放課後の悪魔退治(弐)




 それはもはや北高では日常と化しつつあった。


「事件なの、とにかく物凄い事件なんだってば」

「あーうー」


 引きずられながら文彦は呻く。

 沙穂は文彦の様子になど全く構わず引きずっており、それはデパートで疲れ切った子供を引きずりつつバーゲン会場を生き生き駆け回る母親の姿にも似ていた。


「っつーか、部活はどーした委員長」


 文彦の言葉に、沙穂は固まる。吹奏楽部に所属する沙穂は、高文連のコンクール以外にも様々な演奏会が控えているので練習を休むわけにはいかない筈だ。少なくとも沙穂は文彦にそう言っていた。


「練習は大切だぞ、委員長」

「そう、あれは練習中の出来事だったの」


 遠い目で呟く沙穂。握力が弱まり文彦は後頭部から床に落ちるが、そんな事にも気付かず胸の前で両の拳をあわせ瞳を潤ませる。二昔前の少女漫画の世界を彷彿とさせる沙穂の仕草だが、後頭部を押さえてゴロゴロと転げまわる文彦には彼女の芝居がかった仕草を観察する余裕などない。


「私たちが。その、木管楽器の合同練習で空き教室を使おうとしていたの」


 放課後の教室は、多くの場合部活動の場所として利用される。

 もっとも運動部が校舎を使うとしても階段や廊下での走り込みであり、教室を使用するのは文化系部活動が主である。比較的教師の信用が篤い吹奏楽部は楽器ごとに教室を借りて練習することが多いし、文化祭の実行委員が各部門に分かれて打ち合わせなどを行う際にも教室をそれぞれ借りる。美術系の部活動は美術を、化学生物系の部活動は各種実験室を使うのだから実際には教室は余るのではないかと運動部の生徒は考えるのだが、それは誤りである。


「それで普段使っている教室には文化委員会が会議を開いていたから、別の教室を使おうと思って……そうしたら」

「ぐー」

「寝ないでよ、村上くんっ」


 回想が長くなりそうだったので意識を失いかけた文彦の襟を掴んで前後に振る沙穂。後頭部は痛いわ追試の後で眠いわでいっぱいいっぱいの文彦は、恨みがましい目で沙穂を見上げる。


「要点だけまとめてくれよ、委員長」


 あと一歩で殺意が言動の源になりそうな文彦の態度に、さすがの沙穂も咳払いして慎重に言葉を選ぶ。


「あれを見て欲しいの」


 あれ、と沙穂は空き教室の一つを差す。図書館に近い、特別教室が幾つか並ぶ棟の廊下である。

 放送部の施設や学校新聞の編集室、写真部の暗室などがずらりと並ぶ一角。生徒会室も存在するその教室は、普段は使われていない。授業では滅多に使われないから生徒の中には「あかずの教室」と呼ぶ者もいる。

 その教室の扉に、一枚の紙が張ってある。

 安物のわら半紙に、中細の油性マジックでいい加減に書きなぐった文字。いい加減に画鋲で留めたのか、隅の一つが破れているそこに書かれていたのは、


【邪神召喚部  現在部活中につき入室禁止】


 である。


「どう、これは事件でしょ!」


 えへんと(無い)胸を張る沙穂。文彦は


「うちの学校に非公式の同好会が幾つあると思ってるんだよ、委員長」


 と答えるしかなかった。




◇◇◇




 問い詰めてみれば、それは非公式の活動でも宗教結社の集会でもなかった。


「洒落ですよ、洒落」


 扉の張り紙を手に、同級生の畠山智幸がぬめっとした顔で答えた。

 手足が短く樽のような胴体の、歩くより転がる方が確実に速そうな男は歩くごとに身体を揺らしつつ桐山沙穂と、彼女に引きずられた形でそこにいる村上文彦を交互に見る。およそ恋愛事とは一生無縁そうな樽男は、この一週間でそれなりに見慣れた組み合わせである男女を見て何か言いたそうだったものの言葉を飲み込み、代わりに作りかけの製本レイアウト用紙を見せたりして説明した。


「年一回発行する学校誌の編集会議ですハイ」


 畠山の言葉通り、あかずの教室では数名の編集委員が企画とページ数の打ち合わせをしていた。印刷製本を除けば他の作業すべてを生徒が行うという学校誌の編纂は、活動的な委員長に恵まれて数名の生徒が色々駆け回っているという話である。


