クラス委員長はベルを二度泣かす(弐)
飯屋というのは、昼夜に忙しくなければ商売が成り立たない。
特に大学前のカレー屋というのは、とにかく質と量を両立させなければいけない。学生というのは量と価格にこだわるよう思われがちだが、毎日の食としてそれを判断するだけの舌も持ち合わせている。中途半端な味では、学生を満足させることは出来ない。質を落とせば今までの客はあっという間に去ってしまうし、及第点以上の味と量を維持すれば価格の変更など気にしない。そういう意味では価格第一のサラリーマンよりも食にこだわる客といえよう。何しろ総合大学に通う学生は千人を超えるのだから、関連して働く職員を含めるとその数は膨大なものとなる。
そこで評判となれば、それはもう大変なことになる。
夏休みに入り学生の数が減ったとはいえ、それが関係するのは時間に余裕のある学部学年の生徒の話。年中忙しく学校を駆け回ったり、休みの間も犬上市に留まるような学生の数は意外に多い。そういう者たちは不規則に食事をすることも多いから、自然と営業時間は長くなり仕込みと接客を並行することになる。となれば厨房はまさに戦場であり、まして腹を空かせた学生を相手にしている店ならば凄絶なものになる。
『オーダー! チキン2、セット3、ポーク辛口1、サラダ付定食3入りましたぁ!!』
「あいよっ」
二十歳を越えるかどうかといった若いウェイトレスが元気よく叫ぶ。鼻筋の通った顔に褐色の肌、細く黒い長髪を後ろにゆるくまとめている彼女はどう見ても日本人ではない。その彼女が胸元をやや強調する制服に身を包み、すらっと伸びた脚を惜しげもなく晒しながら店内を歩き回っている。店の配置や客の動向を完璧に把握しているのか足取りに一切の無駄はなく、途中で水を追加したり別口注文を素早く処理する。その彼女が伝票を手裏剣のように投げれば、キッチンの料理人が後ろ手に鋲を投じてコルクボードに伝票を縫い付ける。料理人は、こちらも長身痩躯の美形であり清潔なワイシャツの上に黒のエプロン姿が眩しい。
声を聞かなければ、その料理人が女性であると気付かぬ者もいるだろう。
よくよく見れば、微妙な仕草や気配で女性と理解できる。しかしそこいらのモデルが束になっても適わないほど、中性的な魅力を彼女は持っていた。歳は三十台前半だろうか、額より伝う汗が輝いておりそれを見た女性客の何人かが黄色い悲鳴を上げる。
「文彦、復唱っ」
「……オーダー、チキン2、セット3、ポーク辛口1、サラダ付定食3了解」
「声が小せえっ!」
料理人は叫ぶと、厨房で玉葱を刻んでいた村上文彦に飛び蹴りを喰らわせる。予備動作なしで繰り出した技だったので、悲鳴を上げる暇もなく文彦は厨房奥の壁に転がって激突する。
「なにしやがるんだ、このデカ雪!」
「深雪お母様と呼びな、ヘタレ息子が! 告白してくれた女の子を手前の勝手で振っておいて、へこむんじゃないよっ。不景気な顔で厨房に立つ位なら、ルゥで顔洗って出直しな!」
「うるせえ、俺には俺なりの事情があるんだよ!」
叫び返せば、文彦の母たる村上深雪は「ははぁあん」と意味ありげな笑みを浮かべる。
「アレだ。ヘタレの文彦君としては、千秋ちゃんの事が今でも忘れられないわけだ」
次の瞬間。
文彦の右ストレートが深雪の左顎に炸裂した。空中できりもみ回転して、反対側の壁に激突する深雪。
「笠間の事を気安く言うんじゃねえ、アンタに何がわかる」
「はン、告白も出来なかった童貞小僧よりは物を知っているさ!」
母子は互いにファイティングポーズをとり、電光石火の勢いで拳を互いに繰り出す。
一分後。
ダブルノックダウンで倒れた母子を踏み越えて、インド風娘のウェイトレスは注文の品を用意した。
◇◇◇
空は青かった。
水平線の向こうには入道雲が湧き上がっていたが、風も穏やかで外の街路樹では蝉が鳴いていた。
(一足早く嵐が来たってところかしら)
桐山水鳥はテレビの天気予報などを横目に見つつ現実逃避した。外の爽やかな夏空とは対照的に、応接間には嵐が吹き荒れている。
「はじめまして、桐山沙穂さんですよね?」
スプリングが少しばかりへたった長椅子に、少女が二人腰掛けている。一人は英国人を母に持つ女子中学生ベル・七枝であり、もう一人の少女が沙穂を見て笑顔で言ってきた。
背は、沙穂より少し高い。それでいて手足の肉付きは、沙穂より少しばかり細い。痩せすぎというよりは、無駄な肉をつけないよう鍛えて絞っているような印象を受ける。そのくせ胸は人並にあるので、締まった身体から強調されている……もっとも同級生の柄口鳴美も見事な身体つきだが、この少女にはフェロモンを感じない。彫刻のような美とも呼ぶべき少女は、やたらと慣れた営業スマイルで沙穂を見つめている。
もちろん本心では笑ってはいない。
沙穂という人間がどのような娘なのか、頭の天辺から爪先に至るまで値踏みしているのだ。
(……どういう理由で?)
