放課後の悪魔退治(参)




 豚頭のオルクス、正確に言えば力の一端を受け継いだと思しき悪魔は失望の色を隠そうともしなかった。


『ご覧になりましたか、影使い。組織が我を滅ぼすべく遣わしたのが、あの程度の炎術師なのです……我の悔しさと悲しさ、理解していただけますか?』

「俺としては委員長から手を引いてくれたらどーでもいいんだが」


 オルクスはぴたりと止まり、意外そうに悪魔は村上文彦を見て首を傾げる。

 文彦といえば寝不足の状態で無理して屋上に駆け上がったためか、嘔吐感に苦しみ口元を押さえていた。


『あの小娘、貴方の御知り合いでは?』

「『形無し』に追われている方はな」

『これは失礼』


 咳き込む文彦に、上辺だけ謝罪するオルクス。弛んだ頬肉が揺れ、よだれを撒き散らせながら頭を上下させる。


『しかしながら』


 オルクスが指を鳴らせば、その足下より紅色の異形が十数体現れる。文彦が「形無し」と呼んだ異形は、沙穂を襲ったものとは異なりより硬質の身体を有しているようだ。


『心に闇を抱えた女性って素敵だとは思いませんか?』


 うっとりとした顔でオルクスが手を挙げれば、形無しの異形たちは鉤爪を剥き出しにして襲い掛かる。




◇◇◇




 形無しの異形、その数十二体。


「こんなの聞いてないわよぉぉぉおおおおおっ」


 少女は叫びながら全力で駆けていた。

 ポニーテールにまとめた金茶の髪が上下左右に激しく揺れるのは、少女が様々な場所に視線を向けながら走っている証拠だ。何しろ初めて入った建物であり、方向感覚に自信があっても土地勘がまるでない。どこに非常階段があり、どうすれば外に出られるのかさっぱりである。おまけに少女は異形たちが狙う少女・桐山沙穂の手を握り引っ張るように走っているので、普段の倍以上の体力を消費していた。

 異形は足音も立てずに迫ってくる。

 一体一体の強さはそれほどでもないと判断した少女だが、十二体がまとめてくればまともに相手することさえ難しい。それにも増して、異形が十体を越えて現れた事自体が少女の「常識」を覆すものであり、少女から正常な判断力を奪いつつあった。


「何で……何で何で何で何で、何でなのよぉぉぉおおおっ」

「な、なにが?」


 息を切らせつつ少女と共に走る沙穂は、自分が理解できない事情でパニックを起こす少女の様子に困惑する。が、パニックを起こそうが困惑しようが、形無しの異形が追ってくるという事実は変わらない。


 アレは、なんなのか。

 生き物なのか。

 弱点はあるのか。

 そもそも滅ぼすことができるのか。

 自分がどうして狙われているのか。


(わからないことばかり、増えてくるッ)


 それが一番腹立たしかった。

 だから沙穂は階段を前にして少女の手を振り払い、異形どもに相対すべく立ち止まった。恐怖心はあったが、それを圧倒する己の無知への怒りが彼女の中に存在していた。

 ああ、この世界は未知満ちているというのに。

 沙穂は怒った。自分に対して。不躾な物言いの、少女に対して。

 そして。


「…………村上君の、ばか」

「はあ?」『ぬう』


 沙穂の呟きに、少女と異形が動きを止める。いかり肩で両拳を震わせ、髪も逆立たんほどのオーラを漂わせる沙穂。いつの間にか彼女の瞳に涙が浮かび、歯も砕けんほど力いっぱいに食いしばっている。


「ガールフレンドのピンチくらい、問答無用で駆け付けなさいよっ。この鈍感男ぉっ!」


 どさくさに紛れてとんでもないことを口走った次の瞬間。

 碧色の雷が辺りに炸裂し、沙穂に迫らんとしていた形無しの異形数体が同時に吹き飛ぶ。寒天質の異形の身体は砕けると共に蒸発し、残る数体が驚愕して数歩退く。


『桐山沙穂さまですか』


 落ち着いた男の声が沙穂の直ぐ横から聞こえた。

 視線だけ動かせば、虎ほどの大きさのある狼が控えているのが見える。鋭く真面目そうな目で、しかしどこか腑に落ちない表情で沙穂を見つめている。狼に悪意は感じない。


『桐山沙穂さまですね』


 沙穂は頷く。


「私が、桐山沙穂よ」

『ジンライと申します』


 恭しく頭を下げる狼。その名を聞いて少女は「ひっ!」と声を上げ、形無し共は更にたじろぐ。狼は鋭い視線を形無しへと向け、低く唸った。


『我が主の命により、あなた様をお守りします』


 電光石火の早業で。

 ジンライを名乗る狼は残る形無しを雷で吹き飛ばすと沙穂を背に乗せ、ついでといっては何だが呆然としていた少女の襟を口にくわえて走り出した。




 一陣の風が屋上に吹いた。

 海からの湿った潮風ではない。かといって山からの熱い風でもない。今が真夏であることを忘れさせるほど、冷たい疾風が吹き抜けたのだ。


『……ぶひぃ』


 冷涼と呼ぶには、あまりにも鋭い風だった。オルクスと呼ばれた豚頭の悪魔は短い手で己の身体をこするように動かし、文字通り震え上がった。村上文彦を襲った十数体の「形無し」達は、風に撫でられたのかいずれも凍りつき、そして数瞬の後に微塵に刻まれて床に散った。