「あかずの教室を使うから、それっぽい名前の紙を張ったんですハイ」

「……紛らわしい事はやめてよね、畠山君」

「す、すいませんですハイ」


 普段より二割り増しで厳しい沙穂の言葉に、畠山は直立する。


「冗談でやっていい事と、悪い事が世の中にはあるの。畠山君にとっては悪気はなくても、それで傷ついたり心配する人もいるんだからねっ」

「は、はあ」


 でも邪神召喚で傷つく人っているんですかね、と畠山が口ごもると


「口答えしないでよっ。私と、部活のみんなは傷ついたのよっ。世の中にはね、畠山君が考えもしない事で傷つく人がたくさんいるの! 心の強さとかそういう問題じゃなくて、学校の生徒としてやってはいけない事があるのよ!」


 物凄い剣幕で沙穂が怒鳴るので、畠山だけでなく文彦まで驚く。沙穂は真剣そのものであり、他意や悪意とは関係なく本気で怒っているのだと理解できる。だから畠山は慌てて「ごめんなさいと」謝罪し、文彦もつられて頭を下げた。沙穂は半ば涙目になっていたが、しばし後に落ち着くと部活に戻った。


(委員長、泣いてたな)


 なんとなく見送っていた文彦は、そんな事を考えた。

 堅物とばかり思っていた沙穂は、文彦の裏稼業を知ってからは印象が変わった。意外とお喋りで、好奇心が強く、そのためにはクラスメイトをも平気で引きずり回すバイタリティも持っている。だからこそ沙穂が畠山を叱っていた時その目に涙が浮かんでいたのを見て、文彦は動揺したのだ。

 故に。


「ついて行かないので?」

「わあぁっ」


 畠山が横でぼそりと呟くと、文彦は心底驚いて飛び上がった。あいかわらずぬめっとした顔の畠山は表情を変えず、編集会議中と書かれた新しい張り紙を扉に貼り付けている。なんとなく考えていることを見透かされたような気がした文彦は赤面しつつ畠山を蹴るが、分厚い肉と脂肪で覆われた畠山の胴はぶるんぶるん揺れるのみだ。


「ぶう、照れ隠しに蹴るとは小学生並の反応を」

「バカヤロウ、こっちだって色々事情があるんだよ」

「では急がれることですハイ」あるかどうかわからない首を引っ込める畠山「今日の桐山さん、ここ数日で一番愉快ですからハイ」

「う、うるせえ肉ダルマ。余計な詮索する暇があったら、とっとと仕事しやがれ!」


 と悪態吐きつつも。

 文彦もまたその場を去っていく。



 苛立っている。

 そのことを沙穂は自覚していた。馬鹿みたいにテンションが高いのも、怒りっぽいのも、理由がある。


(私は、誤魔化しているんだ)


 クラリネットのマウスピースを調律しつつ、沙穂は嘆息した。薄く削った竹のリード板を唇で噛み、僅かに湿らせる。髪の毛数本分の幅でさえ調律が狂えば望む音は出てくれない繊細な楽器は、使い手の気持ちを正直に伝える。割れ鐘とアヒルの鳴き声を組み合わせたような、まるきり調子外れの音が出たかと思えば、ただ細管を吹き抜ける息の音色が出たりもする。


 呼吸が落ち着かない。


 腹筋と背筋のバランスも崩れている。安定して息を吐くこともできず、舌先も震えている。頭の中は落ち着いているのに、身体は何かに怯えているのだ。


(人の天敵……人はどうして闇を恐れるのか)


 ほんの一週間前、道先の暗闇で問い掛けられた言葉を思い出し息が詰まる。

 闇の中から何かが来て、沙穂に話しかけ、そして何もわからない内に解決した。現場に戻り、切り刻まれたアスファルトを見たときの驚き。それが文彦の仕業と知って、人にあらざるものの存在を目にして。

 解らない事ばかりが沙穂の胸に残った。

 沙穂はあの時間違いなく生命の危機にあった、しかも一方的に。彼女に対して特別の恨みがあった訳ではなく、おそらく気まぐれに命を奪おうとしたのだろう。理系の彼女としては、道筋のわからぬことが我慢ならなかったし、理解できないものに命を奪われることに納得できなかった。まして己を助けてくれた文彦もまた、およそ沙穂の理解を超越する「何か」を行使しているのだ。

