『偽りだらけの箱庭で』

@snow_03

『偽りだらけの箱庭で』

 この世界は嘘と欺瞞で溢れている。正直であれ、清くあれ、真っ当であれ。大人達からはそう言われていたはずなのに、いざ自分が大人になってみると、そんなのはただの詭弁であり、絵空事だったのだと思い知らされる。

 一度外に出掛ければ、平気な顔をして信号無視をして道路を渡る人を見掛け、ペットの後始末など知らぬと言わぬばかりに糞尿を放置してゆく無責任な飼い主がおり、電車の中でさえ、平気な顔をして長電話に興じる者とそれを見てみぬ振りをする者達。こんな常識すら知らぬ阿呆なんぞ見たくないと家に閉じ籠っていたとして、ニュースに報じられるのは年々被害を増す詐欺と特殊犯罪の数々。そして口先だけの大人の筆頭たる政治家達の五十歩百歩な汚職の罵り合いばかり。

 嘘と欺瞞に満ちたこの世界は、真っ黒な泥水が溢れんばかりに注がれた巨大な水槽なのだと思う。濁った汚水の中でも過ごす事が出来るのは、穢れた環境にも適応する事が出来る生き汚い者達だけ。

 こうして私達も世界にそうあるべきなのだと、言葉にするまでもなく思い知らされる。一人、また一人と嘘と欺瞞の世界に徐々に染められてゆくのだ。



 今日最後の『仕事』を終えて、迎えの車を待つ。帰りに奢って貰ったミネラルウォーターで酷使した喉を癒しながらスマホを弄り、大切なお客さん達に嘘偽りの言葉を振り撒いていく。

 社会に出た私は程無くして、この薄汚い世界の洗礼を浴びせ掛けられる事になった。右も左も分からぬままに騙し騙され、生き抜く為にはそうするしか道は無いのだと告げられ、いつしか騙す側に回っていた自分の今には呆れ果てている。

 何時からこうなってしまったんだ、何時までこうしているんだ。私は自分自身にそう問い掛けてみるが、一向にその答えが見える気配は無い。

 そんな事をぼんやりと考えながら夜の町に佇んでいると、向こうの角から見覚えのある車が見える。やがて車は私のすぐ側で止まり、スライド式のドアが開く。席には既に何人かの先客がおるが、皆一様にスマホに目を向けており、こちらに気を向けるものは居ない。飛び乗るように乗り込んでドアを閉めると、車はすぐに動き出す。むせ返るような強い香水の匂いが充満する社内は夜の町に比べれば幾分か静かだ。スマホのガラス面に爪が擦る音に混じって時折舌打ちが聞こえるのは最早慣れたものだ。

 暫く車に揺られていると、これまた見覚えしかないホテル街の側に車をつける。運転手であるマスク姿の若い男がハザードランプを炊くより早く、ドアを開けて我先に出ていく彼女らを尻目にスマホから顔を上げると、開けっ放しのドアを心なしか強く閉めた。


「ここで拾う人っているの?」


「いいえ、特別指示が無ければこのまま車を戻して別のスタッフに送迎を引き継ぎます。帰り道の途中なら最寄までお送りしましょうか?」


 運転席の他人行儀なその振る舞いに思わず吹き出す。彼の座る運転席をバシバシと叩いて、喉奥から漏れる笑いを必死に堪えた。


「……くくく、やっぱキミがアタシに敬語なの違和感凄いわ。誰も居ないんだし、気にしなくても良いじゃん」


「一応、仕事中なんですけどね」


「アタシが良いって言ってんの。ねぇ、送ってくれるんなら前乗って良いでしょ?」


 目尻に浮かぶ涙を拭い、彼の沈黙を肯定と受け取った私は足早に後部座席から助手席へと移る。ランプを消し、走り出した車の窓を少しだけ開けると、様々な香水の混じりあった蒸せ返るようなキツい匂いが徐々に車内から抜けてゆく。

 先程まで触っていたスマホと入れ替えるようにして、随分と軽くなっていた煙草の箱を取り出した。数度底を叩き、一向に出てこない煙草に業を煮やし、握り潰したところで中身が空だった事に気が付く。


