第21話「……やっぱり、海にバットは要ったかも……」

「んしょ、んしょ、んしょ、んしょ」


 黄色い足踏みポンプを一生懸命にボクが何十回か踏み込むと、丸く折りたたまれていたゴムボートがふくらんでいく。少し大きめのゴムボートだ。二人横に並んで座れるくらいの幅はある。


「私にもやらせて!」


 しゃがんでいた彼女が立ち上がり、身を引いたボクと入れ替わってポンプに足を乗せて、力強く踏んだ。

 ふしゅう、と情けない音が彼女に応えた。


「あれ? なんか手応えがない」

「まっすぐ垂直に踏み込まないと、空気は上手く送れないよ」

「わかった!」


 にこり、とはしゃいで彼女の体が弾む。ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅと音が鳴る。

 数分もせずに、真っ黄色のゴムボートは限界にまで膨らんだ。


「完成」


 ボートに繋がっているパイプを外し、空気穴に栓をする。そしてオールの固定。

 これで少し沖まで行くんだ。泳ぐのとはまた違った海が見えると思う。


「飲み物ちょっと持っていきましょ! 海の上でジュース飲むの気持ちよさそう!」

「ライフジャケットもちゃんと着ないと。あと、麦わら帽子も。頭が熱くなっちゃうよ」

「はーい!」


 万全の装備を整えて、ボクたちは海に向かってボートをすべらせた。

 押し寄せる波を押し返すようにボートを押しやり、浮力が手に伝わったタイミングで彼女がボートに飛び乗る。


「わっ、ぐらぐら!」

「よいしょっと」


 海水が膝まで上がったところで、ボクもよじのぼるようにしてボートの上に乗った。


「揺れる揺れる! 面白い!」

「わ、わわわ、揺らさないで」

「あはは!」


 無限に押し寄せ、白い歯を立てる波の音がザザザ、ザザザと聞こえる。海の声だ。

 聞いても聞いても聞いても、飽きることのないやさしい声だ。


「私もオールぐ!」


 そう言った時には、彼女は一本のオールをすでに握っていた。


「ふたりで漕ぎましょう!」

「難しいよ。ふたりで漕いでまっすぐ進むの。息を合わせないとぐるぐる曲がっちゃう」

「だから楽しいんじゃない! つめてつめて!」

「うわわわ」


 ボートにふたり横に並ぶ。素肌の肩と素肌の肩が密着し、麦わら帽子のつばの端が重なり合っている。そんな近さで、ボクのお腹の中で何かが縮み上がった感じがした。


「ち、近いよ」

「それ以上遠くいけないでしょ? ほら、私に合わせて!」

「わ、まわるまわる」


 ざぶん、と音を立てて彼女が海面にオールを入れ、力任せに引く。片方の強引な漕ぎでボートは面白いくらいにぐるんと回った。


「ダメだよ、力任せは。姿勢はやや体を後ろに反らして、オールは垂直に入れなきゃいけないんだ。オールのブレードが斜めになっていたら、水が無駄に流れるから」

「こうかな?」


 緩いリクライニングに背を預けたような格好になった彼女が、腕を伸ばす。そのまま上に上げ、ブレードをたぷんと海面に入れた。


「それで、膝の上で手を回すようにくんだ」

「うーんしょ!」


 彼女がオールの持ち手を回す。ボクもそれに合わせてオールを漕ぐ。

 ぐっ、ぐっ、ぐっ、とボートに力がかかって、確実に前に進む。


「うんしょ、うんしょ、うんしょ」


 ボートを漕ぐ時の正しいかけ声なんて知らないけど、彼女はそれでいい、そんな可愛いかけ声だった。ひとつのことに慣れるまでの一生懸命をやり通そうという熱中と集中の心が、するりと汗が流れる彼女が見せるはつらつとした表情となって輝く。


