第31話「生まれてきて、生きてきて、よかった」

 少女の腕がボクの体を、心を拘束していた。鎖でつなぐように縛り付けていた。

 この場を駆け出そうとしていた衝動が、しおりの細い腕によって止められる。

 ボクにすがりついて震える彼女の体が、ボクの腕の中にあった。


「いいの。――見て、死神さん。本当に……きれいな夕日よ……」


 涙をあふれさせる彼女の眼差しが、白に近い金の色に輝く光輪の方角に流れる。

 白い肌も、黒い髪も、純白のワンピースも、そして涙までもが、朱に金の色を混ぜた光に染め上げられていた。


「素敵じゃないの。こんな夕日をふたりで眺めて、好きな人に抱きしめられて、終わることができるのよ……」


 腕の中の彼女が、こちらを向く。あおぐようにボクの瞳をのぞき込む。

 今、世界でいちばん美しいものである少女の眼が、熱く、熱くけながら濡れ、揺れ、優しい海をその黒の瞳の中にたたえていた。


「私が持っていた小説、短編ばかりだったでしょう」


 ……そうだ。そうだった。


「長編小説は、いやだった。長い物語はいやだった。だって、私自身の物語はこんなに短いのだもの」


 可憐かれんで、さびしい笑みがそこにあった。


「たった十六年と、ちょっと。何のために生まれてきたか、わからない人生だもの」

「し……お、り……」


 たぷんと、ポンプで汲み上げられたかのような大きな涙が目から零れて、熱いしずくとなってボクのほおを転がり落ちた。

 眼の奥から、心の奥から湧き上がる重い涙を、押しとどめられない。


「私、自分の人生が、いやだった。本当にいやだった。

 生まれてきてから、したいこともできず、行きたいところにも行けず、ただ、死ぬのを待つだけの人生。こんな人生に何の意味があるのかって思ってた。

 ずっとずっと、思っていた。――死神さん」


 一拍いっぱくの間が空いて、彼女の口元が、ほころんだ。


「あなたとうまでは……」

「ボクと……逢うまで……?」

「――そう」


 彼女が、微笑ほほえんでいた。

 今日の太陽が浴びせかける最後の光をその顔に受けて、微笑んでいた。


「私、わかった。

 自分が生きてきた意味がわかったの。

 私の人生は、死神さん……あなたに逢うためにあったのよ」


 あ…………。


「あなたが、私に生きる意味をくれたの。生きた意味をくれたの。

 私は十六年と少しを、あなたに逢うために生きてきたんだって。

 あなたに逢うために生まれてきたんだって……。

 決して無駄な人生なんかじゃなかったんだって……。

 だから私、生まれてきて、よかった。

 生きてきて、よかった。

 本当の本当に、そう思うのよ……」


 真実の光を浮かべて、彼女がボクを優しく見つめていた。

 ボクと同じように、その瞳を熱く、熱く、熱くにじませて。

 幾筋の涙を流しながら、ボクの心の深奥を見つめてきていた。


「だから、死神さん、お願い。

 ここにいて。

 私の物語が終わるまで、ちゃんと、素晴らしい結末を迎えるまで、こうしていて。

 私のことを、少しでも好きだと思ってくれているのなら、こうしていて。

 最後まで、こうしていて……」

「少しでも、だ、なんて……」


 心の震えが体を震えさせて、止まらない。喉の奥から嗚咽おえつが昇ってきて、おさえられない。

 体を張り裂けさせるこの思いをとどめるには、彼女を抱きしめるしかなかった。


「好きだよ。いいや、大好きだよ」


 太陽が、水平線に着地する。そのまばゆい輪の輪郭りんかくを、空と海との境界線に接させる。

 真円の形が、ゆっくりと崩れて行く。


「ボクはキミに恋をしてるんだ。あの日、キミが初めてボクを見つけた時から、ずっと。だから、だからボクはもう、この涙を止められないんだ……」

「ありがとう。そして、ごめんなさい。あなたのことを死神だなんて呼んでしまって……。黒いスーツに死神のワッペンをつけていても、あなたは私の天使だったもの。……天使さんって呼び直した方が、いい?」

