第四話 当世物ノ怪事情
当世物ノ怪事情(壱)
最初は予備校の教室前だった。
「知ってるか仲森。昨日、C組の桐山さんが商店街でいきなり村上にキスしたんだってさ」
テキストとルーズリーフを抱えて興奮気味に話したのは、バスケ部の同輩だった。
「恋愛は自由だろう、委員長が村上のこと好きだってのは有名だし」
仲森浩之はしれっとした顔で答えると、さりげなく話題を期末試験結果と進路相談へと誘導して話題を打ち切った。
次は、携帯端末に送られてきたメッセージだった。
<ねえねえ。昨日おねえちゃんが見てたらしいんだけど、夕方の駅前で髪が長くて胸の薄いジョシコーセーが小学生のオトコノコを抱き寄せてスッゴイ感じのキスしたみたいなの。それで、どうやらジョシコーセーってぐでんぐでんになったオトコノコ連れて駅裏のラブホへ連れて行ったみたいなのよ! でもさ、でもさ。それってひょっとして、なるミンのクラスにいる名物イインチョーじゃない? ホラ、終業式の日にアノ村上君にコクってソッコーで振>
文字表示の途中で柄口鳴美は携帯端末の電源を切り、鞄に突っ込んだ。
(ま、授業中だもんね)
そういえば、文章を送ってきたのは隣のクラスの女の子だったかもしれない。まあ、これから付き合うことも無さそうなので鳴美は送り主を名前ごと忘却することに決めた。
最後は、昼食前の駅前通りだった。
「ご存知ですか? 信じられない話なのですが、あの村上くんが桐山委員長に……その、尻の穴へピンクロー」
「うらぁ!」
午前中の授業を遅刻してやってきた畠山智幸の顔面に、伊井田晋也は何の躊躇もなく英和辞典を縦に叩き付けた。体重百キロを越える肥満体は鼻血と汁を噴出しつつ地面を転がった。
◇◇◇
情報は伝播する。
それが人間を介して行われると、錯綜する。
「簡単に言えば、広がった噂には尾ひれがつくということだ」
午後の授業までの短い休み。
たった一日でそこまで広がり、しかも曲解して伝わってしまった事に対して晋也は淡々と語る。晋也にとっては同級生の色恋話よりも、下宿先の未亡人が作ってくれた弁当に集中したいところであり、彼からしてみればこれでも最大限の関心を示しているようなものだった。
「夕方の人通りが激しい時に、少し奥に入った所とはいえ駅近くの商店街だからな。目撃者も多い」
「そりゃあ、そうだけど」
浩之の言葉に鳴美も頷く。胸がはちきれんばかりのキャミソール姿の鳴美に周囲の生徒や講師たちが息を呑みつつ通り過ぎていく。もっとも妹以外の女性は眼中に無い浩之と未亡人への想いが強い晋也にとって、フェロモン全開で歩き回る鳴美といえど真っ当に女性として意識されることはない。
「もっとも村上が唇を奪われた程度で陥落するとは到底思えないのだがな」
「あ、それは俺もそう思う」
自分で作ったという握り飯を頬張って同意する浩之。時折他校生と思しき女子高生などが浩之に声をかけようとするのだが、隣に鳴美が座っているので敗北して去っていく。
「現状を整理すると『桐山は諦めるどころか暴走しかねない臨戦状態』ということなのだろうが」
出汁巻卵の味わいに静かに感激しつつ、晋也。小料理屋を営む未亡人が腕によりをかけて作った弁当だから、出来は極上である。
「何が心配かというと、このままだと桐山は噂以上の事を実行しかねないということなのだが」
「うんうん」「沙穂ちん何事にも真剣だから」
笑うに笑えないことだけに。
それより先の言葉が出てこない三人だった。
話は数時間ほどさかのぼる。
◇◇◇
自分が何をやったのかを誰よりも理解していたからこそ。
桐山沙穂は猛烈な自己嫌悪と共に目を覚ました。
「……せめて二人きりの時にすれば良かった」
が、二人きりだったら歯止めも効かなかっただろうと思い、赤面する。
「二人きりで?」
抱き上げた時、村上文彦の身体は思ったより簡単に持ち上がった。華奢な手足に細い胴体。筋張っているかと思えば、意外に柔らかい身体。男の人が小柄な女性を抱き上げれば、きっとそんな感覚なのだろう。
(押し倒すの、簡単かも)
引き寄せて、抱きしめて、そのままベッドに倒れてしまえばいい。手足が動かないように身体で押さえて、昨日のように唇を奪うのだ。まるで人形のような文彦を――
そこまで考えて硬直する沙穂。
赤くなっていた顔は一気に沸騰し、肌がピリピリする。呼吸は荒く、心臓の鼓動は激しくなる。それは決して夢物語などではなく実行可能なことだと思ったから、自分の気持ち次第ではいつでも出来ることだと理解してしまったから硬直したのである。
「と、とりあえず」
『沙穂殿』
「うひゃあ!」
窓の外より聞こえる大狼ジンライの声に飛び上がる。
布団を胸元に手繰り寄せたままベッドを降り、ベランダに続く窓の鍵を外す。いつものように使い魔ジンライはベランダの片隅に座り、周囲の気配を探っていた。最初は少々不気味に思っていた沙穂だったが、ジンライの堅苦しいまでの真面目な性格を嫌ってはいなかった。
『おはようございます、沙穂殿』
「……おはよ、ジンライさん」
『実は文彦様より沙穂殿へ言伝が』
続きを言おうとして口を開くジンライに、掌を突き出し制止する沙穂。数度深呼吸し、ついでに姿見鏡で髪型など崩れていないのか少々確認して、それからジンライに向き合った。虎ほどもある大狼はその間じっとしていたが、視線はパジャマ姿の沙穂には向けていなかった。
「それで、村上くんは私に何て言ってたの?」
『あ、直接伝えるそうでござる』
「へ?」
沙穂の返事を待たず。
大狼ジンライは沙穂の股下に潜り込んで背に乗せると、雷光の速さで飛び出した。
「やっぱ恥ずかしいから休むんだろうか」
「……字ぃ綺麗なんだからノート取るの、柄口な」
「ひえーん」
その頃、予備校では沙穂が休むものとして三人組はノートをまとめていた。
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