 ボクの気持ちも、洗われる。今、彼女と肩を合わせ、同じリズムに乗って同じ動作を行っていることが心地いい。

 このボートは、ふたりで心を合わせないとまっすぐ進まないんだ。


 そんなボートが、まっすぐ、まっすぐ進む。ぶれもなく、その舳先へさきに迷いもなく。

 このボートは、ボクたちを乗せている。ボクと彼女を乗せている。

 ボクと彼女の体と、ボクと彼女の心を乗せている――。


「スピードがついた!」

「そう、上手い上手い」

「もっともっと速くする! 死神さん、がんばって!」

「うん」


 ボクも賛成だった。

 このボートは、もっと速く進まなければいけないんだ。


「うんしょ!」「うんしょ」「うんしょ!」「うんしょ」「うんしょ!」「うんしょ」


 一定のリズム、一定の力でオールが回される。たぷん、たぷん、たぷんと音が跳ねる。

 加速に惰性だせいがついて、海をすべるようにボートは流れ出す。

 視線を前に向けると、今まで自分たちがいた浜辺が一望できた。


 緩く長く伸びる白い砂浜。色とりどりのパラソルの色が、アイスにかけるトッピングのチョコ粒のように見える。


「私たちのパラソルがあそこ!」

「うん」

「他に海水浴のお客さんもたくさんいる! でも、私たちのパラソルだけ仲間外れ?」

「ああ、あれは……」


 海水浴場を三等分したうちのひとつの範囲だけ、占有したようにボクたちのパラソルがぽつんと色を咲かせている。他のふたつは賑やかなくらいに混雑しているというのに。


「あそこの場所、人気ないのかな?」

「かもね」

「呪われてたら大変だね!」

「あはは」


 彼女がほぼ正解にたどりついたので、ボクは笑って流した。

 本当のことを言わないというのは、うそいたことにはならない。

 そうだろう?


「もう、ずいぶん遠くまできちゃった」

「そうだね」


 浜辺の向こうに見えるのは、松の林。そしてさらにその向こうに市街地が見える。小高い丘を埋めるように並ぶビルたちがひとつの塊のように遠くに見えた。

 当然、あの建物も見える――。


「病院がもう、あんな向こうに……」


 彼女の目に輝きではないものがほんの薄く、煙る。

 彼女が早朝までいた高層ビル、丘の上に建つ二十五建ての病院は特に目立ってボクたちの目に映った。


「ここからあそこが見えるっていうことは、あそこからここも見えるのね」

「うん」


 その『うん』という自分の返事が、ボクには重かった。


「あの病室の窓に立ったら、私……私が見えるんだ……」


 何年も窓から眺めるしかなかった、そこに見えるのに遠すぎる海。

 彼女は今、その海の真上にいる。

 それは信じられないことなんだ、ふつうは。


可笑おかしいね」

「可笑しいかな……」

「可笑しいわ。でも、私、その可笑しいことがうれしいの!」

「あはは……」


 彼女が、海の上でボートに乗り、微笑んでいる。

 彼女のことを少しでも知っている人なら、絶対に信じないだろう。

 それだけあり得ないんだ。今、ここで起こっているこの奇跡は。


 めえ、めえという声と共にボクたちに薄い影が差す。海をまっすぐに進む真っ黄色のボートを見つけたのか、白と黒のツートンの色をした海鳥が十数羽、群がって飛んでいるのが頭上に見えた。


「ウミネコさんだぁ」


 麦わら帽子の鍔を上げるように顔を上げた彼女が笑った。


「知ってるの?」

「病室の外でもよく鳴いてるの。猫みたいに鳴くのよ。これからどこかに行くのかなぁ」

「ボクたちもどこかに行きそうだ」


 ボクたちは、陸からどんどん離れていく。海の奥へ奥へ、地球の丸みに沿って、背中にあるだろう水平線へと乗り出していく。


「ねえ、このまま行ったら、アメリカまで行けるかなぁ?」

「アメリカは東だよ。ボクたちが行ってるのは南」

「南はオーストラリア!?」

「ニューギニアに邪魔されるだろうね」

「あはは! じゃあそこまで行きましょう!」

「いいなぁ、それ」


 このままふたりで漕げば、遠い遠い外国まで行ける。

 ふたりで、漕げれば――。


「あ!」


 彼女が声を上げて、オールを回していた手を止めた。ボクもつられて漕ぐのをやめる。


「あそこにお仲間さんがいる!」

「お仲間さん?」

「ほら、あっち! わ、海の上でタバコ吸ってるわ」

「タバコ……」


 嫌な予感がした。


「あれ? でも火は点いてないみたい。わ、ジュースも飲んでる。缶にストローを突っ込んでるわ」

「…………」


 とてつもなく嫌な確信を抱きながら、ボクは彼女が指差した方向、彼女の帽子越し。

 真っ赤なボート――いや、ビニールのいかだというか、大きなベッドみたいなものがぷかぷかと浮いている。


「あ」


 反射的にボクの右頬が引きつった。

 赤いビニールベッドに、じゃない。

 そこで優雅に寝ているひとりの女性が、問題だった。


「……やっぱり、海にバットはったかも……」

「え?」


 こちらのボートの存在に気づいたのか、リクライニングの角度に傾いている背もたれに体を預けていた女性が、くわえていたタバコを口から離して手に移す。


 原色の強い赤と青の太い帯が肩から胸、腰に二枚巻き付けられたような、とんでもないハイレグの水着。記憶にある水着だ――それをレジに持っていったのは、ボクなんだから。


「ふふ」


 聞こえるには遠すぎる距離なのに、知っている声が耳に届いたような気がした。

 女性の顔をかろうじて隠していた細く鋭いデザインのサングラスが下げられ――紛れもない先輩・・の目が、そこにあった。

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