魂をくらうもの(弐)




 同級生の芳崎宝から事情を一通り聞いた村上文彦は普段と変わらぬ態度で「そうか」と返事をし、そのまま保健室に入った。軽い熱中症と判断された桐山沙穂は保健室のベッドで横になり、今は吸熱シートを額に貼って寝ている。

 養護教諭は「ちょっと会議があるから」と出掛け、今そこには彼ら三人しかいない。


「……放送部、行かなくていいのか」


 数分ほど沙穂の様子を観察していた文彦が、思い出したように呟く。


「別に俺は委員長を襲ったりはしねーぞ」

「委員長が村上を襲う」


 ジト目で宝が呟けば、横になっていた沙穂が瞼を開いて「ちっ」と舌打ちする。


「ぼくが思うにだ」


 なんとなく委員長を殴り倒したい気分をとりあえず我慢して、手近な椅子に腰を下ろす宝。


「あの男が言ってた委員長の臨界点というのは、理性の限界が近いことではないのか」

「理性なら随分前に吹き飛んでると思う」


 それは大きな問題ではないと、文彦。


「その理性を戻すために色々用意しているんだけど」

「……私は嫌だからね、村上くん」


 横になったまま頬を膨らませ、ぷいと横を向くついでに寝返りを打つ沙穂。文彦はがっくりとうなだれ、何の事だかわからない宝はとりあえず「ほほう」と唸ることにした。




 沙穂が自らの事情を知った次の朝、彼女は至極当たり前のように文彦の家を訪れてこう尋ねた。


「特異点を処理したら、私どうなるの?」


 隣では大狼ジンライがしょっぱい顔で控えている。およそ交渉事には向かない使い魔の失態を知った文彦は、その問いに即答できなかった。もちろんそれは朝の仕込みのために厨房で掃除していたことも関係しているし、台所で母親と妹達が意味ありげな笑みを浮かべてこちらを見ているというのもあった。彼女達が「やっぱりね」とか「ガキが一人前に色気づいたか」など話しているのを聞いた文彦は事情を説明するより先に家族を沈黙させるべきかと本気で考えたが、何とか踏み止まり、まずは己が知る範囲で答えることにした。


「特異点が作用している衝動が、その根本から消える」


 ジンライが前夜沙穂に言ったことを文彦は繰り返した。


「委員長の場合、おれへの恋愛感情が消失する。それと、衝動の消失による精神への負担を軽減するために衝動に関係する記憶も操作することになる」


 つまり。

 あたりさわりのない回答は何だろうかと迷い続け、数日前に出した結論を文彦は口にした。


「おれと委員長、気の合う友人としての関係を維持することは可能だ」


 あくまで文彦の認識において、あたりさわりのない結論である。


「幸いにも深い関係に及んでいないし、夏休みは三週間残っているから気持ちを整理して新学期に臨むことも難しくない。本当に好きな相手が出てきたら、友人として心から祝福するし最大限の助力も約束する」


 誠心誠意を込めて言う。

 誠心誠意を込めているからこそ。


「噛んじゃえ、ジンライさん」

『わふぅ~う』


 笑顔に青筋浮かべて沙穂が指を鳴らせば、条件反射でジンライは己の主人に噛み付いた。


 それより約一週間、文彦は辛抱強く沙穂を説得しようと試みた。

 三課の仕事と家業を並行して片付けつつ、暇を見ては何度も説得した。たとえば予備校の帰りに待ち構えて、沙穂が「お好み焼き食べたい」と呟けば駅裏の鉄板焼き屋に連れ込み、あるいは「イルカショー見たい」と呟けば転移魔術で遠く離れた水族館まで出かけ、はたまた「ねえ……キスして」と色っぽく迫られれば聞かなかったことにして、とにかく説得を試みたのだ。


「特異点を処理しないと大変なことになるんだよ、委員長」

「私の気持ちが消えることは、もっと大変なのよっ」


 お好み焼きを頬張りイルカショーを堪能し、沙穂は言う。


「命には代えられないだろ」

「自分の気持ちを捨ててまで長生きなんてしたくないわよ」


 顔を掴まれてキスを阻止されつつも、口を尖らせ主張する沙穂。結局一週間という時間をかけて文彦は説得したが、それらは失敗に終わった。その間に周囲は「やっぱり村上って桐山さんと付き合っているんだ」と認識し、同級生達は「なぁんだ」と温かい目で見守っていた。