 一週間かけて沙穂は理解しようとした。

 それは文彦と親しくなりたいという女心であり、同時に未知なるものへの恐怖を克服するための闘争でもあった。しかし文彦は何も教えてくれないし、文彦が術を使う現場を目撃することもない。沙穂の心は、次第に闇への恐怖に飲み込まれつつあった。


(もう飲み込まれているのかも)


 溜息が出る。

 このままではいけないと頭の中ではわかっているのだが、本能的な恐怖から逃れる術は無いと諦める気持ちもある。

 自分は闇を、闇の向こう側にいるモノを恐れているのだ。その気持ちを拭い去ることも、誤魔化すこともできず飲み込まれていく。


(駄目。これじゃ練習にならない)


 乱れた気持ちを抱えたまま練習しても意味は無い。事情を伝えることはできないが、今の沙穂では周囲の足を引っ張るだけだ。


「すいません、部長」


 言いかけて気付く。

 考え事をしている間に世界の様相は一変していた。部員達は凍りついたように硬直し、楽器だけが優雅な音楽を奏でている。校舎の全てが紅に染まり、壁が生命のように蠢動している。

 息を呑む、沙穂。

 神経が高ぶり胃袋が絞られるような嘔吐感が彼女を襲うが、沙穂は咳き込むのみ。それが何であるのか、理屈ではなく本能が理解し全身に恐怖を伝えている。


『なるほど、真実に近付きたる者の恐怖はなにものにも勝る美味である』


 床が動く。真っ赤に染まった部員達の影が集まり盛り上がり、人の形となる。目も鼻もなく真っ赤なペンキをかぶったようなそれは、二つの目が大きく見開いている。


『少女よ』


 それは再び呼びかけた。

 今にも崩れそうな手を差し伸べて、招くように。


『我らの存在を心に刻み、闇の傷を胸に負う少女よ。汝は』

「とりゃあああっ」


 その時である。


 何も無い空間より一人の少女が現れて、紅に染まった魔物の手を蹴り飛ばした。金茶の髪をポニーテルに結い、青蘭女子の制服を着た女子中学生は続けざまにトレッキングシューズで魔物の顔を蹴り、沙穂をかばうように立つ。好戦的で挑発的な眼差しを魔物に向け、少女は叫ぶ。


「おばさん、危険だから下がってっ!」

「お、お……」


 悪意のない一言とはいえ。

 魔物への恐怖より少女への殺意が強くなった沙穂だった。




◇◇◇




 学校の屋上に一人の男子生徒が立っていた。


 樽のような胴体、短い手足。誰が見てもそれとわかる畠山智幸は、菓子パンをべちゃねちゃと音を立てて頬張りながら眼下の景色を眺めていた。開いているのかどうかもわからない細い目に、弛んだ頬肉。しまりのない唇はにちゃにちゃと音を立てて咀嚼し損ねた菓子パンの欠片を唾と共に吐き出している。学生服は食べかすで汚れており、彼はそれを手で払おうともしない。


 眺めることと、食べること。

 まるでそれが彼の人生すべてではないのかと言わんばかりに、畠山はそれをもう何分も繰り返している。


「心に闇を抱えた人は、望まなくとも闇を引き寄せるものです」


 音楽室のあたりに視線を動かして、そう呟く。菓子パンが尽きたと知って、それでも甘味を求めて己の指をしゃぶり唾液でべとべとにする。今まさにその場所では、紅色の異形が沙穂を襲わんと現れ、それを阻止すべくポニーテールの少女が駆けつけたところだ。しかしながらそれは建物の死角にて起こった事件であり、仮に視界にその場所を捉えたとしても常人には察知することもできない位相での出来事だった。

 それを畠山は認識していた。

 唇の端がつりあがるように歪む。


「アア素晴らしい」

「そんな訳があるか、ボケ」


 唐突に。

 一陣の風のように階段を駆け上がって現れた村上文彦の飛び蹴りが、畠山の顔面に炸裂した。不意を突かれた畠山は鼻骨と前歯数本を折りつつもんどりうって倒れ、床に転がる。普通ならば激痛で恐慌状態に陥ってもおかしくない負傷なのに、畠山はなんでもないように立ち上がり肩をすくめる。


