沙穂と文彦(弐)




 それは何の変哲もない、早朝の交通事故現場だった。


 スピードを出しすぎたトラックがハンドルを取られて民家の壁に激突したというそれは、運転手も民家の住民もほとんど怪我を負わずに済むという比較的幸運な結果に終わった。

 民家の受けた損害は垣根の破損程度で、トラックの損傷もまたフロントバンパーを交換すれば問題ないという事だったので、夕方に地元CATV局のニュースで簡単に扱われるだけで終わることになる。繁華街から外れた場所のためか現場を撮影してSNSに投稿する者もなく、犬上市に住まう多くの者にとって記憶に残る事のない事故として扱われる筈だった。


 が。


 事故現場には犬上警察署が保有するパトカーの実に四割に相当する車輛が到着し、尋常ではない数の鑑識職員が動員されていた。

 トラックを含めて一帯に張り巡らされた非常線は厳重なものであり、交通課ではない部署の職員──そして警察関係者とは思えない制服の男たちがいた。彼らは壊された垣根やトラック部品には興味を示さず、砕けた道祖神を丹念に調べている。

 ガイガーカウンターのような測定器を近付けたり、あるいは古文書と思しき書類のコピーを束ね、石片と化した道祖神を囲んで警察関係者と彼らは深刻そうな表情で収集した情報を整理した。


「やはり封印でした」


 白衣を着た男が、石片の一つを手に結論付けた。石片には沢山の梵字が刻まれており、中央の曰くありげな五芒星が真っ二つに割れていた。測定器を割れた五芒星に近付けると安っぽい電子音と共にアナログの測定針が振り切れる。捜査員の大半がそれを見て「ああ」と呻き顔に手を当てた。

 この瞬間、彼らの週末予定は全て白紙になったのだ。


「誰だ民家に封印隠したのは」「知りませんよ。そもそも道祖神なんてベタすぎて一々調べようとしたら年間予算をあっという間に使い果たすからって放置されてた案件じゃないですか」「封印の種類から江戸中期以前の仕様と考えられます、腕の良い術師ですが様式は凡庸としか言いようがありません」「これ封印するための札とか用意できなくて最寄りの素材を流用したクチっすね」「でも不動産屋が報告を意図的に怠った可能性があります、そちら方面に捜査員を派遣しましょう」「それより逃げ出したヤツどうするんですか」


 愚痴めいた意見交換の後、どうするかと言葉が出て。

 捜査員たちは一斉に腕組みをして唸る。


「どうするかって言われても」


 どうすべきかは誰もが知っている。

 現場の責任者と思しき刑事が頭を掻きながら呟いた。


「俺が呼ぶのか」

「自分はテスト中に無理矢理呼び出して殴られました」

「俺が呼ぶのか」

「教育委員会は特例を認めないと言ってました、公休扱いにはできないそうです」

「俺が呼ぶのか」

「これで夏休みが補習で潰れたら警察からの依頼は二度と受けねえって泣き叫んでましたね」


 沈黙が生じた。

 この状況で呼ぶべき人材を選べるほど警察組織に余裕はない。荒っぽい案件ならばアテは幾つもあるが、これはそうじゃない・・・・・・と長年の勘が告げている。


「市民の生命健康財産の前には、いち高校生の夏休みなど大した問題ではない」


 おおーっ。


 捜査員全員が拍手して。

 刑事は己の携帯端末にいつもの番号を表示させた。




◇◇◇




 ほぼ同時刻の、県立北高校。


 犬上市においては中の上といったところの、まあ平凡な学校である。

 進学せず就職する生徒も少なくないし、短大や専門学校を含めて進学を真面目に考える生徒も半分以上いる。勉強熱心な生徒もいれば、そうでもない生徒もいる。そういう学校だから、早朝にクラブの朝練で汗を流す生徒も少なくない。秋に行う文化祭の企画で頑張る生徒もいる。