「ねぇ、煙草無い? 向こうで吸ってたのが最後だったっぽくて」


 彼は無言のまま、ダッシュボードを指差す。ダッシュボードを開くと、煙草が一箱未開封のまま転がっていた。シュリンクを剥がし、仄かに香るバニラの香りを肺一杯に吸い込む。自然と口角が上がるのを感じて、笑みを溢す。


「お、ブラデビじゃん。キミやっぱ良い趣味してるよ」


「そりゃどうも」


 箱の底を人差し指で軽く叩いて飛び出した一本を咥えると、ジッポライターで火を灯す。手早くライターを閉じて鞄に放り込むと、ニコチンとタールを多量に含んだ有害な煙を窓の外に吐き出した。


「あ、キミも吸う? 人に吸わせるの結構得意だよ、アタシ」


 勿論、吸うのもね、と唇に指を当ててジョーク混じりに彼の太ももを撫でるようにして右手を這わせてみるが、彼は無表情のまま前だけを見据えていた。僅か一瞬だけ合った視線の先、濁りきったその瞳は少したりとも笑ってはいなかったので、流石におふざけが過ぎたかなと反省し、速やかに手を離して座席に深く腰掛けると、私はまた煙草を咥えた。

 夜の町は色とりどりの街灯に照らされて、眩しく煌めいている。かつては綺麗だと感じたはずのこの美しい光景も、今となっては欲望を誘き寄せる撒き餌のように思えてくるのだから、随分とこの社会に馴染んでいるなと思わず苦笑する。この世界は残酷で美しい、と誰かが言っていたけれど、私にはそうは思えなかった。何処までも世界は醜くて無慈悲だ。美しさはそれらを覆い隠す為のベールであり、一歩でも足を踏み入れたが最後、世界に綺麗なものなんてありはしないのだと理解してしまう。

 人の心だってそうだ、私も、私を買う客も、この関係は決して美しくなどない。誉められる事など有り得ない穢れきった醜い関係。それはお金という確かな価値によって強引に繋ぎ止められた縁。けれど、今の私にはそれが心地良い。友愛も恋も、人の情などという不可解で予測の出来ないあやふやなものに振り回されるくらいなら、いっそ無い方がマシだとすら思う。

 お金と価値が釣り合う内は嘘は真実にも成り得る。それはこの社会において幾度と無く繰り返されてきた不変の事実であり、嫌と言う程思い知らされた世界の不文律なのだ。


「……着いたぞ」


 淡々と事務的に告げる彼の声にふと顔を上げると、見慣れた安アパートの前に車は止まっていた。私はお礼を述べて車を降りる。静かに去っていく車を眺めた後、アパートとは反対の方向に向かって歩き出す。24時間営業のスーパーを通り過ぎ、全国チェーンのコンビニにふらっと立ち寄る。あれやこれやと適当に買い物籠に商品を放り込み、レジへと運ぶ。バイトらしい若い少年の拙い手つきを見ながら、帰り際にお客さんにチップとして貰った一万円札をトレイに置いて、会計を済ませる。お釣りをまとめて財布に突っ込むと、コンビニを後にしてアパートへと戻る。

 微妙な立地とそこそこの築年数、アパート内で起きたある事故のお陰でリノベーションがなされた室内は築年数の割には綺麗だ。部屋の広さも及第点であるが、一番有難いのはリノベーションの折に、バスルームの全面改装が行われているらしく築年数の割にいい設備が入っている事だ。

 荷物をキッチンの廊下に置き、手洗いもそこそこにしてお風呂にお湯を張る。お風呂が溜まるまでの間に、全身を使ったストレッチと軽めのエクササイズを行い、時間を潰す。

 お風呂へ行き、全身を念入りに2回に分けて洗い流すと、髪も同じように2度に分けて丁寧に洗う。身体を使う商売であるが故に、こうした日々の手入れと掃除は決して欠かさない。

 この仕事を始めた当初は無遠慮に触れられた箇所を削ぎ落とそうとするように、ずーっと洗っていた事もあったけれど、汚れていくのは身体ではなく、今を受け入れようとしている私の心であり、そんな事をしたって何の意味も無いんだという事に気が付いた。

