第22話「サメがいるわ!! あそこ!!」

 どう目をこすっても先輩にしか見えないそのグラマーな女性は、こちらを見てニヤリと笑うと、無言で手を小さく振ってきた。


「こ、こんにちは」


 しおりも応えて手を振り返す。

 そこから会話が始まるのが怖くて、ボクはオールをつかむ手に力を入れた。


「ちょ、ちょっとスピードを上げるよ」

「どうして? もう少しあいさつしてもいいじゃない」


 栞の目が興味に輝いている――当たり前か、あんな目立つ人間を見たら、誰でも印象に残すだろう。


「あの人不良だ。海の上でお酒飲んでるんだ」

「あれ、ジュースじゃないの?」


 胸の谷間に底が固定されるように乗っているそのカラフルな缶は、遠目にはジュースの缶にしか見えない。

 でも、ボクにはわかる。


「ジュースはジュースでも、アルコールが十二パーセント分も入ってるジュースだよ」

「そうなんだ。よくわかるね?」

「……まあね」


 それもボクがレジを通したんだから、当然だった。


「ふふ」


 先輩は目にサングラスを戻すとまたタバコとストローを口にくわえ、これ以上はできないというくらいに怠惰たいだな姿で体を伸ばした。


 退廃たいはい、というタイトルをつけて額に飾っておきたいくらいの姿だった。

 ぷかぷかと浮かんでいるだけのビニールいかだと、オールをぎ出して速度を上げたボクたちのボートはすれ違い、離れる。


 二分も速度を上げてオールを漕げば、真っ赤なビニールいかだは赤い点のようにしか見えなくなった。


「あの人、オールもなしにこんな沖まで来たのね」

「バタ足で来たとは考えにくいけど……」

「どうやって帰るつもりなんだろう」

「ニューギニアまで流されるつもりじゃないかな」

「あはは! 帰るのが大変そう!」


 栞が笑う。

 あの先輩、本当にあのまま流されていくつもりだろうか。

 まあ、実体化が解ければどこからでも帰れるんだけど、さ。


「沖に出るのは、ここまでにしておこうか」

「ここまで?」


 オールのブレードを海面に入れたまま止め、水の抵抗を受けてボートを減速させる。


「ボクたちこそ、調子に乗ってたら帰れなくなっちゃうよ」

「本当だ。ずいぶん遠くまできたわ……」


 麦わら帽子のつばを上げ、栞は陸の方を見て目を細めた。

 ここまで来れば、建物ひとつひとつの区別はつかない。

 空の青、山の緑、街の灰色があって、広い広い海がここまで広がっている。


 今は空を渡る鳥も飛ばず、海をく船もない。ましてや泳ぐ人の影もない。

 この広い海原の真ん中に、オールを海から上げたボートの上で、ボクたちだけがいた。


「静かね……」


 穏やかな鼓動のリズムに合わせるような、まるで揺りかごのような心地よい揺れの中で、彼女は静かに微笑ほほえみながら呟いた。


「まるで、世界に私たちだけが取り残されたみたい」

「うん……」


 大きな船の形をした白い雲が、もう中天にのぼってしまった太陽を薄くさえぎるように空を流れていく。海面を流れて吹いてきた風が肌をで、前髪を揺らす。


「キミがあらすじを教えてくれた、あの短編小説みたいだ」

「あの小説……『永遠』ね?」

「うん」


 世界にたったふたり、取り残された最後の少年と少女。

 少年は間もなく死に、少女は永遠に近い時を経て滅びた。

 だけど、そのふたりのきずなは永遠になったはずだ。


「――ボクたちも、そうなのかな」

「男の子と女の子、逆になってるけどね?」

「うん……」


 にこにこと笑って彼女が言う。

 太陽は、いちばん高いところまで昇ってしまった。

 あとはもう、下がるだけだ。


 あの太陽が水平線の向こうに消えた時、キミの命も消える。

 あれは文字通りの、キミの命の日時計なんだ。

 そんなことを、彼女は百も承知だろうに。


 夏の太陽を受けて、彼女は微笑んでいる。

 その顔のどこにも、死の影はない。見えない。読み取れない。

 あしたも、あさっても、しあさっても、えいえんにこの夏の日が続くかのように。


 彼女は、笑っている――。


「わ」


 大きな波がボートの下に潜り込んでどぷん、という音が底から響き、ガッとかたいたボートの上でボクたちは姿勢を崩した。「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて、彼女がボクの方に大きく倒れ込んでくる。