 紅色の染みは僅かの間だけ床に広がるが、それらは赤い塵となって空気に溶けて消えてしまう。


『影使いが風の術を使うなど、聞いたこともありませぬ』

「俺じゃねえもん」


 即座に言葉を返す文彦。彼は相変わらず不機嫌そうな顔で、上を見ろといわんばかりに親指を立てる。オルクスが用心しつつ顔を上げれば、太陽を背に急降下する一羽の隼。猛禽は己の身を鏃と化し、文字通り空を切って落下する。嘴がオルクスの額を貫き頭部を引き裂くと、隼は両の翼を大きく広げて床への激突を回避し、首をひねってオルクスを放り投げる。無論、まっとうな猛禽になせる業ではない。


『お、お、お、お、おっ』


 頭頂部が割れてなおオルクスは生きていた。いや、生きているという言葉は正確ではない。そもそも彼が生物としての条件を満たしているのかさえ、定かではないのだから。


『豚野郎ですか、旦那』


 文彦の肩に止まった隼が軽薄そうな口調で喋り、翼を腕のようにやれやれと動かす。文彦はしかめっ面で短く「ああ」と頷くと、ようやく吐き気がおさまったのか己の腰に手を当てる。


「豚野郎だな、ハヤテ」

『豚ですね、ええ』


 ハヤテと呼ばれた隼は主そっくりのげんなりした顔でオルクスを見る。なぜならばオルクスは引き裂かれた頭部を再びこね回して傷を埋め、再生したのだから。


『丈夫ですね、旦那』

「そうだなハヤテ」


 その気があればオルクスに止めをさす事も余裕で出来ただろう。それを行うだけの時間と実力が文彦と隼にはあったのに、一人と一羽はオルクスが逃げ出さないように監視しつつ屋上に突っ立っている。

 やがて。

 階下に雷の轟音鳴り響いたかと思うと、地を這う別の疾風が屋上に現れた。それはジンライと名乗った大狼であり、その背には沙穂が、口には少女がぐったりとしている。どうやら二人とも圧倒的な速度のために身体が硬直しているらしく、沙穂は笑顔を引きつらせていた。


『お連れしました、文彦様』

「ご苦労、ジンライ」


 頭を撫でれば狼は嬉しそうに尻尾を振る。蒼い雷を体中に帯びる大狼は鋭い視線をオルクスに向け。

 そして。

 奇妙な光景だった。

 夕刻にはまだ早いのに紅に染まった世界。

 御伽噺に出てきそうな、豚頭の巨漢。

 無表情にして悪意を剥き出しにする形無しの異形たち。


(まるで出来の悪い悪夢だわ)


 大狼の背に乗り、桐山沙穂は不思議な感覚に捉われていた。硝子とコンクリートに覆われ銅線が無数に走る近代都市が、その意味を失っている。明治大正の時代ならいざ知らず、このご時世に街の闇に徘徊する怪人など……。


「恥ずかしいと思わないの、あなた達っ!」


 自分の立場も忘れて沙穂は叫んでいた。


「二十一世紀になったというのに、悪の怪人に戦闘員ですって? おまけに無断侵入の女子中学生が恥ずかしい技の名前を連呼して、下着丸見えの踵落し。破廉恥にもほどがあるわっ!」

『そこにいる少年はどうなので』

「村上くんは……」豚頭オルクスの言葉にうろたえつつ答える沙穂「ちょっとくらい派手な方がいいのよ、彼」

『ほーう』「へええええ」


 大狼と隼、それに女子中学生が同時につっこむ。意味ありげな視線を傍らに立つ村上文彦に向けるのだが、文彦はそもそも沙穂の言葉を聞き流しているので意識もしない。

 むしろ沙穂の言葉に全員の意識が向けられている好機を逃すまいと、文彦はポケットより銀牌を取り出しオルクスに投じる。爪ほどの小さな銀牌には複雑な図形と文字が刻まれており、放物線を描かず空を切って銀牌はオルクスの眉間を貫く。

 隙をついた行為だったので、沙穂も少女も気付かない。

 銀牌は粘土のようなオルクスの皮膚に潜り込み、そのまま姿を消す。ほんの一瞬の出来事だったので、オルクスもまた短い手を額に当てるが銀牌を引き抜くことは出来なかった。


『何を、されたのです』

「別に」


 震えた声で問うオルクスに文彦はとぼけた顔で返す。


「俺は地味だから、派手な仕事は苦手なんだよ」


 右手で空を切り指先で短く印を結ぶ。その間も少女や隼達は『そもそもがあるふれんどとはいかなる存在なのですか』「破廉恥なんかじゃないもんっ」『おいおい文彦の旦那に彼女が出来たってのか』など騒いでおり、オルクスの様子はもちろん文彦の動きを察知していない。