「大抵の人は特異点が臨界に達する前に術師が処理したり、あるいは自滅しているんだ――ああやって、あの男が現れるなんて余程の事態なんだぞ」


 かくして。

 保健室では文彦が沙穂の説得を続けていた。沙穂は布団の端をかじりつつ、とりあえずは文彦の話に耳を傾けている。


「そうそう、あいつって何者なんだ?」


 学校の廊下で沙穂に何かをしていた不審な若者を思い出し、宝が会話に割り込んだ。


「やっぱ同業者なのか?」

「同業者と言えば、その通りだ」


 珍しく歯切れの悪い口調で頷く文彦。


「普通の術者ではどうにもならない事態になったときに派遣される、最終兵器みたいなヤツだ。場合によっては委員長を始末する事も辞さないし、おれの力では対抗することも出来ねえ」

「そんなに強いのか」

「冗談でも思わないね……あの『魂を喰らうもの』に喧嘩を売ろうだなんて」


 名を口にしただけだというのに。

 文彦の唇が震えていたことに、二人の少女は気がついた。


 凛。


 鈴が鳴った。


 鋼を打ち合わせたような硬く澄んだ音色だった。

 遠く遠く響く音色は耳に心地良く、そして魂が奮える。心臓が激しく鼓動し、筋肉が萎縮する。まっとうな生を受けて世に出た生き物には聞くことのできない音の響きに、村上文彦は反射的に立ち上がろうとした。


 凛。


 鈴が再び鳴る。

 言いようのない喪失感と眩暈に姿勢を崩しかけて、文彦は目の前のベッドに手をつく。


(仕掛けられた)


 理屈ではなく直感で理解する。いま、自分は術を仕掛けられた。二つの使い魔を周囲に放ち、自身も細心の注意を払って辺りの気配を探っていながら、術師の攻撃を受けたのだ。

 並の相手ならば術を放つ前に気付いて術返しも行える。それだけの実力が文彦にはある。その文彦が仕掛けられるまで気付かなかったのは、彼我の実力差が圧倒的ということだ。


 自分は支配されたのか?

 それを拒むことに成功できたのか?


 自問し、唸る。顔面より吹き出る汗は恐怖と緊張から生じるものであり、それを拭う間さえ惜しんで文彦は自身の記憶を洗い直す。走馬灯のように脳内情報を増幅し、それを一瞬で判断する。常人では真似できない事柄も、術師としての訓練を受けた文彦にとっては数秒間の作業に過ぎない。

 時間にすれば、深呼吸一つ分の間。

 肩を大きく動かして息を吐き、自分が辛うじて術の支配より逃れたことを知る。


「見舞いに来て自分が転んでは話にならないな」


 後ろから声をかけるのは、同級生の芳崎宝だ。

 呆れたような情けないような表情で呟くと、彼女はやれやれと首を振る。


「こんなのが彼氏では、委員長も苦労が耐えないだろうな……たかが貧血でここまで慌てるかね、普通」

「普段は意外としっかりしているのよ、文彦くんは」


 ちょっと恥ずかしそうに返すのは、ベッドの上にいる桐山沙穂だ。

 文彦くん、と。

 沙穂は当たり前のように呼んだ。違和感を抱き文彦が顔を上げれば、沙穂がはにかんでいる。手のかかる弟を見る姉のように、優しい目で文彦を見つめている。


「ね、文彦くん?」


 ごく自然に沙穂は文彦の手を握った。

 柔らかく、そして少しばかり冷たい手に触れて文彦は一つの事実を理解した。


(特異点が、消失している)


 触れずとも察してはいた。

 だが手に触れることで、沙穂の体内で暴走寸前にまで膨れ上がっていた魔力と、その源というべき特異点が完全に消滅していることを認識した。


(それだけじゃない)


 沙穂の手に触れ、心の様相を読み取り文彦はもう一つの事実を知る。


「……大丈夫、文彦くん?」


 呆然と呟く文彦の額に、沙穂がそっと手を添えた。文彦は返事せず、奥歯を強く噛み締めた。




◇◇◇



 犬上市の街中に、小高い丘がある。

 数十年前の発掘調査で古代の墳墓「らしい」と発表されたそこは三狭山と名付けられ、一等地でありながら開発を免れていた。樹齢百年を越える広葉樹の森に隠された中腹には巨石を組んだ建造物が半ば埋没しており、乗用車ほどの大きさはある巨石の上に「魂を喰らうもの」と評された若者は胡坐をかいていた。

 墨で染めた麻織の衣服、それは和服ではなく、しかし洋装でもない。どちらかといえば中東の遊牧民を思わせる衣服に袖を通し、周囲八方に両刃の短剣を突き立てている。固い岩盤に刺さった刀身は何の変哲も無い地味な造りで、特別な紋様が刻まれている様子もない。


