第20話「どうして海にバットが要るの?」

 ボクと彼女のふたりは、波をき分け、潜り、心ゆくまでこの海とたわむれた。

 海は、広い。触れられる分、空より広くて深い。

 なにものにもさえぎられることも、はばまれることもない世界。


 彼女は、しおりは、そんな世界を自由に泳いだ。

 白く細い体を踊らせ、うねらせ、跳ねさせて。

 今まで、狭く狭い世界に閉じ込められていた心を、思う存分に解き放つように。


 時間も忘れるように泳ぐ。

 そんな彼女の後を追うようにボクも泳ぐ。

 彼女が今、ここで泳いでいたことを、誰かの胸に刻まなくてはならなかったから。


 その誰かというのは、今、ここにいるボクなんだ。

 彼女がここにいたあかしを、ボクは見ておかねばならないんだ。


「わは――!」


 彼女が人魚でないのが不思議なくらいの勢いで、水面下から彼女が体を起こす。

 無数のしずくき散らす。

 雫のひとつひとつが太陽の透明な光に輝いて、ダイヤモンドの粒を砂のように投げたかのように見えた。


 髪からしたたる水も彼女を輝かせる。力を感じさせる自然光が彼女を力強く演出する。

 今の彼女は、人工の光の下で暗くたたずむ少女じゃない。

 力強く、生きている。命の脈動がある。


のどかわいた!」


 頭を振って水滴を落とし、髪をかき上げて彼女は笑顔を見せた。

 ボクの視界の中には、今、彼女しか見えない。


「こんなに水があるのに喉が渇くなんて、おかしいね!」

「海の水はしょっぱいからね」

「なんでしょっぱいのかな?」

「そりゃあ、塩が入ってるからじゃないの?」

「その塩は、どこから来たのかなぁって」


 あ……。


「こんなにたくさんの水をしょっぱくさせるんだもの! ものすごくたくさんの塩なんだわ! いっそのこと、たくさんの砂糖にしてくれたらよかったのに! いくらだって飲めちゃう!」

「魚は太って大変だろうね」

「あはは! 甘いお魚ってどうなんだろ!」

「甘いお魚はないけど、甘い飲み物ならたくさんあるよ」

「やった!」


 ボクも海から上がり、ビーチパラソルに向かって歩く。そんなボクの後を追って、砂を蹴立てるようにして彼女は走った。


 ふたつのビーチチェアがパラソルを挟んで並び、ふたつの大きなクーラーボックスがその内側に置かれている。


「わぁ! いっぱい!」


 片方のボックスのふたを開けると、目に見える冷気が立った。たくさんの蓄冷材と、薄く張った水に浸った色とりどりの缶飲料が二十本も詰められているのが顔を出す。


 この一式を運ぶの、大変だった。全部がひとつの店で買えたとしても、この海岸まで持ってくるのは先輩の力を借りなきゃいけなかった。

 そういえば、その先輩は今、どこに――。


「こんなに飲みきれるかなぁ?」

「飲みきらなくても大丈夫だよ。缶だし」

「私、コーラ飲む! わ、冷え冷え! つめたい!」

「体を冷やすから、タオルで拭いた方がいいよ?」

「はーい!」


 バスタオルを肩にかけ、彼女は缶のタブを開けて口をつけ、一気にそれを傾けた。


「けふっ」

「だ、だいじょうぶ!?」


 口にコーラを入れた瞬間に噴き出した彼女。神経質になっているのか過敏かびんに反応してしまう自分を、ボクは止められない。


「ちょっと炭酸が気管に入っちゃった。舌にも染みたし。本当に久しぶりだもの」

「そうなんだ……」

「でもだいじょうぶ! びっくりしただけ! 美味しい!」


 まるで幼児のような幼い笑みを浮かべて、彼女は一本の缶をあっという間に飲み干す。

 おこづかいなんかは不自由していたに決まっている。親との関係が上手くいってないんだ。そんな中で、缶ジュース一本買うのも一苦労だろう。


「いくらでも飲んでいいよ。足りなかったら買ってくるし」


 ボクも赤い缶を取ってタブを起こした。シュワ、と炭酸が弾ける音と甘い香料が漂う。


「こんなに飲んだらおなかがたぷたぷになっちゃう! それに、もうひとつボックスがあるんだもの。それにも飲み物が入ってるの?」

「あ、これはね」


 ボクはボックスの脇に倒してあったものを持ち上げた。


「バット?」


 木製のバットだった。


「どうして海にバットがるの? サメをやっつけるため?」

「叩くのはサメの頭じゃないよ。叩くのは、これ」


 二つめのクーラーボックスの蓋を開ける。


「……あ!」


 彼女の顔が、宝箱の中から財宝でも見つけたような輝きを見せた。



   ◇   ◇   ◇



「じゃあ、回るね――!」

「いいよ――!」


 白い砂浜の上で、彼女がくるくると何回も回れ右を繰り返す。

 彼女の両の手にはバット。そして目には目隠しの黒い布。

 ボクは二十メートルも離れたところから彼女に声をかけるんだ。


「よーし、すとーっぷ!」


 彼女の旋回が止まる。


「右に回ってー! 右ー!」「う、うーん!」「もうちょい! もうちょい右ー!」「はーい!」「止まって! ちょっと左! 気持ち左!」「こーおー?」「よーし、ばっちり! そのまま進んで、進んで!」「わかったー!」


