第23話「そ、それは……サメ?」
「本当の本当にバットを持ってくればよかった」
心からそう思った。
「オ、オールを外して、それで叩きましょう!」
「しっかりと留め具で固定しすぎたよ。それに、外さない方がいい」
「どうして!?」
「あのサメは、ボクが飛びついて押さえる」
「その間にキミがこれを漕いで陸に戻るんだ。オールが一本じゃスピードが出ない」
「死神さん!」
「大丈夫だよ、ボクは死んでるんだ」
少しも大丈夫な気分ではないけど、そう言うしかなかった。
「死んでるボクがもう一度死んだりできないよ。だから、大丈夫……」
精神体を実体化させているこの体が
そんなことを聞いたこともないし考えたこともない。魂が食いちぎられたらボクはボクとして存在できなくなるんじゃないのか。それは『死』と呼ぶに相当するんじゃないのか。
「ダメよ!」
栞が、ボクの背中にぶつかるようにしてしがみついてきた。
「死ぬなら私の方よ! ――どうせ、私はもう……!」
「まだ時間は残ってるじゃないか」
サメはあと十メートルというところで急旋回し、ボートの後方に位置するように航跡を描いた。波に乗って進んでいるこのボートを
次にこのボートを追ってあいつが接近してきた時が、最期の時だ。
「残り少ないからこそ、生きられる限り、生きるんだ」
ボクはライフジャケットのファスナーを下ろした。奴と取っ組み合うのは、海中の方がいい。
「ボクのことは、気にしなくていいから」
「や、やぁだ……」
背ビレだけを海面に尖らせるサメが、ほとんど直角に曲がるように急転針する。背ビレの動きでわかる。海面下の鼻先をこちらにぴったりと向けているのが、まるで目に見えるかのようだ。
海面の下に濃い影を揺らめかせ、ボクたちのボートの真下に滑り込むような勢いで、まさしく魚雷の如く突き進んでくるサメ。
あと八、七、六メートル……距離が一メートルを切ったら、飛びかかるんだ。
「――栞」
彼女の腕を、強く肩を揺らすことで振りほどく。ライフジャケットをつかんでいた彼女の腕はそれで外れた。
拘束がするりと抜けた感触と共に、ボクは立ち上がり、そのままの勢いで踏み出した。
「じゃあね」
「死神さん!!」
彼女の叫びをも振りほどいて、ボクはボートの際を
ざばぁ、と音を立てて海面から現れた影に、
「うわあ!」
一メートルどころか十センチも跳べずにボクは海面に顔から突っ込んだ。
「ぶごごごごご!」
頭が海の底に向いている。足がまだ海面の外にある。鼻と口に海水が流れ込んでくる。
そんな無様なボクの体を、細い腕が海中からつかんできた。海中でもがくボクをくるりと一回転させ、そのまま引っ張り上げる力を感じた。
「ぷはぁっ!」
「だいじょうぶ!?」
「そうだよ、兄ちゃん。みっともない飛び込み方してさ」
ボクを海面上に引き上げた
「そんなんじゃ彼女に呆れられるぜ。もっとしゃんとしなきゃな」
「キ……キミは……」
まだ小学校高学年くらいの子どもだ。こんな沖までひとりで来たのか、周りに保護者らしい姿もない。
そんな男の子が脇に抱くようにしているダークブルーの物体が問題だった。
「そ、それは……サメ?」
「これ?」
「サメの浮き袋だよ。こいつを膨らませて遠泳してたんだ。でも空気が抜けちゃってさ。もうだいぶ使ってたからダメになったんだよなー。ここだけ別の袋になってるから最低限浮けたんだけどさ」
ボクたちが大騒ぎしていた原因の『背ビレ』を、男の子がビシ、と指で弾いた。
「兄ちゃんたちのボートがいてくれて助かったぜ。悪いけどさ、乗せてってくれよ」
ニッ、と快活に笑うその底抜けな明るい表情に、ボクと栞は顔を見合わせた。
「――海の真ん中に、置いておくわけにもいかないからなぁ……」
