第30話「短編のような、私の、物語」

 今日という一日の幕を引くように、時計の分針が回るのと同じ速度で、西日が水平線に向かって落ちていく。

 あの太陽はもう、上がるどころか止まることさえしない。


 水が高きから低きに流れるのを止められないように、ゆっくり、ゆっくりと沈んでいく。

 潮の声と共に波が押し寄せ、ボクたちの足元をわずかに濡らし引いていく、そのひとつの動作が繰り返し、繰り返される間に、わずかに、少しずつ、確実に、引かれていく。


「――――――――」


 ボクの心臓が弾むように動いている。胃の底が冷たくきつく締め付けられ、息が、喉が詰まる感覚がボクの中身を縛る。

 そんなボクと腕と腕を合わせ、しおりは、ボクの肩にほおを乗せるように体を傾けていた。


 ここは、本当にふたりだけの世界だった。他人が立ち入られる領域ではなかった。

 完全に閉ざされたふたりだけの世界に、ボクたちはいた。


「きれいね……」


 もう、あの黄金の輪が黒く太い水平線に尻を着けるまで、十分もないだろうというのに。

 彼女のそれを見つめる顔は、目は、表情は、落ち着いていた――見なくても、わかる。

 き通った声の色だけで、彼女の顔の色も、心の色もわかる。手に取るように。


 この瞬間、彼女は、世界でもっとも美しいものを今、の当たりにしているかのように、幸せそうだった。


「――なんで……」


 何故、どうして、どうしてなんだ。

 どうしてキミは、そんな安らいだ、穏やかな面持おももちであの夕日を眺められるんだ。

 あれは文字通りの、キミの命の日時計なんだ。


 あの太陽が水平線の彼方に沈みきった時、キミの死は始まる。

 息を止められ、窒息するまでのわずかな間しか、キミは生きられないだろう。

 それをキミは知っているはずなのに。忘れているわけはないのに。


「死神さん」


 優しい声音が、ボクの耳元でさえずられた。


「ずっと、変だと思っていたでしょ」

「……何を……?」

「なんで、私が死ぬのを怖がっていないのか」


 息の形が見えるのではないかという近くで、彼女がこちらを見ていた。

 心を、見透みすかされたような、いや、見透かされた気がした。

 その優しい微笑みが圧倒的な気配になって、ボクの心を捕らえる。


「そうでしょ?」

「……そうだね……」


 そうだ。

 ずっと変だと思っていた。

 彼女が、死を恐れる素振りを、ただの一度も見せなかったことが。


「私、ずっと死ぬのを怖がっていたわ……」


 ――え?

 ボクは瞬いた。心臓が揺れた回数だけ瞬いた。


「怖かった。中学に入る前に『あなたは大人になるまで生きられません』って言われて、病院に連れて行かれて。そのうち、大人になるまでが四年先、二年先になって、今年に入ったら『もう来年の冬は迎えられない』と言われたわ」


 命の終わりが、縮められる。二十歳ぎりぎりまでの命のはずが、一年、二年、三年と短くなっていく。


「私、荒れたわ」


 自分が遺してきた足跡の列を思い返すように、


「最初、病院に入れられた時は相部屋の病室だったんだけど……私があんまり泣いて泣いて、周りに八つ当たりするものだから、個室に移されて……。私の病室の両隣の患者さん、もう自分で立てずに寝ているだけのお年寄りなのよ。知らなかった?」


 知らなかった……。


「お父さんやお母さんにも当たったわ。どうしてこんな弱い体に生んだのか、って。子どもの頃から大して何もできず、大人になれずに死ぬくらいなら生んでくれない方がよかった、生まれたくなんかなかったって、散々当てこすったわ。ひどい娘よね……」

「そんな……」


 無理はない。無理があるはずがない。

 生まれてきたのに何もできず、短い生をなげき、死んでいくだけに一生があるとすれば。

 それに幼い心が耐えられるはずはない。


「私の癇癪かんしゃくのせいでお父さんとお母さんも離婚して……お父さんの足も遠退とおのいて……。死神さんが初めて来た時、すぐ後に入って来た看護師の女の人、松阪さん。覚えてる?」

「あ、うん、ああ……」


 普通の人にはボクが見えないことの証明になってくれた、女の看護師さんだ。

 病院を抜け出した今朝も、廊下ろうかですれ違った。栞は頭を下げて『ごめんなさい』と言っていたはすだ。


「あの人、私の担当にされてしまって……もう私が誰かと会うのは医師の先生がたまに、毎日はあの松阪さんしかいなかったから、私はあの人にも当たってしまって……。あの日、私のことを『今日は機嫌がいいのね』って、言っていたでしょ?」