「死神でいいよ。もう、慣れちゃったから……いまさら、天使なんて呼ばれてもくすぐったいだけさ……」

「――ありがとう、私の死神さん」


 彼女の心が、体が。

 拳のひとつ分の距離を。

 前に、傾いた。


「――あ…………」


 彼女の存在の全てが迫って、彼女のやわらかくあたたかな唇が、

 ボクの唇に、

 触れた。


 ほんの数秒の、ふれあい。

 でもそれは、永遠と思えるほどの長い、長い数秒だった。


「――あはは!」


 唇を、顔を離した彼女が、はしゃぐように笑っていた。涙の粒をこぼしながら。


「私の最後の夢、かなった! 大好きな男の子に、自分からキスをする夢! ――ずっと、したいと思っていたの。うれしい……!」


 涙の向こうで、彼女が無邪気に笑っている。

 心の全部が激しく震え、キリキリときしみ、声のない悲鳴を上げる中で。

 彼女が見せる表情の全部を見ていたいから、ボクは、瞬きのひとつもしなかった。


「だ……だめじゃないか……。キスする時は、相手に、了解を求めないと……」

「ごめんなさい。私のわがまま、許して。――これが、最後のわがままだから……」

「し……仕方のない女の子だなぁ……」

「あはは……」


 ボクは、彼女は、再びたがいを抱き寄せた。最後の最後まで、そうするために。


「ああ……」


 無言でふたり、海に視線を向けた。

 太い水平線が分けた空を、海を、焼けただれるような茜色あかねいろがす夕日が沈む。沈んでいく。


 明日の領域に向かって、向こう側へ潜っていく。半円が半円でなくなり、じわじわと、動きが目で追えるように輝きが行ってしまう。


「あは……は……」


 隙間がなくなるくらいに抱き合い、顔の半面をそれぞれに向けて、ボクたちは見送る。

 涙の向こうで、最後の明かりが消えようとしている。


「死神さん、私の体は……ここに、寝かせてね……」

「ここに……?」

「明日、朝になれば誰かがここを通りかかって、見つけてくれるわ」


 見つける……。


「その間、一晩中、潮の声を聞いていたい。朝日の光を浴びてみたい……お願いを、聞いてくれる……?」

「ああ……」


 それが、キミの望みであれば。

 死んだ後も、海の声を聞いていたいのだというのであれば。


「わかった……」

「――ありがとう。好きよ、死神さん……」


 炎の円の残りが、なくなろうとしている。あんなに明るかった赤い夕焼けが、その鮮やかさをなくしている。

 もう、もう、もう、全てが、消えてしまう――。


「――ね。最後に、最後にひとつだけ、確認させて……」

「……なにを……?」

「私、生まれ変われるの……?」


 …………。


「死んだら、生まれ変わることができるの……?」

「で……」


 ボクは、微笑んだ。

 微笑もうとした。微笑んだつもりだった。


「できるさ……」


 微笑めたかどうか、自信がなかったけれど。

 ボクは精一杯、微笑みたいと思った。


「そのために、ボクたちは魂を集めているんだ……。

 キミは、生まれ変われる。

 死神が言うんだから、間違いないよ……」

「死神さんも、生まれ変わるのよね……?」

「もちろんさ……ボクもいずれは、生まれ変わる……言っただろう……?」

「じゃあ、また、逢えるね」


 ……あ……。


「ふたりが生まれ変わったら、生まれ変わった先で、また、逢えるじゃない……」

「――でも、記憶も何もかも消されて、姿も変わるんだ。もし奇跡的にすれ違ったとしても、見つけられるはずが……」

「見つけられるわ」


 その声の透き通った音色に、言葉の響きに、ボクの心が真っ白になった。


「見つけられる。必ず見つけられる。

 だって私、見えないはずのあなたが見えたのよ……。

 それに、私、あなたのことを忘れない。

 たとえ記憶を消されたとしても、忘れない。

 今、あなたのことを、あなたの心を、魂に刻み込んだもの……。

 その魂の傷を追って、あなたを探すわ。

 あなたと出逢うまで、何回でも、何回でも生まれ変わる。

 だから、死神さん。

 あなたも、私のことを覚えて。魂に刻み込んで。

 そして、いつか私が、あなたのことを見つけたら、

 私のことを、思い出して――」


 …………。


「わ……わかった……」


 それは、永遠の呪いだ。

 未来永劫みらいえいごうにボクを縛り付けるであろう、呪いだった。

 でも、それを断ることなんか、できるはずがない。


「約束……ね……?」

「約束……約束するよ……」


 ボクは、うなずいた。受け入れた。

 決して破ることが許されない、いや、破ることなどできることのない約束を。


「ありがとう……」


 彼女が悲しく、切なく、しかし喜びに満ちた美しい微笑みを浮かべたと、同時に。

 ――太陽が、完全に、消えた。


 そして。


 彼女の最期が、始まった。

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