「やった。さんきゅ!」
「ぶはっ」
小柄な体がボクを差し置いて先にボートに飛び乗る。その勢いが跳ねさせた飛沫を目に受けて、また悲鳴を上げさせられた。
「ほら、兄ちゃんどんくさいな。さっさと上がった上がった」
「……キミはなかなか図太いところがあるね」
「へへへ、よくそう
「誉めてない」
男の子が手を差し伸べてくる。ふう、と大きく息を吐いてから、ボクはその手を握った。
◇ ◇ ◇
「乗せてもらったお礼にさ、俺がエンジンになるよ。兄ちゃんと姉ちゃんは恋の語らいでもしてな」
「漕げるのかい?」
「あったりまえじゃん、地元っ子なめんなよ。俺は免許が
小柄だけど、二の腕に確かな筋肉が見える引き締まった体の男の子だ。この時期に真っ黒に日焼けしているのは、それだけ海にいる時間が長いということななんだろう。
「浜に戻っていいんだよな? なんだったら、この辺りずっと回ってもいいんだぜ? あ、そか。早いとこおじゃま虫の俺を下ろさないといけないもんな」
「もう、おませ」
「へへへ」
麦わら帽子をかぶらされた頭を後ろからこつん、と栞に叩かれて男の子が笑う。
「運転手さん、大急ぎで頼むわ。私、お腹減っちゃった」
「おっけー! いっくぜー!」
張り切った声が背中で上がり、オールが大きく旋回してそのブレードが海面に突き刺さった。体の全部をバネのようにしてオールが回転する幅を稼ぐ男の子の動きにボートは確実に応え、一漕ぎする度にスピードが増す。
「わ、速い速い。上手ね!」
「なめんなよ、って言ったろ! まだまだこんなもんじゃないぜ!」
言った言葉通り、ボクと栞が二人で漕いでも出せないほどの速度を出して男の子はボートをまっすぐに突き進ませる。波と波の頭を滑るようにしてボートは、風を切る速さで海を渡る。
そんなボートの前に、ボクと栞は肩を並べるようにして進行方向――浜の方を向き、ボクと麦わら帽子をかぶった栞は座っていた。
遠くなっていた浜が、見る見る近くなる。色の粒にしか見えなかったビーチパラソルがその形がわかるように解像度を上げて行く。
「漕いでもらうっていうのも、悪くないわね」
「ふたりで漕ぐのも楽しかったけど」
「兄ちゃんと姉ちゃん、見ない顔だよな! 地元の人じゃないんだろ!」
「まあ、遊びに来てるんだけどね」
「昼飯食いたいんなら、海の家で食べるのがいいぜ! 何でも安くて美味いんだ!」
「ありがとう、行ってみるよ」
「ほら、もっとスピード出して。私、お腹が空いて死にそう」
「姉ちゃんが飢え死にしないうちに着くよ! 待ってな!」
ぐん、ぐん、ぐんとひとつひとつの回転に力を加えて男の子がオールを漕ぐ。前から吹き付けてくる風を栞は麦わら帽子で受けながら、それが飛んでいかないように頭を押さえていた。
「来てよかったね」
「そうだね……」
「兄ちゃんと姉ちゃん、もっとロマンチックに話しなよ。俺のことは無視してていいんだからさ」
「エンジンがしゃべらないの。それに、これで十分ロマンチックなんだから」
「へへ、そりゃよかった」
「――さっきの、あなた」
栞が肩を寄せてくる。
「かっこよかった。一昨日と、同じくらい」
「そ……そう、かな……」
「うん。とってもかっこよかった」
「あれ、俺がおじゃましたせいで兄ちゃんが点数稼いだの? じゃ、俺が兄ちゃんに感謝されなきゃいけないんじゃないか」
「だからエンジンがしゃべらないの。おしゃべりなエンジンね」
「へへへ」
ね? と目配せをしてくる栞の表情にボクの顔が赤くなる。
来て、よかった。
確かに、来てよかった――。
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