第五話 魂をくらうもの

魂をくらうもの(壱)




 それほど広くない部屋の片隅で、一人の男が泣いていた。


 一ヶ月前まで私立中学の講師を務めていたという彼は、汗脂と土埃で汚れたスーツ姿で徘徊しているところを警察に発見され保護された。職務に問題はなく、生徒との間に不和があったわけではない。同僚に尋ねても彼が何かに悩んでいたという様子はなく、それは結婚を約束した女性に聞いても同じだった。


 真面目だけどユーモアのある好青年。


 誰に聞いてもそう返ってきた。たとえどんな困難に面しても弱音を吐かずに立ち向かい克服する。かつて女生徒を変質者が襲った時、ナイフを持った変質者を素手で取り押さえた事もあるほどだ。だから勤務地より遠く離れた犬上市で彼が保護された時、婚約者だけでなく校長や教え子たちも病院に駆けつけた。


「しかし彼は魔物に取り憑かれていました」


 体躯の立派な警官が書類を渡しつつ村上文彦に説明する。


「失踪は、犯罪行為への衝動を理性で押さえ込もうとした結果だと前任者は判断しました。異形自体も既に前任者が封印を施し、危険性はないのですが」

「被害者の内面に影響が残ったな」


 食い物にされたか。

 口の中で文彦は毒づき、扉を開ける。男は、小学生のような少年が入ってきたので少し驚き、そして顔を上げた。


「わたしに近付かない方がいい」


 シャワーを浴びていないからねと、力のない笑みを作る男。


「これでも以前は美男子と言われたものだが、今は屑みたいなものだ」

「あんたは何を我慢している?」


 警官が用意したパイプ椅子を広げて座り、挨拶もそこそこに話を始める文彦。


「教師としての自分が到底許されないって思うような『こと』だから、あんた逃げたんだろ。逃げてまで、今まで関わった人たちを守ろうとしたんだろ。それくらい、どうしようもないことを我慢してるんだろ?」

「君は、わかるのか」


 男は驚いて、そしてひどく疲れた表情で文彦を見た。

 心の奥底に隠し、警官にさえ語らなかった己の恥ずべきものを、目の前の少年は理解している。

 文彦は答えず、男の瞳を見る。瞳の奥の、男が隠している衝動とも言うべきものを見ている。数秒で男は何かを感じたのか視線をそらすのだが、文彦は


「ふん。『切り刻みたい』ね」


 と呟いた。男はバネのように身体を動かして立ち上がり、そのまま退こうとする。既に部屋の隅にいた男は頭と背中をしたたかに壁へ打ちつけたのだが、それさえ構わずに文彦から逃げようとする。

 もちろん逃げ場などない。


「……引き裂いて、噛んで、飲み込んで。ああ、食欲が他の欲求に直結しているのか」


 メモでも読み上げるかのように。

 男が隠していた事を、失踪するまで気付かなかったことを文彦は口にした。あらかじめ知っていたのではなく、今そこで観察して知ったかのような口調でだ。否、確かに文彦はその場で男の心を読んだのだ。

 自身が向き合うことのできなかった心の奥まで文彦は見抜いていたから、男は恐怖する。


「君は、あのバケモノと同じなのか?」

「同じように扱われることは多いけどさ」


 多少は傷ついたのか声のトーンを一段低くして、椅子を蹴り立つ文彦。小学生並みに小柄な文彦でも数歩でたどり着ける距離だから、男はそれだけで恐怖に表情を歪める。更に逃げようとするのだが、身体が思うように動かない。


「わたしは、恐ろしいんだ」息を呑む男「自分の中に、そういう気持ちがあったなんて知りもしなかった。でも、それは間違いなくわたしの中から生まれた気持ちなんだ。こんな気持ちを抱えたわたしが、学校に戻れるはずがないだろう」

「それは、あんたの都合。おれが動くのは、おれの都合」


 と。

 数歩の距離を一気に踏み込んで、右の拳を男の胸へと突き込む。影を巻き込んだ文彦の拳は、男の衣服を貫通し皮を破り肉骨の間に潜り込んで臓腑に達する。異物の挿入感に男は悲鳴を上げかけるが、吸い込んだ息が再び声帯を震わせるよりも早く文彦は拳を引き抜いていた。

 痛みも出血もない。

 拳に張り付いた『影』を振り落として指を開けば、胡桃大の紅玉がそこに現れる。

 男は、心臓の辺りを手で押さえる。己の身に起こった事を理解できないのか、紅玉と文彦の顔を交互に見る。


「これが、あんたの心に巣食っていた闇だ。次に目を覚ました時、あんたを縛る鎖はないし悪夢も消えている」


 掌より影が生まれ、刃と化した影が紅玉を微塵に砕く。

 男は胸を押さえたまま意識を失い、前のめりに倒れた。リノリウム張りの床へ膝をつき、顔面をしたたかに打っても男の意識は戻らない。その物音に警官と病院の職員が部屋へと入り、担架で男を運び出す。気絶した男は鼻血で汚れていたが、先刻までの焦燥感と絶望は消えていた。おそらくそれが男本来の人相なのだろうと文彦は考え、程なく手渡された書類に署名する。


「職場と婚約者には何て説明するのさ」

「いつも通りですよ」仏頂面で返す警官「当たり障りのない理由を適当に」


 バケモノに取り憑かれていても罪を犯さず、自身の衝動を押さえ込もうとした男だ。三課は彼が職場に復帰できるよう最大限の援助をすると言っていた。意識を回復する頃には、男の中の衝動は記憶と共に消えているだろう。


