恋愛というものは、そういうものじゃないだろうと。


(尊敬できる相手と本音をぶつけあって、それで互いを尊重できる関係を構築したいな)


 まあ、相手がいないから何とでも言えるのだけど。

 苦笑して沙穂は頭をかき、そのまま歩き出すことにした。




 本屋を回り、気に入った服を探し、楽器屋で消耗品と海外メーカーのカタログに目を通す。

 空いた時間で昼食を済ませ、涼を求めて飛び込んだ先で軽く茶を飲めば、それだけで半日が潰れてしまう。特に楽器屋では馴染みの店員とグリースや消耗品の談義で盛り上がり、それが終わる頃には日が傾いていた。


(竹の産地にこだわれるほど、技術なんてないんだけどね)


 受験と部活で手一杯という、自分の高校生活。

 年頃の娘として、少し寂しい気もする。

 朝起きた時から念入りに準備して出かけても、やっていることは普段の休日と変わらないのだから寂しいどころか空しい限りだ。部活は頑張っているが、あくまで趣味の範囲。音大に進めるだけの実力があるとは思っていないし、勿論その意思もない。そんな中で漠然と理系に進みたいという気持ちを抱えているから、予備校にも通う。

 中途半端といえば、そうかもしれない。

 ふと、思考に空白が生じた。


(――あれ?)


 道の真ん中で立ち止まる沙穂。

 自分はなにか大切な事を忘れてはいないか?

 記憶にはない。しかし、街を歩いて西日を見つめると言いようのない焦燥感が彼女を責めるのだ。急げ、まだ間に合うかもしれないと。自分にとってとても大切で、自分はそれを楽しみにしていたはずだ。朝起きてこんな衣装で街に飛び出したのは、そういう事ではなかったのか?

 息を呑む。

 自分はそれを知っているはずなのに、大事な部分が欠落しているのだ。朝見る夢のような曖昧な欠落ではなく、もっと根源的な喪失。意識せず沙穂の足は再び動き、身体を運ぶ。

 手足がまるで全てを承知しているかのように動き、それに導かれるように辿り着いたのは、駅地下街の広場だった。待ち合わせの場所としても利用されるそこは中央に噴水があり、真夏の熱気より逃げてきた歩行者達が集まる場所でもある。沙穂もまた、友人たる柄口鳴美らと遊びに出かけるときはこの噴水を待ち合わせ場に指定することが多いのだ。

 壁に掛けられた時計より現れた安物の自動人形が、安っぽい金属音でメロディを奏でる。犬上市に伝わる民謡だと聞いたことがあるが、幾つかの音の調律が狂っているそれは曲としての体を現していない。曲が終われば、午後六時だ。


 奇妙なる確信を持って広場を歩く沙穂。

 鏡のように磨かれた石畳は、噴水が近くにあるためなのか冷気を帯びている。会社帰りのサラリーマンは改札口をじかに目指すので広間を通ることはなく、外が涼しくなり始めた夕刻は商店街やスーパーの安売り時刻でもあるので先刻まで広間を占拠していた子連れの主婦たちも姿を消し始めている。残っているのは、駅前で寝泊りしているホームレスの老人。そして、

 小学生と見間違えしてしまいそうな少年だった。


 桐山沙穂は、少年を知っていた。

 中学生の頃に父親を亡くし、家業の店を継ぐために調理師学校への進学か専門店への就職を考えているはずだ。部活には所属せず家業を手伝っているから、進路調査や校内アンケートの回答が他の生徒と随分違っていたのも覚えている。放課後になれば、よほどのことがない限り居残りなどしない。それどころか出席日数も足りていないことがしばしばで、担任教師から相談を持ちかけられたことさえある。

 沙穂は何故か硬直し、しかしクラス委員長としての己を思い出して胸を張ると少年に声をかけた。


「村上……文彦くん?」


 言って、どこか他人行儀な挨拶だと後悔する。

 声をかけられた村上文彦は、噴水の縁に腰を下ろしたまま沙穂を見上げた。


「やあ委員長」

「誰かと待ち合わせ?」


 平静を装いつつ、沙穂。だが手足の動きがぎくしゃくするなど、思うようにならない。そんな沙穂の様子など気付かないかのように文彦はしばし考え「まあそんな感じ」と短く返した。


「委員長は、誰かを探してるのか」

「たぶん」


 今度は文彦が、押し黙ってしまう。何か言いたそうで、しかし話すことを躊躇している。沙穂はそんな文彦を見て、やはり沈黙する。

 先に口を開いたのは、文彦だった。


「誰を探しているんだ?」


 声を聞く限りは素っ気ない、文彦の言葉。


「わかんない。私好みの男の人だと嬉しいんだけど」


 何かを決意したのか、文彦の隣に腰を下ろす沙穂。むむむと腕組みし、眉を寄せる。


「でも、特に好みのタイプって思いつかないのよね。これが」

「ふーん」


 あまり興味無さそうに、相槌を打つ文彦。

 沙穂は、今朝起こったこと、街でしてきたことを適当に話した。その上で、何故だかわからないけどここに来ないと一生後悔しそうだからやってきたのだと白状した。文彦と話をするのはとても楽しくて、彼が「ああ」とか「そうか」とか適当な返事をしても、言葉の奥に隠れている気遣いの気持ちが感じられて嬉しかった。




 待ち人は、結局来なかった。


「そういうこともある」


 閉館時間を迎え閉鎖される広場を後にして、文彦がそんな事を言った。それが慰めだと理解したのは、一緒に夕食を食べて、どうせ暇だからとゲームセンターで遊び倒した後だった。

 夕刻の街中で感じた焦燥はいつの間にか消えて、奇妙な充足感が沙穂の胸を満たす。


(なんとなく幸せよね)


 帰宅して、沙穂はそう考える。

 夏期講座の予習も無視してお気に入りのヌイグルミを抱いて、そのまま布団に潜り込んで寝た。









 同時刻、村上家。


「……つくづく、意気地なしだね。お前」

「うるせぇ男女!」


 煮え切らない文彦の態度にぶちきれた母親が、息子と凄絶な殴り合いを始めていたという。


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