 彼女がバットを前に構えたまま、おっかなびっくりのへっぴり腰で前進する。目隠しは完全だ。全く前は見えていないはず。

 そんな彼女の前には、宝箱の中身が敷かれたビニールシートの上に載っていた。


 ボウリングの球くらいの大きさの、きらめくようななスイカだった。

 そうだ。

 これはスイカ割りなんだ。


「いいのー? このまままっすぐー?」「進んで、進んで!」「あーん、見えない!」「見えないからスイカ割りなんだ!」「死神さんの方に向かってたりしないー?」「その時はボクは逃げるから!」「えーい、行くね!」


 この浜辺を駆けていた時の軽快な足取りが嘘のように、一歩、一歩踏みしめるように彼女は進む。太陽の光がそんな彼女の肩を、腕を、脚をきらきら、きらきらと飾った。


「まだー?」「まだまだ! まだ半分も行ってない! 思い切って進んで! ボクの言葉を信じるんだ!」「わ、わかったー!」


 彼女が進む。見えないという不安が少し薄れたように、その足の運びが変わる。

 焼けた砂に素足を乗せて、スイカとの距離を詰める。

 十メートル、九メートル、七メートル、五メートル、三メートル……。


「も、もういいー?」

「ちょっと左に回って! そう! ほんの気持ち! 足の幅半分ずらすくらい!」

「う、うん!」


 微調整。彼女とバット、スイカの三点が一直線になる。

 残るは間合いだけ。もうあと、少し。


「八歩進んで! 八歩だけ! いいね!」

「八歩ね! よーし、いーち! にーぃ! さぁーん!」


 彼女が歩数を確かめながら進む。少女の影がスイカにかかる。――よし。


「とまって!」

「はぁい!」


 彼女と、バットと、スイカ。完璧な位置取りだった。

 あとは、最後のアクションだけだ。

 これがスイカ割りの醍醐味だいごみなんだ。


 さあ。


「バットを大きく振り上げて!」

「うん!」


 剣道の面を当てるような構えで、彼女はバットを振り上げた。

 チャンスは一回だ。

 さあ、後悔などかけらもないように。


 見事に、一撃で、割ってくれ――。


「自信を持って! 思い切り、振って!」

「うん!」


 バットが、殴られたくはないなというくらいの勢いで振り落とされた。

 ばっこん!


「わあ!」


 両手に伝わった手応え、それ以上に確かなものとして響いた気持ちのいい音が彼女を喜ばせる。

 バットは、理想的な形でスイカを割っていた。


 先端がシートを叩き、中程がスイカを直撃して真っ二つに割り――いや、切っている。大きな破片も出ないくらいの、真っ二つだった。


「やった! すごいや、きれいに割れたよ! 目隠しを取って!」

「ホントだ! すごいすごい! やったぁ!」


 バットを捨て目隠しを抜いた彼女が、空に吸い込まれるほどに大きな声を上げる。


「私天才? 初めてのスイカ割りだったのに! うれしい!」


 体を弾ませ、本当に子どものように喜び笑う彼女の姿に、ボクは涙が出そうになった。

 夏の浜辺に彼女を連れてきて、よかった。よかったんだ。

 ほんとうに、ほんとのほんとのほんとうに、よかったんだ――。


「ねえ! スイカ食べましょう! 割ったスイカは食べないと!」

「うん!」


 ボクたちは半分になったスイカを更に手で割り、赤い果肉かにくにかぶりついた。


「あまーい!」


 口元をスイカの種でほくろをつけたようにした彼女が、笑った。


「おいしい! すっごく甘い! こんな美味しいスイカ食べたの初めて! 上手く割れたから美味しいのかなぁ!」

「あはは、そうかも知れないね」


 ボクも同じスイカを食べながら答える。みずみずしく甘く、食べているだけで涙がにじむスイカだった。


「ね、これを食べたらもう一回しましょう! そのためにふたつスイカがあるのよね!?」

「いや、あれは失敗した時の予備」

「今度は死神さんが割るの! 私が声をかけるから!」

「ボ、ボクが割るの?」

「死神さん、きれいに割ってくれなきゃいやよ!」

「あわわわ」

「あはははは!」


 もう、それ以上明るくすることはできないだろうというほどにきらめく笑顔で、彼女は笑う。

 楽しかった。

 ただ、ただ、楽しくて楽しくて、楽しかった。


 それ以上にどう言葉を並べられるだろうか。

 太陽はまだ、真上には来ていない。

 まだ、来ていない――。

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