 わずか数秒。

 銀牌に刻まれた模様、三角四角五角形を組み合わせた複雑なる紋様がオルクスの額に浮かび上がる。直後、オルクス足下の影が盛り上がり、全身を包み込む。


「封印」


 ぼそりと文彦が呟けば、もがく間もなくオルクスを覆う影は地に落ちる。ちゃりんと金音が鳴るので沙穂がようやく視線をそこに向ければ、既にオルクスの姿はない。文彦は腰を落とし、床に落ちた一枚の銀貨を拾っている。複雑なる紋様と、豚の絵がそこに刻まれていた。


「……村上くん?」


 いつの間にか、空に蒼が戻っていた。




◇◇◇




 陽が西に傾いていた。

 下校時間を迎えた北高校には、ほとんどの生徒が帰宅していたので玄関には人影が三つあるだけだ。


「どういうことなのか、説明してもらいますからね」


 影の一つが厳しい口調で言った。沙穂である。


「おばさんは一般人だから説明しても無駄だよぅ」


 影の一つがポニーテールを揺らしながら返す。校舎への無断侵入の件で、職員室にてたっぷり説教されてきた女子中学生の少女だった。おばさん呼ばわりされた沙穂は笑顔のまま少女の頬をぎうっとつねり上げ、少女は「ひーん」と呻く。


「私は二度も化け物に襲われた被害者なんだから、事情を聞く権利があるの」

「ひーん」


 沙穂と少女が騒いでいるので。

 できるだけ静かに文彦は玄関より立ち去ろうとした。事情が掴めないのは文彦も一緒だったが、ただでさえ疲労が蓄積していた身体に鞭打って豚頭オルクスを退治したので体力は限界を超えている。足取りは限りなく重く、朦朧とした意識では事情を説明する気にもなれない。


(とにかく、逃げよう)


 すべては明日以降だ。

 委員長への説明も、少女を詰問するのも。

 が。


「待ちなさい、村上くん」

「うう」


 委員長に手を掴まれてしまう文彦。振り払う気力もない。

 魔物封印の術は想像以上に体力を消耗する。十分な準備を行わず即興的に組み立てた術式ならばなおのことで、まっとうな術師ならば文彦が行ったことを知れば悲鳴を上げるだろう。しかし沙穂はそもそも術式の何たるのかを知らないし、術師と思しき少女もまた文彦のそれを目撃していない。


「二度あることは三度あるかもしれないでしょ?」

「……実は今日のが三回目」


 疲れたような文彦の言葉に硬直する沙穂。少女もさすがに「ええっ」と驚いた様子だが、文彦は構わず胸のポケットから一枚の銀貨を取り出した。複雑な図形と狼の絵柄が刻まれたそれは、地上のいかなる地域時代の国が製造した貨幣とは異なっている。


「これを」


 と、驚く沙穂に銀貨を見せて手に握らせる。少女は「封魔の刻印っ」と声に出し、心底羨ましそうな顔で沙穂を睨む。


「それを持っている限り、ジンライが委員長を守ってくれる」

「こ、こんなのじゃ誤魔化されないんだからねっ」


 といいつつも。

 赤面して大事そうに銀貨を生徒手帳に挟む沙穂だった。




◇◇◇




「屋島査察官の命により、本日付で犬上特別区画の警備として配属されました。第三課所属のベル・七枝です」


 学校からの帰り道、沙穂を最寄のバス停まで見送った後にポニーテールの少女は文彦に敬礼した。背筋を伸ばし、視線は文彦に向けられている。一朝一夕で身につく動きではない。


「三課、ねえ」


 文彦に仕事を斡旋する「組織」の名前を耳にして文彦はどうでもいい気分になっていた。そうでなくとも疲労のため既に正常な判断力など失われている。


「英美さんも苦労しているみたいだな」


 ベルが持ってきた書状に軽く目を通しつつ、どうでもいい感想を口にする。少女は割と深刻な顔で頷き、


「査察官の敵は組織内部にも少なからず存在します。魔物掃討派との衝突も一度や二度ではありません」

「ふん」


 呆れているとも感心しているとも判断できない表情で、文彦は書状を学生鞄に突っ込んだ。


「まあいい、宿舎まで送ってく」

「はい」

「それで、何処なんだ?」


 返事が来ない。

 なぜかと思い振り返れば、ベルは少し恥ずかしそうに俯いている。


「屋島監察官は、ですね。村上さんの家に下宿しろと。空き部屋もあるという話ですので」

「……待て」

「お母様には、既に手紙も出して連絡もしましたし前日のうちに挨拶も済ませているんです。荷物も、今朝運びました。もちろん村上さんのプライベートを邪魔するつもりはありませんけど……実戦経験豊富な術師の方に色々相談に乗って欲しくてっ」

「バカヤロウ、そういう問題じゃねえだろ」

「お願いします、ほかに行くところなんてないんです!」


 そうして。

 本格的に夏休みに突入する前に、村上文彦の不名誉なる噂が一つ増えることになった。


(はて、何か忘れているような)





 同時刻。

 屋上に至る階段の片隅で倒れている畠山智幸は、走馬灯がスタッフロールに差し掛かろうとしていた。



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