第32話「またね」
空にはまだ、赤い残影がある。
浜を赤く染めていた光は絶えて暗がりが下りたけど、完全な闇じゃない。
まだ薄明るい。地球の丸みの向こうに消えた太陽がまだ、空に光を放っているからだ。
だけど、それは言い訳にはならなかった。
夕日が、完全に没するまで。与えられた力は、それまで。
それは、絶対的な約束だったからだ。
「ふ、ぅ、あ……!」
「――し、お、り……!」
「は……始まったみたい……」
今までの
「あ、は、はは……」
心そのものにねじれが加えられているのではないかという震え、
「死神、さん」
歯の根も合わない
痛いだろうに。太い針を体の内側から何十本と突き立てられる痛みがあるだろうに。
それでも、彼女は笑っていた。苦痛を見せまいと、笑っていた。
「私、笑ってるから……」
ボクの涙の粒が、いっそう、大きくあふれた。
「最後まで、笑ってるから。信じて。信じて、私を抱きしめて。
ぎゅっと、強く、私を抱きしめて……」
「ああ……ああ!」
彼女の肩に喉を乗せるようにボクは、彼女の全てを体に押しつけ、取り込んでしまうかのように、背中に手を回して、力の限りに抱いた。抱きしめた。
ボクの肩に喉を当てた栞の顔は、見えない。
でも、ボクは信じた。
彼女は微笑んでいるだろう。彼女は笑っているだろう。
彼女らしく、笑っているだろう、と――。
「いたくない……いたくないよ……」
「うん、うん……」
ボクは、泣いた。彼女を抱きしめて、泣くしかできなかった。
痛くない――そんなはずは、ない。
痛いだろう。叫びたくなるくらい痛いだろう。
でも、彼女は痛くないと言う。そう訴えている。
なら、ボクはそれを信じたかった。
こんな彼女に、苦しみは似合わないからだ――。
「私……わたし……幸せだった……しあわせよ……」
「栞、好きだよ。ずっと好きだ。キミが死んでも、ずっと……」
「あ……あ、り、がとう……」
胸で感じる彼女の心音が、ゆっくりと、しかし確実に一歩、一歩、小さくなっていく。
鳴り響く残響が弱まっていくように。
無理もない。今、彼女が生きているのは、
「ふ……く……ふ、あ、あは……はは……」
栞の手も、腕も、ボクの背を捕らえている。しがみつくようにつかんでいる。
最後の生にすがりつくように固く、震える指で、爪を立てるように。
それでキミの命が続くのなら、爪が背に食い込んでもいい。血が
「あ……あはは、は……。へっちゃら、だ、よーだ……」
「うん……うん、うん……」
痛いだろう、栞。
でも、でもボクは、キミに一瞬でも長く抱かれたい。一瞬でも長くキミを抱いていたい。
そのぬくもりを感じていたい。少しでも、少しでも感じていたい。
早く彼女の痛みが、苦しみが終わってほしいという気持ちと背を合わせるように、そんな残酷な気持ちがボクの体を震わせていた。
もう、波にさらわれる砂の城のように
「あ……ああ……」
彼女の声が、変調した。
「な……なんか……ら――楽に、なってきた……わ……」
心音が遠ざかり、ぬくもりがうすらいでいく。
「気持ちいい……体が、ふわっとする感じ……あ、はは、は……」
「栞……!」
「死神さん……好きよ……大好き……ずっと、ずっと、ずっと好き……」
ボクの肩に
耳の側で息を求めて揺れる喉が、空気をつかめなくなっていくのがわかる。
腕の中で、少女の全てが、
「あり、がとう……私の死神さん……私のところに来てくれて……」
「ああ、ああ、ああ……!」
「し……しに、死神さん……」
最後の息で。
肺に残った最後の空気と、心臓が送った最後の脈動と、揺らめく最後の心の火で。
「あ……は、は……」
彼女は、
「――また、ね……」
ボクの背中に回された彼女の腕から、すうっと、力が抜けた。手が、ボクの背筋をなぞって、落ちた。
「……栞?」
少女の体を
「栞、栞……」
呼びかける。彼女の体を離し、顔をのぞき込んだ。
「し、お、り……」
栞が、微笑んでいた。
