第26話「ビーチバレーしたい! 楽しそう!」

 再び海に入った彼女が、波と波の隙間すきまをすり抜けるようにしてその細い体を流す。

 クロールで前に大きく伸ばす腕、息を吸うために体をかたむける回転、しなやかに水をたたくいて反動を得る脚――全ての動きがみ合って、躍動やくどうする。


「そうそう、上手い上手い」


 海面が腹に来るかどうかという水深に立つボクは、すべるように泳ぐ彼女にクロールのリズムを手で叩いて示す。腕、胴体、脚の律動がひとつにならないと、なめらかに体は進まない。


 ボクが示すその拍手の音に合わせて、彼女は水をき、り、進む。


「ぷはぁっ!」


 彼女が海面から体を踊らせる。宝石の粒がきらめくように飛沫しぶきが上がる。小さな光がきらきら、きらきらと光る中で、少女の笑顔が輝いていた。


「すっごく泳げるようになった! 死神さんの教え方、ほんとに上手!」


 ひざで波を押しやるようにして彼女が浜を走ってくる。髪の間から流れ、零れる雫もまた彼女を綺麗きれいかざっていた。

 白いワンピースの水着姿の彼女は、脚の生えた人魚のように見える――。


「キミの教えられ方が上手いんだ。ボクだって素人なんだから上手くないよ」

「私、水泳の才能あったのかな?」

「そうかもね」

「ちょっとひとりで泳いでみる! 速く泳げるか試してみたい!」

「遠くまで行かないでよ」

「だいじょうぶ! 浅いところまでしか行かないから!」


 せーの、と掛け声を出して彼女は海面に向かって頭から飛び込んだ。大きな水柱が立ってすぐに腕が海面から突き出されて前にある水をつかんで後ろに旋回し、脚が海を蹴ってす力を得る。はしゃぐような息継ぎが聞こえて、遠ざかって行く。


「――遠くまで、行かないでよ……」


 ボクは浴びた飛沫を手で払って、周囲を見渡した。

 白い砂浜を埋めていたビーチパラソルやビニールシートの色は、遠目からではかなり減っていた。もう遊ぶ時間のピークをとっくに過ぎたのだろう。半分の半分ほどだ。


 ここで遊んでいた人々は今日、絶好の海水浴日和びよりの中で楽しめたことに満足し、『また来ようね』と言い合って帰路きろについたのだろう。

 うらやましかった。


 ボクたちには、『また』なんて言葉はないんだ。

 これが、一回きりの、最初にして最後の海なんだ。

 もうそれは、約束されてしまったことなんだ。


「もう…………」


 不意に、今いるこの世界が、自分の中で遠くなった。

 浜に飽きることなく押し寄せる潮騒しおさい以外の音が消える。元から周囲に他人なんかいやしない。この広い海の入り口で、水着姿のボクはひとりだった。


 息苦しいようなさびしさにもだえるように、空をあおいだ。


「……ああ……」


 水平線の上に位置する太陽はもう、完全に西と言える方角にあった。高さも……真上と水平線の中間、いや、真ん中よりやや下に見える。

 あの太陽はもう、上がらない。下に落ちていくだけだ。


 彼女に、ボクたちに残された時間は、あの太陽が水平線に着地して、その姿を向こうに隠してしまう間だけなんだ。

 多分もう、三時間あるかどうかだろう。


 西の空が赤くがされ始めるのも、もう間もなくだ。

 それは、終わりの始まりを告げるコールだった。

 終わっていく。全てが終わっていく。


「お……お……」


 この海の中で、当たり前のように、残酷に全てが終わろうとしている。


「お願いだ……お願いだよ……」


 時よ、止まってくれ。太陽よ、それ以上沈まないでくれ。

 彼女を永遠にこの海で遊ばせてやってくれ。

 それ以上、ボクは何も望みはしないんだ。


 死後の世界からやってくるなんていう禁忌タブーめいたことができるボクにも、この時を止めるなんてことはできないのか。


「せめて、あした、いちにち……」


 また、明日があってもいいじゃないか。

 今日は、こんなに楽しかったんだ。

 また今日と同じくらい楽しい日が、一日くらいあったって、バチは当たりはしないだろう。


 せめて、せめて。

 あと一日、あと一日くらい――。


「――――あ」


 バフッ、と足元で弾けた破裂音に似た音が、ボクの意識を現実に引き戻した。


「……ボール……?」


 バレーボールより少し大きいくらいの、青と黄色と白で塗り分けられたビーチボールが浅い海面に乗ってゆらゆらと揺れていた。


「これは……」

「おーい!」


 遠くから声がぶつけられてくる。子ども、男の子の声、知っている声にボクはそのボールを抱えた姿で振り向いた。


「あれ」

「あー、やっぱり兄ちゃんか!」


 浜の砂を蹴散らすようにて、水着姿の男の子が元気な調子で駆け寄ってくる。

 真っ黒に日焼けした顔と体で大きな目が目立つ男の子――ボクたちが沖でボートに乗せてあげた少年だった。


「兄ちゃんまだ遊んでたんだ。あの姉ちゃんは? もしかしてフラれたのか?」

「フラれてないよ」

「そんならいいけどさー、俺が邪魔しちゃったかなーって気にしてたんだよ」

「あ、あの男の子だ」


 ザバ、と背後で音が上がってしおりが海から上半身を見せた。


「姉ちゃんもいた。よかったよかった。兄ちゃんの強がりでなくて」

「強がりって?」

「ひとりで海で黄昏たそがれていたボクがフラれたように見えていたんだって」

「あはは。私たち仲良しよ。一日中。ね?」

「ま、兄ちゃんと姉ちゃんお似合いそうだもんな。と、兄ちゃん、ボール返してくれよ」

「うん」

「おーい!」


 遠くからまた別の子どもの声がする。男の子と女の子がひとりずつ、男の子は二本のポールをかつぎ、女の子はたたんだネットらしいものを抱えていた。


「あれ、これ、ビーチバレーのボールなの?」

「そうだぜ。ビーチバレーやるっていうんで友達待ってたんだけどさ、約束破られたんだよ。待っても全然来ないから帰るんだ。三人じゃ試合にならないしさー」

「じゃあ、私たちと試合しない?」

「んあ? 姉ちゃんたちと?」


 浜まで上がって来た栞が、ボクの隣に並んだ。


「兄ちゃんと姉ちゃんは大人じゃんか。勝負になんねぇよ」

「大丈夫よ。私たち下手だし。それに二対三ならいいハンデじゃない?」

「まあ、兄ちゃんも姉ちゃんも運動神経良さそうには見えないしなー」

「そうそう!」


 けなされているのか微妙な言葉にも、栞はうれしそうにうなずいていた。


「おーい! 何話してるんだよー!」

「この兄ちゃんと姉ちゃんがビーチバレーの相手したいってさ!」


 ボクからボールを受け取った真っ黒な男の子が仲間の元に駆けていく。三人でわいわいと相談し出した姿を見やりながら、ボクは栞の目を向けた。


「いいのかい?」

「私、ビーチバレーしたい! 楽しそう!」


 お愛想あいそでもなんでもない。心からの言葉に聞こえた。


「そうか……ビーチバレーか……」

「俺たちはいいぜー!」


 小学校高学年の子どもたち三人が並ぶ。


「さ、やると決まったらネット張りましょう! あなたも手伝って!」

「う、うん」


 栞の声にせっつかれるようにボクは波打ち際から上がって、子どもたちからネットを張るポールを受け取った。

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