影法師 村上文彦

第一話 沙穂と文彦

沙穂と文彦(壱)



 それは夏休み前の、暑い夜のことだった。

 期末試験の途中で学校を早退しそのまま数日間学校を休んでいる同級生のため、桐山沙穂は沢山のプリントを学生鞄に詰め込んで歩いていた。


 白地に藍のラインを入れたセーラー服は他の女生徒のようにスカート丈を必要以上に短くしておらず、青磁色のスカーフもきっちり留めている。「吹奏楽は基礎体力が物を言う」という顧問の指導の下鍛えた身体は細からず太からずのラインを維持し、それでいて背筋を伸ばして歩く沙穂の姿には品がある。


 背中まで伸ばしたまっすぐの髪は脱色も染色もしておらず、いまどき珍しくヘアバンドでまとめている。セルフレームの眼鏡が髪型と相まって沙穂の生真面目さを強調し、まるで彼女が二十世紀の人間ではないかと錯覚さえ抱かせる。

 事実、沙穂は生真面目な生徒として認識されていた。


「こういうのは担任の仕事じゃないのか」


 と新米の生物教師は訝しがったが、沙穂は


「わたしクラス委員長ですから」


 と半ば強引に補習課題を集めた。件の同級生が棄権した試験科目はそれほど多くはなかったが、彼は普段より授業を休みがちだったので各教科の教師たちより多めの課題を受け取った。そこまでやってしまえばクラス委員長としての使命感を超える「何か」について誰か気付きそうなものだが、普段の沙穂の言動を知る教師たちは別段疑問を抱くことをしなかった。


 もちろんそれはクラス委員の義務ではない。

 しかしながら権利に違いはないと沙穂は考えている。素行上問題のある同級生を気遣い、なかば公務でその自宅を訪ねるのは仕事熱心なクラス委員長として当然の事であると。


(そうよ、これはクラス委員長としての仕事なの)


 そう己に言い聞かせた沙穂だが、普段よりも身だしなみに時間をかけデパート勤務の姉より香水を拝借し、もしも「彼」が病気で倒れていた時に備えてエプロンまで用意していた。同級生の家は母子家庭と聞いているから、仮に「彼」が病気で倒れていたとすれば沙穂の力が必要となるだろう。

 既に沙穂の頭の中では同級生は病に倒れ一人ぼっちで自宅に寝込んでいることが決定している。


(クラス委員長なんだから、それくらい当然よね)


 表情を全く変えず、沙穂は歩く。友達には「予備校で夏期講習の申し込みをしてくる」と言って別れたし、それくらいの嘘は許されるものと思っている。ただ、明るい内に同級生達に見られると恥ずかしいので彼女は日没を待った。図書館で他愛のない書籍を読み、行きつけの本屋で参考書を選び、東の空が濃い藍色に染まるのを確認して沙穂は同級生の家を目指した。足取りが少しばかり軽い事を自覚しながら。




◇◇◇




 彼の家は、少し遠い。

 住所録より家の場所を突き止めて沙穂はそう思った。駅から歩けば一時間近く要する郊外で、すぐ傍が大学の敷地である。バスに乗れば十数分の距離。沙穂は最寄のバス停で降りて歩いていた。大学近くの郊外だから辺りに店の数は少なく、車もあまり通っていない。自転車通学の学生達が時折通り過ぎるが、道を歩くのは沙穂一人だけだ。


 街灯もまばらで、道は暗闇に覆われている。彼女が通う高校のある駅前では滅多にお目にかかることのできない「本物の闇」が、そこにはあった。じっとりと湿気を含んだ空気のため蒸し暑いはずなのに、沙穂の背筋を冷たいものが伝う。


 ぞくり。


 予期せぬ震えに沙穂は驚く。鬱陶しいほどの蒸し暑さが、まるで感じられない。そのくせ制服が肌に張り付く嫌な感触はそのままで、不快さと不気味さが沙穂を包み込む。十六年間の人生で経験したことのない緊張が、それが本能的な恐怖に由来するものだと脳が理解するまで数分の時間を必要とした。


(何かが、いる?)