「君は同級生に対して容赦しないのか」


 格闘家でさえ平然としていることが困難な負傷だというのに、畠山は僅かに眉を寄せるだけだ。もっとも文彦もまたその辺は承知済みらしい。


「俺の知ってる畠山なら、階段の下で気絶させてる」


 あっさりと、とんでもないことを口にする。

 歯の折れた畠山もどきは唖然とするが、しかし直ぐにふてぶてしい表情に戻る。


「おや、そうでしたか」


 畠山もどきは納得すると己の顔を手で押し潰す。まるで粘土細工のように皮と脂が混ざり、肉と骨が潰れる音が文彦の耳にも届く。そのグロテクスさに文彦はげんなりとするが、決して油断することはない。かつて畠山の姿をしていたそれは数秒ほど己の顔を弄っていたが、直ぐにその手を止めた。

 そこに在るのは、豚を醜く歪めた獣の貌。


『これが私の本性デスよ、村上くん』

「変身する必要ねえじゃん」


 冷たい突っ込みに、悪魔オルクスの眷属は思わずその通りだと納得してしまった。




◇◇◇




 少女は、どうみても中学生だった。

 青蘭女子の制服は、犬上市の女子高生なら誰でも知っている。少女の制服が中等部のものだということも、直ぐにわかる。肌の艶もいい。寝不足とか食生活に気を遣わなくともつやつやですべすべで張りのある肌は、羨ましい限りだ。

 が。


「他校生が、しかも中学生が一人で校舎に入ってはいけないのよっ。きちんと職員玄関で受付したの? 同行してきた保護者の方はどこ? それ以前に中学生が」

「ぢぇいっ」


 場違いなことで騒ぐ桐山沙穂の額に手刀を叩き込む少女。眼鏡も割り砕かんほどの手刀を眉間に喰らい、額を押さえてしゃがみ込む沙穂。


「あぐぅぅううう」

「おばさんは黙ってて、余計なこと言わないでよねっ!」

「お、おば……」


 一度ならず二度までも。

 少女に悪気があるわけではない。確かに沙穂は、同年代の女子高生に比べれば落ち着いた雰囲気がある。言い方は悪いが地味目という印象も拭えない。だから中学生の少女から見れば沙穂は随分と大人びて見えるのだから仕方がないという意見もある。

 理性では、そう判断できる。

 理性ではだ。

 傍観していた紅色の異形でさえたじろぐほどの暗黒オーラを漂わせる沙穂。少女はそれに気付かぬ振りをして異形へと立ち向かう。


「とにかくっ!」


 びしっと異形に指を突きつける少女。肩幅に足を開き、僅かに腰を落として身構えている。親指の付け根に重心を乗せ、踵は僅かに浮いており前後左右いかなる動きも瞬時にとることができた。前方の異形だけでなく、後方の沙穂にさえ襲われかねないことを自覚していたからだろう。


「迂闊だったわ。悪魔オルクスにばかり気を取られていたから、アンタみたいのがいるなんて知らなかった」

『汝は、この地を識らぬようだな』


 紅色の異形は崩れかけた手を再生させ、首を傾げる。それは真実だったので少女は唇を噛む、そこに重大な意味があると感じたのだろう……表情も硬い。


『この街はな、いわば紙一重の地よ』


 吟。

 空間が軋む。

 異形の足下より影が広がる。ペンキのようにぬっぺりとした真っ赤な影が広がるのを見て、少女は跳躍する。

 己の胸を軸に前転し右脚を振り下ろせば、踵が蒼い炎に包まれる。繰り出した踵はまるで刀のように、異形の胴を袈裟懸けに切り裂く。異形は寒天質の身体を震わせながら崩れ、床に溶けて消える。


「これぞ奥義・炎斧脚!」

「……恥ずかしい上にどこかで見たようなネーミングセンスだわ」


 自慢げに胸を張る少女に突き刺さる、沙穂の冷静な一言。もちろん少女の踵が炎に包まれたことは、驚愕すべきことである。驚愕すべきことだが、このような状況下では『何を今更』という気持ちが大きい。


「わ、わわわ技の名前叫びながら繰り出すよりマシでしょ、おばさん?」


 引きつった笑みで「あたし命の恩人よ?」と少女が凄めば。

 沙穂は黙って少女の背後を指差した。そこは先刻まで紅色の異形が立っていた場所である。


「なによ」

「増えてる」

『言ったであろう、汝はこの地を識らないのだと』


 声は複数あった。

 少女は引きつった笑顔のまま沙穂の手を取り、音楽室より逃げ出した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る