沙穂の気持ちを水鳥が代弁する。もちろん言葉には出さない。
「は、初めまして」
とりあえず、それだけの言葉を口にして沙穂は頭を下げる。含むものはあっても、この少女は礼儀正しいのだと沙穂は認めている。
(それにしても)
少女を再びまじまじと見て、なんとも言えない敗北感を沙穂は覚えた。
アーモンド形の切れ長い瞳に、筋の通った小さな顔。整った身体もあって、絵画に描かれるような美少女である。もしも北高生徒ならば、この少女は随分前から噂になっているだろう。雑誌モデルになっていても不思議ではない彼女は、ひょっとしたら女子大生だろうか。と沙穂が思い始めた時。
思い出したかのように少女は己の手と手を打ち合わせ、極上の笑みを浮かべた。
「自己紹介が遅れました、あたしは村上小雪と申します」
「……今年で十二歳っす」
小雪の隣でベルが申し訳無さそうにフォローし。
沙穂の思考は銀河の彼方へと吹き飛んだ。
◇◇◇
昼の営業が一段落し夜の仕込みに目処が立ったのは、午後三時を過ぎた頃だった。
少しばかり遅い昼食を、それこそ普段ならば常人の倍は平らげるところを僅か二口で済ませたのだから、村上深雪は己の息子をまじまじと見た。
「恋煩いにしちゃあ、度が過ぎているとは思わない?」
『私の口からはなんとも』
右手を使って器用にカレーの残り物を食べていた褐色肌のウェイトレスが、もごもご頬張りながらも眉をひそめて頷く。既に渦中の村上文彦は店内になく、夏に着るにしては少々暑苦しいジャケットも消えている。
「私としてはさぁ」
一足早く食事を終え茶など飲みながら伝票整理を始めていた深雪は、ウェイトレスの娘を意味ありげに一瞥しつつ独り言のように息を吐いた。
「文彦も十七なんだから、とっとと女みつけて種付けしてくれないかなーって思っている訳よ」
『あはは、ははは……』
外見で判断するなら声変わりどころか精通さえ怪しい文彦が、どうやって種付けをするのやら。
引きつった笑顔で笑い、しばし後に溜息をつくウェイトレス。
「別にあんたでも良いんだけどね、私としては」
『いやあ、それは』
無理でしょう。
咽まで出かけた言葉を飲み込んで、ウェイトレスの娘は遅い昼食に専念することにした。
◇◇◇
胃袋は間違いなく空腹を訴えている。
店内には冷房が効いていたとはいえ、厨房では絶えず火を扱っている上に激しく動き回って働いていた。調理師資格を持たない文彦だから、店長を務める母の指示で下拵えや洗い物などをすべて任されている。夏休みなのだから大学生などのアルバイトを雇えばいいのだろうが「人件費がかからない」との一言で、文彦にすべてが押し付けられた。
(……何もしないよりは、気が紛れて良かったんだが)
大学近くの街路樹の辺り、土埃のついたベンチに腰掛けて文彦は天を仰ぐ。言葉を発するわけでもなく、まして何かを考えているわけでもない。風が凪いだ犬上の市街地は蒸気の海のような蒸し暑さに満ち、歩くだけで全身より汗が噴出しそうになる。だが文彦は丈の長いジャケットに袖を通し、それでいて一滴の汗さえ流していない。
(ジンライは、委員長の護衛を続けている。ハヤテもだ)
繰り返すように、それが頭の中に浮かぶ。
現状の文彦に打つ事のできる最善の一手。
ベル七枝の所属する「三課」も、その他の組織も沙穂の秘密には気付いていない。沙穂が魔物を引き寄せる事実をベルは知っているかもしれないが、それが意味するところまでは理解していないだろう。なぜならそれは人の闇を識るものだけが気付く事であり、それゆえ影使いたる文彦はその意味を誰よりも理解していた。