「確かに……」


 突然、高層階の窓の外から入ってきたボクの存在にきょとんとしているだけの栞を、『機嫌がいい』と言ったことに違和感は覚えていた。

 そういうことだったのか……。


「でも、それならどうして」


 ボクに、死を恐れている素振りを見せなかったのか。


「――あなたを一目見て、『怖い』っていう思いが、吹き飛んじゃったのよ」


 あはは、と笑って、彼女は言った。


「死神さんが来たのなら、私もう、今死んじゃうんだ、って。すぐに死んじゃうんだって。それで死神さんが『――今すぐ、死んでくれない?』なんて言うんだもの」


 笑いながら彼女はいう。ボクもつられて笑ってしまう。

 もう、残り時間もないというこの状況の中で、笑ってしまう――。


「私もう、頭がなんか白くなっちゃって、『いいけど?』って言ってしまったのよ」

「勢いだったのか、あれは……」

「不思議ね……あんなに死ぬのが怖かったのに、あなたと会って話をしたら、怖くなくなっちゃうんだもの」

「どうしてだと、思う……?」

「死神さんが、死後の世界から来た死神さんだったから、かな」


 あ……。


「死んでも、続きがあるんだって。死んでも全部が終わりじゃないんだって。そうわかったら、今まで怖かったのがすぅっと抜けちゃって……。……もっと早く知っていれば、私、もっと穏やかに過ごせていたのに。それはちょっと、後悔かな……」

「…………」

「でも、いいの」


 顔にかかったわずかな影を、彼女は微笑みで払った。


「私、もう、何も悲しくない。満足なの。

 やりたいこと、やれたから。

 一日中、この海で思い切り遊ぶ。

 ずっとしたかったこと、できたから。

 ――死神さんのおかげなのよ……」

「そんな……」


 たった一日。たった一日を海で遊ぶ。そんな、誰もが当たり前にできることを。

 そんなことができただけで、満足なのか。

 それは悲しすぎることじゃないのか。


 キミはもっと遊べるはずだ。

 まだ続く夏の日を、海岸を駆け回って、海原を泳いで遊べるはずなんだ。

 いっぱいいっぱい、笑って、はしゃいで、喜んで、よろこんで――。


「いやだ……」

「えっ?」


 それはボクの声ではなく、ボクの心がきしんだ音だった。

 ボクのにじみきった視界の中で、太陽が引きずられていく。

 もう、水平線に着地、いや、着水しようとしている。


 もう、何分もない。着地してしまったら、三分と経たずにあの日は明日に消えてしまう。

 栞という名の少女には与えられることのない、明日に。


「いやだ……ボクは……」

「死神さん」

「嫌なんだ、ボクは!」


 ボクは彼女に向き直り、その細い肩を両手でつかんだ。


「キミは生きなきゃならない! ボクは、ボクはキミにもっと生きていて欲しいんだ!」


 自分でも何を言っているのかわからない。湧き上がる想いだけがボクの口をかせる。


「今なら……今なら、まだどうにかできるかも知れない! あの太陽が沈みきる前に、何とかしてみせる!」 だから!!」

「待って!!」


 彼女の肩を放し、飛び出そうとしたボクに。

 間髪入れず、彼女が抱きついた。


「いいの!!」


 ボクは振り返ることもできず、膝を上げることもできなかった。

 決して行かせまいとする彼女の力に圧されて、その場に押しとどめられた。


「いいの!! ここにいて!!」

「でも!!」

「ありがとう、死神さん!! でも、いいの!!」


 彼女の顔が胸に押しつけられる。その表情は見えない。

 しかし声の震えと、抱きしめてくる腕の力と、胸に当てられる涙の熱さが、彼女の気持ちの強さを伝えていた。


「ここでいいの!! 私の物語は、ここで終わりでいいの!!

 お願い!!

 短編のような私の物語を、ここで終わらせてほしいの!!」

「あ……あ……」


 ――短編のような、物語。

 涙の幕で熱くけた視界の中で、泣いた栞がそう訴えていた。


「短編のような、キミの、物語……」


 さして厚くもない文庫本を愛おしげに読んでいた彼女の姿が、脳裏をかすめた。


「短編のような、キミの人生の、物語……」


 その言葉がボクの心の中で反響し、ぶつかり合って、ボクの体を内側から打ち破ろうとしていた。

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