第二話 放課後の悪魔退治
放課後の悪魔退治(壱)
追試というのはたった一人で受けるわけではなく、たとえば赤点を取ってしまった生徒や風邪などの事情により試験に参加できなかった生徒などが受けるので悲壮感とかそういう意識は意外に乏しい。教師にしてみれば客観的な評価を下す上での数少ない基準なので、とにかく試験を受けて欲しいと考えているし、できることならば留年とかせずに三年間できっちり何の問題も起こさず卒業して欲しいと考えている。それらのことを踏まえれば追試問題というのは基本的に教科書の焼き直しであり、下手をすると教科書の演習問題そのままという可能性も非常に高く、それはそれほど多くない追試生徒のために新たに問題を考えるのも面倒くさいという教師側の事情も見え隠れしている。どのみち追試という時点でそこには公正な評価とかそういうものを超えた、いわば生徒と教師の妥協が潜在しているわけで、だとすれば生徒にとって脅威なのは追試問題の質ではなく与えられた追試科目の多さとなる。
「あああ」
がっくりと。
村上文彦は肩を落として廊下をとぼとぼと歩いていた。高校生でありながらランドセルが似合いそうな文彦が廊下を歩けば、事情を知らない下級生などは幼い容姿の文彦を見て驚いて振り返るのだが、今の彼にはそれらに反応する余裕さえなかった。
「……疲れた」
四科目の試験を続けて受ければ消耗もする。試験時間は多めにあったが、規定通りに受けていたら下校時間など軽くオーバーしてしまうので、教師は無言で時間短縮を迫り文彦は試験を急ぐ。トップクラスではないとは言えそこそこ試験に備えて勉強していた文彦にとって解答困難な問題はそれほどなく、やはり圧倒的な分量が最大の障害となった。
一科目に費やした時間は平均して十五分。
解答の書き間違えなど見直す間もなく解答用紙を試験監督に突きつけた文彦は、精も根も尽き果てたボロボロの身体を引きずって廊下を歩く。目指すのは生徒玄関であり、安らぎの睡眠が得られる自宅のベッドだ。
(とりあえず寝よう)
十時間くらい寝よう。
様々な事情で二日ほど徹夜していた文彦は、寝ることだけを考えていた。心底眠かったら「徒歩よりも効率の良い方法」で帰宅していただろうが、幸運にもそれを躊躇うだけの理性も残っていた。
思えば散々な一週間だった。
ふとした事で文彦の裏稼業を知ったクラス委員長の桐山沙穂は、図書室や友人達に借りたというオカルトの書籍を持ち出しては色々訊いてくる。訊いてくるだけでなく、ふらりと文彦が出かければその後を追いかけ「ねえ、また化け物退治?」と嬉しそうに言う。帰宅しても油断していたら電話をかけてきて、隙あらば家に押しかけかねない。自宅で飲食店を営む母はすっかり沙穂の名前を覚えてしまったし、小学生の妹は何故か不機嫌だ。
ああ。
自分が何をやったというのだ。普段通りに生活していたら、追試の四連続も大して苦労しなかったに違いあるまい。沙穂に知られて僅か一週間、文彦の生活はすっかり掻き乱されてしまった。馴染みの刑事は仕事で文彦に会えば「おや、今日は一人なのか」と意味ありげな笑みを浮かべるし、同級生達も事ある毎に「最近、桐山さんってオシャレになったよなあ」とか「お子様なのは見た目だけかよ文彦」と探りを入れてくる。
(みんなの誤解を解くのは、明日にしよう)
下校時間も近いし、ほとんどの生徒は帰宅している。
大会間近の運動部や、夏休み明けの学園祭を企画している各種委員会以外に残っているのは文彦のような追試生徒だけだ。
「帰ろう」
まずは帰ろう。そして眠る。電話がかかってきても気付かない、妹のご機嫌取りもしない、同級生の誘導尋問も無視する、警察からの依頼は……来ないことをひたすら祈ろう。諸々のことを考えると頭が痛い限りだが、それでも文彦は現実より逃避すべく玄関に到達し。
「村上、文彦さんですね」
玄関に立つ一人の少女の言葉に、文彦はその動きを止めた。
異人の血が混じっているのか淀みのない金茶の髪をポニーテールに結わえ、少しばかり吊り上がった瞳は太目の眉とあわせて意思の強さを感じさせる。制服は獅子と剣を組み合わせた校章を胸元に縫いつけたブラウスに臙脂色の棒ネクタイ。タータンチェックのスカートは落ち着きのある色調で全体的に気品を感じさせるのだが、程よく使い込まれた頑丈そうなトレッキングシューズが少女の性格を語っている。
北高校の生徒ではない。
市内どころか近隣各県にも名門として知られる青蘭女子、しかも中等部の生徒だと文彦は理解した。どこか狐を連想させる中学生の美少女(それでも文彦より頭半分ほど背が高い)は、腕を組み仁王立ちになって玄関にいる。普通中学生が高校に押しかけたら緊張しそうなものだが、この少女は背筋を伸ばし胸を張り、北高校の玄関すべてが我が物であるかのような堂々とした態度である。
「村上文彦さんですね?」