(あとは)
ほぼ無意識に文彦は左手を動かした。指先が不可思議なる紋様を描き、直後に文彦の頭上で爆発が起こる。
一抱えはある街路樹が木っ端微塵に砕け、枝葉が炎に包まれる。
その衝撃波はガードレールを吹き飛ばし、アスファルトが焦げる。倒れた街路樹の下敷きになったのか、文彦の姿は無い。一分が過ぎ炎の勢いがおさまった頃、浮世離れした衣装の女二人が街路樹の前に立つ。
「やったか、姉者」
三つ編みの娘が、大型のナイフを手に息を弾ませる。ベルと大差ない年頃の娘だが、目つきはこちらの方が数段険しく、鋭い。姉者と呼ばれた女は、ウェーブを描く豊かな髪をかきあげつつ頷いた。二人は組織に属さぬ術師であり、名を上げるために文彦を襲った。たとえ奇襲を講じても倒す価値があると彼女達は判断したのだ。そしてそれは、彼女たちに限った認識ではない。
「影法師?」
村上小雪の口より出た言葉に、桐山沙穂は首を傾げた。
影法師という言葉はもちろん知っている。しかしそれが言葉通りの意味ではないことくらい、沙穂にもわかる。ベル七枝は「一般人には話しちゃいけないことなんですよ」と困り顔なのだが、小雪は笑顔を崩さない。
「闇を識り、影を友とし、万物の陰と陽に宿りし力を司る術師の尊称。その本質は限りなく魔物に近しい故に、忌まわしいとさえ呼ばれる力の使い手」
詩を吟じるように言葉が流れ出る。
とても十二歳が喋っているとは思えぬ深みが、その声にはある。冗談のような内容でとても信じられないことだが、奇妙な説得力があった。
「村上くんが?」
「ええ」
小雪は微笑み、ベルは「はうぅぅ」と右往左往する。おそらくベルが属しているという組織では機密に属している事項なのだろう、錯乱して己の耳を押さえたり潤んだ目で沙穂に訴えたりしている。その様はあまりに滑稽だったが、何故か沙穂の姉たる水鳥も同じように右往左往していた。
「……お姉ちゃん?」
「い、いやァね。最近の中高生って漫画と現実の区別がつかないのかしら」
沙穂と視線を合わせないように、水鳥はうそぶく。そういう時の姉がどういう気持ちなのか知っている沙穂は「ふーん」とジト目で水鳥を睨む。
姉は、何か知っている。
ひょっとしたら、以前に自分のような体験をしているのかもしれない。ならば後で詳しい話を聞かねばなるまいと思いつつ、沙穂はそれ以上の疑念を小雪へと向けた。
十二歳だという少女は、幼さをまるで感じさせない大人びた容姿と言葉を繰り出している。百歩譲って容姿が大人びていたとしても、十二年で培うことの出来る語彙や雰囲気というものには限度がある。無論育ってきた環境や本人の資質によって変わるだろうが、兄である文彦を知っているだけに沙穂は違和感を拭い去ることが出来なかった。
「それで、小雪ちゃん」
意を決したのか沙穂は切り出した。
「あなたのお兄さんが、そういう人だってのはわかったわ。この十日くらいの付き合いで知っていたし……現実の再認識って言うのかしら、そういう意味では小雪ちゃんの話はとても有意義だった。
でもね」
間が生じる。
「小雪ちゃんが村上君の素性を話すのって、筋違いだと思うの。彼は必要だったら自分から言ってくる性格だと思うし、教えてくれないって事には根拠があるの。結局何も教えてくれないまま振られちゃったけどね」
涙で瞳を潤ませ、それでも沙穂は笑顔を繕おうと努力した。
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