「今日は、あと何名?」

「警察病院で確保している分で、二十名。身元照合中の者が十名ほど移送されてくる予定です」


 警官の言葉に文彦は「練習台には十分な数だ」とだけ答え、次の部屋に移動しようとして。


「そうだ、今の男」


 と思い出したように手を叩く。警官はぎょっとして文彦の言葉を待つ。


「ええ、彼が……他にトラブルでも」

「アパートの台所に、食べかけの牛丼とフライドチキンが」


 凄い事になってるよ。

 蒸し暑かった七月の天気を思い出し、真顔で呟く文彦。警官は返答こそしなかったが青い顔で文彦を次なる部屋へと案内した。




◇◇◇




 芳崎宝はいつものように犬上北高校の正門をくぐった。

 夏休みが始まって既に一週間が過ぎ、予備校の講習は前半分が終わって生徒達にも余裕が生まれつつある。

 そもそも夏季講習は朝から晩まで行われるようなものではなく、受験を控えた者でない限り昼をやや過ぎれば解放される。つまり深夜まで頑張るのはあくまで三年生であり、二年生のカリキュラムはそれほど深刻なものではないのだ。それでも高校二年生というのは委員会や部活動の中心として動くから、講習に参加しない生徒も犬上市では珍しくない。

 放送部長たる彼女もまた夏休みを利用して、秋の高文連で発表する作品を何とかするべく夏休みに入っても学校の部室に通いつめていた。


(むしろ余計な邪魔が入らない分、制作を進めないとね)


 蒸し暑い季節だからと髪を短くして、軽くなった頭を振りつつ廊下を歩く宝。夏休みとはいえ学校を歩くのだからと着用した制服のスカートが大きく揺れ、上履きがパタパタ乾いた音を立てる。

 放送部というのは学校行事に頻繁に借り出されるものだから、学期中はなかなか放送部本来の活動ができないものだ。もちろん放送機器のセッティングや連絡事項、昼休みの番組放送なども立派な活動なのだが。

 しかし、形の残る放送活動となると番組制作以外にはない。それができなければ、放送部は教師の小間使いでしかなくなるのだ。宝はそれが嫌だったので、番組制作にただならぬ情熱を燃やしている……後輩はもちろん、本来予備校に通っているはずの三年生さえ動員してだ。


(問題があるとすれば)


 企画立案兼製作総指揮たる彼女は、スポーツバッグに小型のビデオカメラと書類の束を詰め込んでいる。小柄な宝では荷物に振り回されるのではないかと思うほど、大きなバッグだ。それをものともせず宝は歩く。入学してからそういう生活だったし、当たり前だと考えている。


(やっぱ個性的なネタだね。話題性があって、お偉いさんも納得できる程度に知的で、それでいて馬鹿馬鹿しさのあるネタ。とにかくネタっす)


 先輩後輩が提出した企画書を昨晩までに読み終えて、そのことごとくに宝は没ハンコを押した。集まった企画書はどこかで見てきたような内容ばかりだったので、逆上した彼女は昨晩の内に部員全員に電話をかけて新しい企画書を用意させたのである。


(個性的)


 地味で堅実な題材を扱うドキュメンタリーは派手さはないが評価は高い。惜しむらくは、その種の題材は昨年扱ってしまったことであり、宝は二番煎じというものをひどく嫌っていた。


(……ものすごい心当たりがひとつだけあるんだけど、さすがにアレは使えないだろうしなァ)


 同級生である文彦の顔を思い浮かべ、溜息が出る。


(人知れず妖怪退治を続ける高校生! 影法師の素顔に迫る!って)


 それじゃあ三流オカルト雑誌の記事にもならない。

 万が一そういうものを作っても、高文連には提出できない。与太話として無視されるか「知っている」連中が揉み消すだけだろう、かつて文彦はそう警告している。


(うーん)


 どこかにネタはないものか。

 考えながら放送部の部室を目指して歩き、立ち止まる。


「ちょっと、あんた」


 逃げ出したい気持ちを必死に抑え、声を上げる。

 廊下を塞ぐように一人の青年が立っていた。あるいは文彦の母のように実は女性なのかもしれないが、判断に困るところだ。影を衣のようにして身につけた青年は、その手を一人の少女に伸ばし顔を掴んでいた。凶器を持っている訳ではない、少女も抵抗しているわけでもない。


(違う)


 床に散らばった楽譜の束とクラリネットを見て、それが尋常な事態ではないと宝は判断した。いや、そんな確認など必要としないほど、異常だった。


「そのコを放しなさい、人を呼ぶわよ!」


 こんな時に村上がいれば。

 かつて同級生の秘密に触れた事件を思い出し、唇を噛む宝。青年はそれを見て頷く。


「では、せっかくだから村上文彦くんを指名しようか」


 沈黙が生じた。

 硬直する宝に、青年は微笑む。ぞっとするような笑顔だ。


「彼に伝えて欲しい、ガールフレンドの臨界点は後三日だと」

「臨界……点?」

「君の口から彼に決断を迫って欲しい」


 青年は己の身体を影に沈めて姿を消し、意識を失った少女が床に倒れた。


「委員長!」


 桐山沙穂の姿をそこに見出し、声を出す宝。

 沙穂とはそれほど仲が良いわけではないのだが、駆け寄って上体を抱き起こす。額に手を当てれば、とても熱い。


「誰か! 誰か、手を貸して!」


 大声で人を呼びながら、妙に落ち着いていた宝は携帯端末を操作して文彦を呼び出そうとした。





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