 肌が粟立ち、足がすくむ。身体が震え、歯の根がかみ合わずガチガチと鳴る。全身より噴出す汗は体力を奪い、それでいながら膝を落とすことさえ沙穂には出来なかった。


(何が……いるの?)


 外灯が照らすのは沙穂の足下まで、爪先より数メートル先は完全なる闇の領域である。

 進むことも退くこともかなわず、鞄を胸元に抱えるのが精一杯だ。動けば必ず何かが起こる、自分にとって致命的な何かが起こると頭の奥で何かが命じるのだ。沙穂は悲鳴を上げるのを必死に堪え、闇の奥を凝視した。


『ヒトはなにゆえ闇を恐れると思うかね』


 その闇より。

 かすれるような声が聞こえた。老人のような、幼児のような声。野獣の唸りのようで、しかしまごう事なき知性を感じさせる声。人にあらざる生命が、無理やり絞り出したような声だと沙穂は直感的に理解する。


『闇は人の視界を奪う、それもある』


 今度は沙穂の後ろから声が聞こえた。


『闇は未知への恐怖を象徴するから……というのもある』


 車道のある辺りより、声。


『だがヒトは本能的に知っているのだ』


 声は同一のものだった。しかし靴を鳴らす音も、何かが動く気配もない。五感すべてが麻痺する錯覚に襲われて沙穂は息を呑む。


『お前も分かるであろう、闇の奥より来たるものが。それがヒトの天敵であると、お前たちは理解しているのだ』


 理屈抜きでな。

 声の主は「重く長いもの」を引きずり、こちらに来ているようだった。ゆっくりと、アスファルトを引っ掻きながら沙穂に迫ろうとする声の主。


『我は、貴様の天敵なのだ』

「やかましい」


 唐突に。

 それこそ唐突に、不気味なる気配を打ち破るかのように叫び声が響く。怒気をはらんだ少年の声、殺意と呼ぶべき衝動を隠そうともしない叫びは鈍い打撲音を伴う。暗闇の中、かすれる声の主は弱弱しい悲鳴を漏らし、程なくして立て続けに打撲音と怒号が沙穂の耳に飛び込んでくる。


(……村上君?)


 打撲音は続く。

 例えて言えば、わざと急所を外し致命傷を避け鬱憤を晴らすべく全力で拳を叩きこんでいるようにも聞こえる。


「手前ぇが、門を、突破ぁ、するからっ! 俺は、期末試験の途中でっ、しかも徹夜で対策を練った数学の試験途中でッ、数学のッ、今回赤点だと夏休み補習決定ッなのに!!」


 肉が潰れ骨が砕け、闇の中より沙穂に迫っていた声の主は今や情けない悲鳴を上げている。


『ああああああひぃぃぃッ! し、尻尾はやめて下さいっ、ちぎらないで噛まないで踏まないで引き裂かないで焼かないでハウあうあうあうあうあうあうあうっ』

「うるせえ、チ●コみてえな尻尾振り回すんじゃねえっ。ちょっとばかり太くて長いからって自慢げに晒しやがって、モザイクに切り刻んでやる!」


 その叫びと共に。

 周囲のアスファルトが、コンクリート製の中央分離帯が賽の目に切断された。同時に、びちゃびちゃと「何か」が破裂して液体を撒き散らす。悲鳴はもう聞こえてこない。先刻感じたのとはまったく別の気まずい沈黙が、沙穂の動きを止めている。


「……村上…………文彦、くん?」

「い、委員長かっ!?」


 闇の中より聞こえる少年の声は明らかに狼狽していた。


「村上くん、村上くんよね!」


 今度は何の声も返ってこない。硬直が解けた沙穂は鞄を抱えたまま闇の向こう側へと駆け出す。

 と。


「──あら、早かったのね」


 唐突に闇は人工の光で打ち消された。

 冷房の効いた乾いた空気が沙穂の身体を包む。そこは彼女の家であり、母親がサラダボウルを抱えて夕食の支度を済ませている最中だった。


「風邪のお友達は元気だったの、沙穂?」

「……多分」


 それだけ呟いて、沙穂は意識を失った。





 運命の出遭いだったと、沙穂は後に語っている。





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