 拒絶しようとする心を一つずつ機械的に潰していく事で、醜い欲望へとこの身を差し出す事に何の抵抗もなくなっていった。

 お湯に浸かり全身を温めると、逆上せる前に浴室で全身を拭き上げてから脱衣場に戻って来る。スキンケアと髪の毛の手入れを平行して行い、待ち時間を利用してキッチンに置き去りにしていた荷物を片付ける。ついでに鞄からスマホを出してきて、メッセージをくれているお客さん達への一つずつ欺くように返信していく。

 最後の一人にメッセージを打って、スマホをベッドに投げ出すと、コンビニで買ってきた値引きシール付のパスタをレンジに押し込んで温めを開始する。一緒に取り出した紙パック野菜ジュースをストローでチビチビと飲みながら、レンジのタイマーがゼロになるその時を待つ。時間を知らせる安物っぽい電子音が鳴り終わるより早くレンジの扉を開けると、十分に温まった容器を火傷しないようにリビングの中央に鎮座する折り畳みテーブルまで運ぶ。

 ベッドに転がっていたスマホを拾い、動画サイトで適当な動画を見ながらパスタを胃に詰め込んでいく。10分ほどで食べ終わったパスタの容器を再びキッチンに運び、キッチンペーパーで油分を拭き取るとさっと洗い流して、プラごみのゴミ箱へ放棄する。スマホでちらりと時間を確認すると0時を回ろうかという時間だった。

 昨今の物価高の影響か値段の割に量が少ないコンビニパスタだけでは微妙に足りないこの腹をどう満たそうかと考えている最中、玄関ドアがガチャガチャと鳴らされる。ややあって鍵が開けられると、つい数時間前に送ってくれた運転手の彼が、さも当然のように室内へと足を踏み入れようとして、私の姿をその瞳に写すとピタリと動きを止めた。


「あ、おかえり」


 ヒラヒラと手を振って彼を出迎えるが、油の切れた金属製品のようなぎこちない動きであらぬ方を向く彼に思わず私は首を傾げる。


「え、何々。ただのおかえりだよ? それより晩御飯何買ったの見せて見せてー」


 駆け寄ろうとした私の前に彼は片手を付き出し、無言で静止するように伝える。


「……いや、その前に服着ろ」


 彼の絞り出すような声に私は首をもう一度傾げた。


「いや、ここアタシの家ですけど? つーか、散々見てる癖に今更おボコぶるなっての」


 これが友達同士なら何も起こらなかったのかもしれないが、残念ながら私と彼は仕事の同僚以上の関係では無い。明確な利害関係の元に、この共生を続けている。私の望みを叶える為の対価として、彼にこの身体を使わせたのは一度や二度の事ではない。


「オレの家でもあるんだよ。 後、それとこれとは別だ」


 私達の間に生まれる僅かな沈黙の後に、溜め息をついて私は踵を返す。リビングから適当な肌着とシャツを身に纏い、脱衣場で手を洗っている彼の持ち帰ってきたレジ袋を漁る。スーパーの半額弁当に野菜ジュース、そしてカップアイスが二つと缶チューハイが一缶。相変わらず、私と彼は変なところでよく似ている。


「あ、アイスあるじゃん。一個貰って良い?」


「ご勝手に」


 投げやりな彼の声に小さく拳を握り、スプーンと共に一足先にリビングへと戻る。アイスの蓋を開き、そこへ容器の回りにびっしりとこびりついた霜を落とす。スプーンをまだ固いアイスに突き刺して、子削げとるようにチマチマと食べていると、遅れて彼もやって来る。私の真向かいに腰を下ろし、弁当を開けて黙々と口に運び始めた。