「あぶない」


 細い、力を入れれば壊れてしまうのではないかという肩を、両の手で受けとめた。

 海面を盛り上げるような波は一回だけで、海はまた静かなぎに戻った。

 ふたりの麦わら帽子の鍔と鍔が、完全に重なり合う。そんな距離にボクたちはいた。


「あ、ありがとう……」

「う、うん」


 風に少し冷やされた肩が、ボクの両手にある。

 薄い肉とその下にある骨の感触が手のひらにある。

 時間が経つのを思い出させてくれる次の風が通り抜けるまで、そのままの格好でいた。


 時はまらず、想いだけが停止していた。


「昨日……」

「えっ?」


 静かな語り口に声を上げたボクに、彼女は言葉をささやき続けた。


「昨日、死神さんがいっしょに海で泳げるって言ってくれた時、私、思わず飛びつこうとした。覚えてる?」

「う、うん」

「あの時、死神さんは『すり抜けちゃうから』と言ってとめてくれたわ」

「お……覚えているよ……」


 あの時、ちょっと悲しかった。

 彼女に見られていても、触れることができない自分を情けなく思った。

 住んでいる世界が違うんだ、と、わかりきっていることを思い知らされたから。


 でも。

 でも、今は――。


「今は、触れられてるわ」

「そうだね……」


 手のひらに、冷たい肌と、その下にあるあたたかい血の脈動を同時に感じる。

 彼女が生きているという律動を感じる。

 彼女は生きている。ボクの手の中で。


「帽子、邪魔ね?」

「――うん」


 目配めくばせをするように無言で合図し、ボクと彼女は帽子を外した。

 太陽の光は、海に、ボクたちに降り注がれる。

 あの太陽にだって寿命が、命があるんだろうが、何十億年と長い。


 何十億年は、永遠なのだろうか。

 太陽だけじゃない。宇宙にも終わりがある。やがてはなくなる。

 世界に、永遠なんてものはないんだろうか。


 じゃあ、何故、永遠という言葉があるのか――。


「死神さん」

「う、うん」


 彼女との隙間を埋めず、でも離しもしない、このもどかしい間合い。

 風が通り抜けようと思えば通り抜けられる距離。

 そんな姿で固まっているボクに、彼女は語りかける。


「私たち、もっとふれ合うことができるんじゃないかな……」

「ど……どうやって……」

「どう、って」


 こわがりなボクに、彼女は笑った。

 もう、それ以上には笑えないというほどに可愛い微笑みで。


「こう」


 彼女の首元が、ボクの肩に乗った。凹凸おうとつが組み合わされるように、ボクの首元も彼女の肩に乗る。頬と頬、耳と耳が触れる。髪の匂いが鼻をくすぐる。ボクの心のいちばん奥の奥が、きゅううう、と音を立てるようにして縮まった。


 でも、まだ浅い。体と体の隙間はまだ、残っている。

 この距離は、ゼロじゃない。

 それを埋めるのは、彼女じゃない。


 ボクの気持ちで、意志と意思で、埋めなきゃいけないんだ。


「こう……だね……」


 よわよわしく、しかし優しい磁石が相手を求め、引きつけようとするように。

 彼女の肩をつかむ手に、ほんの少しの勇気を込めて。

 ボクは、抱き寄せ――。


「…………あっ!!」


 耳元で弾けた彼女の声に、ボクの動作は止まった。

 世界が崩れていくのを遠くに目撃したかのような声だった。


「――サメ!!」

「えっ!?」

「サメがいるわ!! あそこ!!」


 考えるよりも先にボクは彼女の体を離し、振り向いた。海面に目を走らせた。

 青い海面に、ダークブルーの色を帯びた三角の板がまっすぐ立ち、こちらに向かって航跡を引いて進んでくる。


「…………!!」


 静かで迷いのないその接近が、熱くなっていたボクの心を、一瞬にして凍らせた。

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