第25話「――これで、足りるかな……」

 テーブルの端の小さなバインダーに、次々と伝票が重ねられていった。しかも危険な速度でだ。


「あ、あれもいい匂いがしてる!」


 隣のテーブルの鉄板で凶悪な音を立てて焼かれているステーキを鼻でぎつけたしおりが声を弾ませる。


「ヒレステーキ!」「大エビ!」「カニ!」「イカ!」「ポークチョップ!」「カレーライス! わ、カツが乗ってるんだ!」「あ、ラーメンも美味しそう!」


 鉄板の上で矢継やつぎ早に生けにえとして焼かれていく犠牲者ぎせいしゃ――いや、食材の列を見てボクは慄然りつぜんとした。けた鉄板の上で火が通された食材たちは瞬く間に彼女の口からのどを通り、食道を下って胃の中に落ちていく。


 その向かいにいるボクの方は、たこ焼きを食べたところで完全にはしが止まっていた。


「あっ」


 焼き鳥の一個小隊がくしだけを残して全滅ぜんめつしたところで、彼女の箸が止まった。


「私、調子に乗って食べすぎちゃったかな?」


 よほど『食べる』ということにえていたのか、完全に夢中になっていた状態から彼女が我に返った。


「死神さん、お財布だいじょうぶ?」

「は……ははは……」


 伝票の束の厚さを目で測りながら、ボクは笑った。完全に乾ききっていた。


「う、うん、まだ、だいじょうぶだよ……」


 もうずいぶん土俵際というか、がけっぷちというか、ギリギリだけど……。


「死神さんはもう、お腹いっぱいになっちゃった?」

「あ、ああ、ボクは小食だから……。キ、キミはまだ食べられるの?」

「やっと少しお腹にたまってきた感じかな」


 うわあ。


「でもこれ以上食べても仕方ないかな。メニューのほとんどは食べちゃったし」


 店員のお姉さんが三つ重ねられたラーメンの器を下げていく。その目がちらりとこちらを観察しているのが見えた――食い逃げを警戒している目だった。


「そ、そっか。これで打ち止めなのかな」


 多分、財布の残金でなんとかまかなえる金額だと思う。自信ないけど。


「そうね。この辺で終わりにしておきましょ」


 た、助かっ……。


「じゃあ、ここからはデザートね!」


 ぐはっ。


「パフェにソフトクリームにかき氷! クレーブも焼いてる! 色んな種類があるわ!」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと」


 直接注文するために席を立った彼女に手を伸ばしたが、届かなかった。


「ま……まずいな……」


 熱気がこもる店内で寒気を覚える。もしも会計で所持金が一円でも足りなければ、警察沙汰ざただ。せっかくのこの一日を考えもしたくない形で終わることになるだろう。でも、今は食べることに喜びを覚えている彼女の心に水を差したくもない。


 しかし、どうすれば――。


「お困りの様子じゃないか」


 むわっ、と肌が熱を発する気配がしたかと思うと、背後から誰かに背中に抱きつかれて白く細い腕が胸に回され、尖ったあごが肩に乗せられてきた。

 重くやわらかい感触を背中にふたつ感じるけれど、今は無視することにしよう。


 絡むように抱きついて来ているのが誰なのか、確認する必要もなかった。


「せ……先輩……。な、なんか、用ですか」

「んー?」


 楽しそうな声が上がる。実際楽しそうだった。


「そんな素っ気ない態度をとっていいのかなぁ? むしろあたしに用があるのは、お前の方じゃあないのかな? 要するにこれだろ?」

「うわ!」


 目の前にちらつかされた一万円五枚の束をボクはひっつかもうとして、見事に空振りさせられた。


「おいおい、無言でひったくるなんてずいぶん乱暴な真似じゃないか。うん?」

「せ、先輩、状況をわかってやってますね」

「当たり前だろ。ずっと見ていたからな」


 ボクの耳に吹き込むようにして先輩はささやいた。


「まあ、別にお前をからかってるわけじゃない。これは取引だ。場合によっちゃ、これを五枚ともやってもいいんだ。助かるだろ?」

「じ、地獄に仏です」

「死神だけどな、あたしたち」


 ふふん、とあやしく先輩は笑った。


「そろそろ彼女がソフトクリームを抱えて戻ってくるぞ。回答チャンスは、一回のみ」


 緊張にボクは思わず固唾かたずを飲んだ。……一回だけか。


「これをお前にやる代わりに、お前はあたしに何をしてくれる? あたしが心から喜ぶ答えを言ってみろ」

「……それをいただけたら、先輩を心から尊敬します」

「よし、合格だ」


 白い指が一万円札の束を放し、その瞬間後にボクの手が空中でつかんでいた。


「じゃ、あたしはのんびり楽しませてもらう――そう言って先輩は消える」


 熱の塊が背中から引いて、板張りのデッキをハイヒールの底が打つ音が遠ざかって行く。

 色々な意味で危機が引いていったことに、ふううう、と体の中から全部の空気がれた。


「あれ?」


 先輩の言葉通り、両手にソフトクリームを持った栞が戻ってきた。


「今、死神さんの後ろをあの女の人が歩いてたよ?」

「え、え、そう? 気づかなかったな?」


 声の端がおかしくなるのは止められなかった。


「なんか私たちの行く先々で見るみたい」

「ぐ、偶然だよ。それに同じ海水浴場だし、よくあることじゃないかな、あはは……」

「そっかな。まあいいんだけど。ね、死神さん、ソフトクリームくらいだったら食べられるでしょ?」

「う、うん。食べられるよ……」


 ドリンクも喉を通らないところだったんだ。さっきまでは、色々な意味で。


「よかった。ふたりで同じ物食べるのって、楽しい」


 バニラとストロベリーがツイストでコーンに巻かれたソフトクリームだった。

 そのとんがっている先端に彼女がぱく、とかじりつく。


「あまーい!」


 ふわふわとやわらかいクリームは彼女の口の中で瞬く間に溶かされていく。ボクも同じ味のソフトクリームを口にした。まるでふわふわとした雪のような食感だった。軽い。


「おいしー!」


 顔の全部が幸せの形になった彼女が声を上げる。


「こんな美味しいソフトクリーム食べたの、もう久しぶり! 初めてと思えるくらい! ありがとう! 私、本当にうれしい!」

「……よかった」


 よかった。本当によかった。

 彼女の心からの声を聞けて、よかった。

 ボクは、間違いのないことをしている。確信できる――。


「美味しかった!」


 コーンをかじりつくして手品のように口の中へと消した彼女が、また立ち上がる。


「今度はバニラとチョコのツイスト! チョコとストロベリーのツイストも試すの! あ、三色のシングルも食べなきゃ! その次にはかき氷も全部制覇せいはしたいし! クレープも忘れずに食べないとね!」

「う、わ」

「行ってくる!」


 彼女は微笑みを残し、風を巻くようにして小走りで駆けていった。

 援軍として五万円が加わった財布の中身をもう一度確かめ、ボクは、再びの不安におそわれていた。


「――これで、足りるかな……」

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