「キミ、明日もお昼くらいから出勤だったっけ?」


「いや、店長に頼んで早めに出勤させて貰う事にした」


「ありゃ、なんでさ」


「もう一個の方のバイト先、クビになった」


 私が知ってる限りでさえ、幾度と無く聞かされたその話に世知辛いねぇ、と声を掛ける。だが、特に気にした様子も無く、いつも通りだと言わんばかりに彼の方もコクリとだけ頷いて弁当を食べ進める。スプーンの腹で溶けだしたアイスをかき混ぜながら、時折口に運ぶ。甘ったるいバニラの香りと後味が僅かに舌先に残る。

 彼の事情を詳しく知っている訳ではないけれど、生きていくに当たって相当不便な立場にその身を置いている事は想像に難くない。そうでも無ければ、私と彼が出会う事など無かっただろうと確信出来るくらい彼は真っ当な人間だからだ。

 彼が席を立ち、弁当の後始末をしているその背後に私はそっと忍び寄る。洗い物を終え、同じようにプラごみのゴミ箱に弁当の容器を捨てると彼は背後の私に気が付いたらしく、振り返り怪訝な表情を浮かべていた。


「何だよ、アイスまだ食うのか?」


的外れな彼の言葉に頭を振る。


「いや何、可哀想なキミにサービスしてあげようかなと思ってさ」


 後、ここ暫くの細々した『お願い』のお礼も兼ねてかな、と彼のマスクをそっと剥がして、唇を軽く摘まむような軽いキス。

 だが、彼の表情は浮かないままだった。どうにか私の心意を図ろうとしているかのような困惑気味の顔。ポーカーフェイスの対極にある素直過ぎるその表情は、普段の私やお客さん達みたいな変幻自在の仮面を被った嘘付き達よりはよっぽど好感が持てる。

 少しだけ強引に彼の手を引いてリビングへと引きずり込むと、テーブルの上に置かれていたリモコンを操作し部屋の明かりを落とす。真っ暗になった室内はシンと静まり返って私達の呼吸の音だけが僅かに反響している。彼をベッドに押し倒し、情欲を煽るように扇情的に衣服を脱ぎ捨てた。キミに言われて着たけれど、あんまり意味無かったねぇ、と耳打ちしてそのまま耳を食む。

 触れるか触れないかの瀬戸際、壊れ物を扱うよりも優しく丁寧な手つきで、じっとりと全身を舐めるように撫で回す。擽ったいのか時折身を捩り、吐息を漏らす彼のその様に嗜虐心が湧き上がってくるのを感じる。覆い被さるようにして、彼の無防備な唇に再びキスを落とす。そのまま唇の隙間に滑り込ませるようにして私の舌を捩じ込み、押し返そうとしてくる彼の舌を絡めとって、唾液を吸い上げる。胸元をなぞる指をそっと移動させ、彼の下腹部に手を伸ばす。


「キミは何でも正直で良いね、ホント。性格も表情もそうだし、何よりこっちもね?」


 スーツのズボン越しにも伝わってくるその熱を指先で玩ぶ。悪かったな、とそっぽを向く彼のその表情もまた愛らしくて、私は思わず意地の悪い笑みを浮かべる。

 仕事でもどちらかと言えば、お客さんの方からあれやこれやと指示される事が多いので、こうしてほぼ一方的にイニシアチブを握っていられる事は珍しい。

 望むがままに、願うがままに、私は自身の秘めた欲望を満たす為だけに、彼へとこの身を差し出す。無理に心を殺して何処かに押し遣る必要も無い、私が私のままで居られる限られた一時。

 何もかもが正直な彼と違って、私とこの行為は嘘だらけだ。彼の為と嘯いて、この身体が欲する快楽の為に彼を利用している。薄汚い欲望に汚された身体と行為を塗り潰すように。対価と引き換えに誰にでも明け渡してしまうこの身体にも、自分自身が選び見初めた相手と重なる事だって出来るのだと、自らに言い聞かせるが如く。


 押し寄せる快楽の波に脳を焼かれながら、一際強くなる肉欲に従い、彼の身体を貪り食らう。彼に囁く愛の言葉も、私を求める彼の言葉も、何一つとして真実足り得るものなど在りはしない。やはり、この世界は嘘と欺瞞で満ちているのだと朧気な意識の中、私はそう思った。

 だからこそ私達はこんな風にただ汚れてゆく一方なのだ、と。

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