 言い換えれば夏休みも近い今の時分、早朝の教室に来る物好きな生徒は滅多にいない。

 そう、滅多に。


「……」


 村上文彦は早朝の教室で硬直していた。

 彼は犬上北高校で最も背が低く、童顔である。小学生に間違われることも一度や二度ではないし、教育実習生や臨時講師が着任時に職員室で事前に通達される事項となっている程。

 とはいえ彼は線の細い耽美な美少年ではなく、むしろ腕白小僧の雰囲気に近いというのが教師や生徒たちの評価だ。

 一学期の期末試験を「不幸なる事故」によって途中棄権した彼は、なんとか追試もしくは補習課題を獲得することで夏休期間中の補習授業を回避すべく早朝登校し職員室を訪ねていた。


「……」


 職員室で得られた回答は「課題はすべてクラス委員長の桐山に預けた」というものだった。

 教師陣としても、表立って言えない理由で頻繁に学校を休む生徒よりも品行方正な委員長を信用するのが当然である。一部の教師は予備の課題を渡してくれたが、大部分は彼女の手にある資料を回収するしかない。

 そして先刻まで誰もいなかった教室に戻ってみれば、件の桐山沙穂が文彦を待っていたのである。

 彼我の距離、およそ三メートル。


「昨日はありがとう、村上くん」


 文彦が口を開く前に、沙穂は笑顔でそう言った。

 社交辞令と言って差し支えない簡単な言葉の応酬だが、笑顔の裏に「絶対に説明してもらうわよ」という彼女の強い意志が見え隠れしている。


「俺、昨日は学校休んでたぞ」

「そうね。学校では会ってなかったわね」


 分厚い書類の束を取り出す沙穂。自分の机に置いて、そこに手を乗せる。君の求めるものはここにあるのよと、言葉に出さず伝え威嚇する。


「今朝もう一度、あの場所行ったの」


 あの場所とは?

 文彦は反応しない。迂闊な返事をすれば沙穂の言葉を肯定することになるからだ。彼女は文彦の反応など構わずに、言葉を続ける。


「コンクリートとアスファルトが一緒に切断されてたわ。とても滑らかな切り口で、まるで鏡みたい」


 と、五センチ立方に切り出されたコンクリート片を、積み重ねた書類の上に置いた。

 果たしてそれは沙穂が言うように、磨かれた大理石のように表面が滑らかで光沢を帯びていた。どんな機械を使えばこれほどまでに美しく滑らかにコンクリートを切断できるだろうかと、工事関係者たちならば首を傾げるに違いない。


「やっぱり夢じゃなかったの。あの道路も──この傷も」


 と。

 沙穂はセーラー服の右袖をめくって見せた。肩に近い右上腕に包帯がきつく巻きつけられ、僅かに血が滲んでいる。


「家に帰ってから気付いたの。すごい綺麗な切り口だったわ」

「ばか、怪我したなら早く言えよ委員長! アレで切った傷は、自然には塞がらないんだぞっ」


 自慢げに包帯を見せる沙穂に血相を変えた文彦は迫り、肘のあたりを掴む。人差し指で包帯を撫でるとカミソリを使ったかのように布が一気に切断され、綺麗な肌が露となる。傷口は全くない。包帯に染みついた血液は本物だが、その出処については言及してはいけないと本能レベルで察した文彦は絶句した。


「……委員長?」

「なあに、村上くん」


 こころなしか文彦は震えていたようだ。それが恐怖によるものではなく怒りに近い感情のために震えていると理解していた沙穂は、限りなく可愛らしい仕草で小首を傾げて見せた。


「傷は」

「とりあえず、ハッタリ。村上くんって、何だかんだいってクラスのみんなのこと放っておけない人だから」

「どうしても事情を説明しないといけないか?」

「私、クラス委員長だから」


 天使のような微笑に文彦はがっくりとうなだれる。

 文彦の携帯端末が鳴ったのは、その直後だった。





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