「彼には効かないか、うん」


 それも織り込み済みと言わんばかりに、若者は街を眺めて呟く。オーケストラの指揮者の如く二本の指を立てて空を切れば、指先の軌跡が紋様を生む。三角四角五角の図形を組み合わせた紋様はゆっくり回転し、そのまま何事もなく消えた。少なくとも若者の周囲では何も起こらなかった。


 凛。


 硬く乾いた鈴の音が響く。

 鳴るのは、八方に突き立てた短剣の柄に結ぶ石英の鈴だ。風が吹くわけでもなく、まして鈴は石英の粒をくりぬいた代物であり、音を鳴らすべき金物の粒は入っていない。それでも八個の鈴はひとりでに鳴る。人の耳では聞き分けることのできない微妙な音のズレが、人には聞こえない不協和音を生み出し、それが人には見えない歪みを作り出している。


 凛。


 鈴が、生まれた歪みを増幅する。

 この音と歪みが呪をなす言葉だった。人が声帯を震わせるより遥かに複雑な術が鈴の音によって組み立てられ、術の完成と共に音は再び止まる。残響は無い。


「や」


 短く息を吐き若者が拳を前方に突き出せば、肘より先が虚空に消える。数秒腕を動かしてこれを引き抜けば、若者の手に大きな石の塊が握られていた。それは拳より二周りは大きな金剛石を核として、紅玉・碧玉・翡翠の大小さまざまな粒が張り付いている。

 それは沙穂の心だった。

 若者は素早く短剣の一つより石英の鈴を外すと再び虚空へと拳を突き出し、引き抜く。指先に引っ掛けていた石英の鈴は、虚空に飲まれ沙穂の内に潜り込んでいる。石英の鈴は、沙穂の新たなる心と記憶となって彼女を動かすだろう。若者は桐山沙穂という人間に対してある程度の調査を済ませていたし、彼女が今後どのような人生を送るかについても理解している。沙穂の両親よりも、沙穂自身よりもだ。


 おそらく沙穂は、自身が心を失ったことに気付かず一生を終えるだろう。

 彼女に関わる人間の記憶も操作したので、矛盾が彼女を苦しめることも無い。


(ただ一人、影法師が記憶操作を拒んだが)


 本来ならば影法師、すなわち文彦が沙穂の特異点を処理するのが筋というものだ。しかし若者は、現状の文彦ではそれが不可能だと判断した。


(あれでは百年かかっても目標の説得は出来ないだろう)


 同業者に畏敬の念をもって影法師と呼ばれる文彦にはあるまじき失態だが、それも仕方のない話だと若者は考えた。

 文彦は、必要以上に沙穂を意識している。

 本人に問えば頑なに否定するだろう。あるいは、それを考えないように過ごしているのかもしれない。下手な情けを抱くことは術師にとっても、その目標にとっても良い結果を生まない。若者が知る限り、文彦は過去に一度それで失敗しているのだから。

 ならば。


(余計な世話かもしれないが、部外者が処理した方が良い)


 若者は息を吐く。

 その行為に深い意味は無い。

 特異点を宿した沙穂の心、その顕現たる金剛石には暴走寸前の魔力が宿っている。これを砕けば特異点は消滅し、八方に張った短剣の結界が放出された魔力を受け止めるだろう。同時に沙穂の心もまた砕け散る。

 若者は金剛石を握る手に力を込め、口に運ぼうとした。金剛石に宿る暴走寸前の魔力をすすり、己の糧とするためである。


 凛。


 巨石を揺るがすほどの突風が、それを止めた。周囲の木々は枝葉すら揺らさず、ただ巨石のみが風に揺れる。若者は姿勢をわずかに崩し、金剛石を口元より離す。


『無礼は承知の上』


 声は、正面より。

 風に乗り宙に浮くのは、褐色の肌のウェイトレス。文彦の家にて働いている、異人の娘ルディである。


『貴方の手にある沙穂殿の心、汚すことも砕くことも止めて頂きたい』

「それは君の意思か、それとも影法師の命か」


 わずかな間。


『強いて言えば、自らの意思』

「そうか」


 ルディの言葉に、若者は満足そうに頷く。


「では、この場に彼女の心を置くとしよう。結界は夜までは保つから、それまでに処理するよう伝えて欲しい」


 若者は呟くと、そのまま身体を霞と化して姿を消す。

 直後、先刻より数倍鋭い風がルディの周囲に吹き荒れた。風は刃と化して地面に鋭い傷を何条も描き、それらは土中の小石さえまとめて両断していた。それでいて草木の根は、絹糸ほどの細いものに至るまで一本たりとも切れてはいない。


(たとえ遭遇しても、戦いを挑んではいけない)


 文彦より命を受ける時、ルディはそのように言われていた。

 その意味を少しだけ理解したルディは息を呑むと着地し、そのまま腰を抜かした。



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