少女は文彦を見てそう言った。
鼻で哂いつつ。
小悪魔的というか無邪気ゆえの無敵さというか、そういうオーラを漂わせている。心身共に健全ならば男として声の一つでもかけてお近付きになりたいところだが、あいにく現在の文彦は睡眠欲が食欲と性欲を凌駕している状態だった。
「村上文彦さん、ですよね?」
「いいえ、僕は伊井田晋也です」
しれっとした顔で文彦は教室に居残っていた同級生の名を告げた。少女は硬直し、強張った表情のまま赤面する。恥ずかしいのだろうが、それを認めたくないという態度だ。
「そ、それでは村上さんはどこにいるのです」
「二年C組」
言うや少女は土足のまま校舎に侵入し、階段を一気に駆け上がる。雄叫びをあげながら。
(伊井田には明日謝っておこう)
とか思いつつ下駄箱の蓋を開こうとする。そろそろ吐き気もしてくる己の精神状態に不安を抱きつつ下足に手を伸ばすのだが、下駄箱の蓋は文彦の前で勝手に閉じた。
「村上くん、大変なの!」
振り返る前に文彦の腕を掴んで、沙穂が叫ぶ。逃す気も事情を聞く気も最初から無い。勉強熱心で同級生達の人望も篤い知的美女というイメージは、この一週間で完全に崩れてしまった。
「頼む、頼むから委員長……明日にしてくれねえか」
「駄目よ」きっぱりと、沙穂「たとえ地味でも世の中の怪異を片付けるのが村上くんの仕事でしょっ」
「……なあ委員長、すっげえ誤解とかしてねえか……」
「ぜーんぜんっ」
誤解とかそういう単語を耳にすると何故か不機嫌になる沙穂は、笑顔のまま額に青筋浮かべ、力尽きかけた文彦の腕を掴んでずるずると校舎の中へと引き戻していくのだった。
◇◇◇
「あなたが村上文彦ですねっ!」
ポニーテールの少女は勢いよく扉を開けると叫び、二年C組の教室に入った。
ずかずかと大股で歩くものだから金茶の髪は揺れ、リノリウムの床をトレッキングシューズが踏み鳴らす。背丈や幼い顔立ちや制服から、少女がどこぞの私立中学生徒だと即座に理解できる。が、彼女が北高の校舎に土足で侵入する事情を説明する材料はどこにもない。
いや。
(村上の関係者か)
自分に近付いてくる少女を見て、伊井田晋也は大体の事情を察した。
村上文彦という同級生がトラブルに巻き込まれやすい「体質」というのを晋也は理解している。たとえばクラス委員長の桐山沙穂が文彦に対して「夏前に!」と意気込んでいたのを晋也は知っていたし、十日ほど前に文彦が期末試験途中で突然早退した折には相談を受けている。果たして沙穂が目論見通り文彦に告白できたのか或いはどうにもならなかったのかについてはC組の男子一同が議論する事柄だったが、結果がどうであれ隠れ人気の高かった沙穂が文彦に接近しているという事実はC組どころか学年中の生徒にも知れ渡っている。最近の事柄に関しては期末試験後のハイテンションが沙穂を大胆にさせているのではないかと同級生の柄口や仲森たちは分析しているが、そもそも蒙古斑が消えたかどうかも怪しい文彦に対して沙穂が手出しできることは限られているだろうという意見で一致していた。
(もっとも村上の窮地に変わりはないか)
晋也の見立てでは、文彦は沙穂の好意にさえ気付いていない。沙穂もその辺を自覚しているから接触を繰り返し、既成事実を作ろうとしているのだろう・・・・・・もっとも沙穂が文彦を好きになった理由がはっきりしないので手出しのしようもなく、晋也としては事態の推移を黙って見守るつもりでいた。
その矢先に、これである。
ポニーテールの少女は肩をいからせ近付いてくる。少し頬を膨らませ眉を寄せたその顔は、実に可愛らしい。絶世の美女とかTVのタレントと比較するのはナンセンスだが、その年頃の少女にしか出せない生気に満ちていて実に魅力的だ。中学生では乳臭くて恋愛の対象にならないと主張する同級生もいたが、小学生に間違われることも少なくない文彦相手ならば「あり」ではないのかとも晋也は考える。
この少女に文彦への好意が存在していると仮定した場合だが。
「村上文彦ですね、言い逃れしようとしても無駄なんですからっ」
晋也の黙考を遮るかのように。
少女は晋也の間近まで接近していた。石鹸と、少しばかりの汗のにおい。その種の嗜好の持ち主ならばいきり立つところだろうが晋也はしかめっ面で目を伏せ、懐から自分の生徒手帳を差し出して返答とした。写真と割り印のついたそれは高校生の身分証明として公的に使用されているものであり、しかしながら偽造するメリットの小さい代物である。少女は恐る恐る晋也の手帳を受け取ってこれを開き、
「……伊井田、晋也さん?」
とだけ呟いて凍りつく。
(ああ、面白い反応だ)
そう思ったのでしばらく放置しておくことにした晋也だった。
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