第33話「ずっと気になっていました。先輩の、右ポケットの中」
ボクは職場――『死神課』のオフィスに面した、いつものベランダにいた。
出入口の大きなガラス戸の向こうは今日も忙しい。大勢の同僚たちが書類を書き、パソコンと格闘し、電話を相手に
今日も現世では、いつものように誰かがどこかで死んでいる。たくさん、たくさん、たくさん……。
「――――――――」
そんな
無縁のことだったからだ。
何故なら、今、ボクは――。
「あれ」
後ろでガラス戸が開いて、いつもの黒いスーツにタイトスカートの先輩が顔を見せた。
「なんだお前、出勤していたのか」
相変わらずしゃべる度に、口にくわえた火が
「まだ特別休暇は三日も残ってるだろ。一週間休みをもらえたんだ。ゆっくりしてろよ」
「休んでます。ここで」
「職場に来て休むなよ。働かされるぞ」
「先輩……」
「うん?」
ボクの左隣に並び、手すりの
相変わらず
「――なんか、覚悟を決めていますっていう顔をしてるな……」
「はい」
「お願いがあるんだろう。聞いてやる。言ってみろ」
「ありがとうございます。――まずは、これを」
ボクは内側の胸ポケットから一通の封筒を取り出し、先輩に差し出した。
封筒の表には『退職願』と書かれていた。
「……やっぱりか……」
先輩はそれを左手で受け取った。右手はいつものように、スーツの右ポケットに突っ込まれて何かをまさぐっている。
「お前も回収は一件きりだったか。まあ、珍しくもないんだがな。半分は一件やり
左手で受け取ったそれを、先輩は左ポケットに差し込んだ。
「課長が残念がるな。お前も慣れればいい職員になれるって期待していたのに」
「すみません。勝手を言って」
「気にするな。仕方ないさ……みんなお前に同情してるよ」
「はい」
魂を回収する相手と、死に際の交流をしてしまった。その一部始終は
「あたしも
「はい」
「――まだなんか、ひとつ重大事があるっていう顔だな」
「ええ……」
ボクは
追い打ちのように示されたその封筒を、眉の角度を変えた先輩が受け取る。
「『現世転生要望書』……おい」
封筒の表から先輩がボクの顔に視線を移した。
「現世に戻りたいっていうのか?」
「先輩なら、それを受理されるようなツテを知っているんじゃないかと」
「まあ、知ってるさ。あたしはベテランなんだ。こいつはちょいと通すのが面倒だけど、あたしの
「はい」
「でも、そんなに急いで戻ることもないだろ?」
左手の封筒をひらひらとさせて先輩は言った。
右手はまだ、右ポケットの中をまさぐっている……。
「この世でしばらくゆっくりしていけよ。どうせ現世に戻らないといけない時は呼ばれて、強制的に転生させられるんだ。それまでのんびりしてりゃいいじゃないか。向こうに戻ってもわずらわしいだけだぞ」
「……この業務を続けていれば、呼ばれるのは遅くなりますからね……」
「うん?」
「ボクが回収した彼女の魂、もう浄化が終わったんです」
話題が急に進路変更されたことに、先輩の眉がさらに角度を変えた。額に大きな疑問符が張り付いたまま、先輩は
「きれいなもんだったらしいな。まあ、
言いながら先輩の目が宙を泳いでいる。違和感を覚えたけれどもそれを捕まえられない、という目の動きだった。
「それでもう、早々に現世に戻ることに決まったんです」
「……早いな。普通はもう少し時間がかかるもんだけど……おい、ちょっと待て」
何秒か、先輩が息を止めたのがわかった。
「どうして魂の浄化の状況を……いや、復帰のタイミングを知ってるんだ。それは魂管理局のデータセンターに納められている第一級の機密情報のはずだぞ。このオフィスじゃ課長の端末からでしかアクセスできないのに、どうしてお前が……」
「昨日の夜、オフィスに忍び込んで、課長の端末からアクセスしましたから」
「おい!!」
ガラス戸の向こうの人の動きには
「……課長の端末のパスワードはどうやって突破した! 一〇四
「その一〇四桁のパスワード、課長の端末のモニタに貼り付けてありますよ、
「覚えられるわけないよな」
ふうう、と先輩の口から息が
「あんのハゲ課長にも困ったもんだ。お前、アクセスの件は死んでも口にするなよ。あたしが巻き添えになる」
「もう死んでますけどね、ボクたち」
「死んでからキツい目には遭いたくないだろうが、バカ」
「すみません」
「しかし、あの彼女の魂が復帰するタイミングを知って、お前も復帰しようとする……」
ポケットに入れられない二通目の封筒を眺め、ハッと先輩は視線をボクの顔に移した。
「まさか、お前……」
「はい」
ボクは、うなずいた。
覚悟と一緒に、うなずいた。
「彼女を追おうと思います」
先輩の顔色から瞬間、色の全てが飛んだ。
「今、それの受理を先輩にしてもらえれば、彼女と同じタイミングで現世に戻れます。――追わなければ、彼女に
「――――――――」
先輩が、絶句していた。
ただ、内心の驚きの揺れを示すかのように、くわえているタバコの先が震えていた。
「……お前……」
「彼女と約束しました。また、逢おうねって。……ボクが追わないことには、彼女と同じ舞台に立たないことには、話は始まりません。だから、そのために」
「やめておけよ」
先輩の口から長い時間を
「やめておいた方がいい。確率からして逢えっこないんだ。砂浜に置かれた砂金の一粒を探し出すようなもんだ。しかも、砂金のことは忘れてるっていうのに……いいか?」
先輩のポケットの中の右手の動きが速くなる。
「言っとくぞ。お前だって、この死後世界の記憶を持って転生はできないんだ。みんな忘れちまうんだ。そもそも相手だってお前のことを覚えちゃいない。何か奇跡的な偶然が重なって重なって重なって、
先輩の口調が速くなっていく。自分の中に湧き上がる感情を整理できないように。
理由は、わかる。知っている。
秘密は多分、その右ポケットにあるんだ。
「無理なんだよ。お前が言ってるのは無駄な思い込みだ。そんなのは、早くに忘れた方がいいんだよ。
忘れちまえ。
自分に自分で呪いをかけるな。今すぐ忘れちまって、新しい気持ちで……」
「――なら」
ボクは先輩の目を見つめた。
誰もがセクシーだと
「――なら、どうして先輩は、忘れようとしないんですか……」
ひくっ、という先輩の息が、喉の震えが聞こえた。
「ずっと気になっていました。先輩の、右ポケットの中」
ポケットの中の先輩の右手の動きが、止まった。
「そのポケットの中に入っているものを、出してください。――お願いします」
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