目を閉じ、口元にあの優しい微笑みを浮かべて、笑っていた。
いつもの、彼女らしい、可愛い微笑みだった。
まるで、あたたかな布団にくるまれ、穏やかな眠りの中で、幸せな夢を見ているかのような――。
「うわ……あ……」
栞は、死んだ。
「う、わあ、ああ、あああ…………!!」
体の中で、心の全てがうねった。
わかりきった、知れきった結末にたどり着いただけだというのに。
その事実を受け止められなくて。手の中にある彼女の軽い体が、重すぎて。
体をつないでいる全ての力がなくなったかのような錯覚が、ボクの心を凍えさせた。
皮膚も、肉も、骨も、内臓――細胞と細胞の間にある結合の力、心を支えている力さえもが消え去って、ボクの存在を
「く、あ、ぁぁぁぁ……ああ、あああ、ああああ…………!!」
痛い。痛すぎる。
氷の針を伴う吹雪に身も心も
すぅぅぅ……。
「あ、あ…………!?」
涙の滝を流すボクの視界の中で、物言わなくなった栞の喉の下で、白い輝きが灯った。
それは彼女の肌の下から
「こ……これは……」
栞の体をゆっくりと横たえ、ボクは透明の丸いカプセルを取り出す。その光の
カプセルを閉じ、二つ着いているプラスチックのタグのひとつを外して、握り込んだ。
「ああ……これが……これが、彼女の……」
手のカプセルの中で、やさしい星のように輝く光を眺めて、ボクは違う色の涙を流した。
きれいだった。
純白のシルクの色に透き通った、本当にきれいな光だった。
「彼女の……栞の魂なんだ……」
そうだ。
ボクはこれを取りに、回収しに来たんだ。
それがボクたちの、『死神課』の仕事なんだ。
これを回収するために、ボクは、彼女と……。
「…………あ……」
ザッ、と背中の遠くでした気配にボクは、振り向いた。
海の反対側、遠くの防砂林の端――最も海側の暗い景色の中、一本の松の木にもたれるようにして立っている、黒い女性もののスーツ姿の人影があった。
真っ赤なハイヒールだけが鮮やかな色を見せたその人影は、遠いのに、何故かその表情まではっきりと認めることができた。
「先輩……」
「――――」
口の端に火の着いていないタバコをくわえている先輩は、その目元に
哀悼の眼差しだけを残影として置き、先輩は、防砂林の向こうに行ってしまった。
ドーン……ドーン……。
「あ…………」
遠くで空気を重く
夕日の名残も消え失せた空に、黄金の色をきらめかせる大きな花火の輪が輝いていた。
空と海と陸の境界も見えなくなった暗闇の中で、炎の
花火を打ち上げている――花火大会なのか、ボクが見上げている空の全部を埋め尽くそうという勢いで、それは夜空に広々とした向日葵畑を作り出していた。
きれいな、美しい炎の向日葵が闇に咲き誇る度に、浜のボクたちも照らし出される。人の手で闇を払おうと
でも。
それが本当にきらびやかで、きれいで、美しくて、きれいで、美しくて、儚くて……。
「あ、はは、はは……」
ボクは笑った。震える顔で、笑って、泣いた。
「ボ……ボクも、先輩のことを言えないな……。もう少し下調べをしていたら、この花火をキミと
ボクの手のカプセルの中で、白い光がすぅ、すぅと跳ね回る。
まるで、
「見えるのかい……? あの花火が……」
カプセルを
「ああ……見えるんだね……。きれいだ……本当にきれいだよね……」
夜空に赤、青、緑の華が咲く。いくつもいくつもいくつも咲く。
それがひとつ咲く度に天が、地が、海が
「この花火を、最後まで観ていよう……。
それまで、ボクとキミとの、ふたりきりだよ。
この砂浜は、ボクたちの特等席なんだから……」
ボクは、この花火が全てが終わった空に轟く理由を、知った。
これは、ボクと彼女の恋が終わったことを、告げる花火なんだ。
そして、ボクと彼女との新しい恋が始まったことを、告げる花火なんだ――。
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