第19話「海だぁ――――――――!」

 浜から飛んでくる砂と塩を防ぐために植えられている林の列を抜けて、ボクたちは走っていた。

 自転車は防砂林の外だ。もう使わない。

 ボクたちは自分の足で走る。砂浜に自転車はらないんだ。


 ボクたちは、ボクたちの体だけで、気持ちだけで、海に行く――。


「う…………」


 ボクの十歩先を走る彼女が、林を、抜けた。

 光に満ち満ちた世界が、そこにあった。


「海だぁ――――!!」


 白い砂を蹴散けちらすように彼女がおどる。真っ白な砂浜をサンダルで駆ける。その向こうには赤と青と白のトリコロールカラーのビーチパラソルが開き、更に向こうは――青い、青い、青すぎる海だ。


 海だ。


「あはははは!」


 恋いがれていた世界に、白いレースに包まれた彼女が飛び込んでいく。けるようにあおい空から降り注ぐ透明な光を受けて、きらきら、きらきらと輝きながら。


「あははっ!」


 麦わら帽子が外され、投げられ、風に乗って白い砂に着陸した。

 彼女の足からサンダルが脱げる。フリルのスカートが解ける。レースのカーディガンが外れていく。

 白のワンピースの水着ひとつとなった彼女が、海に向かって駆けていく。


 駆けて、駆けて、駆けて――。


「わふっ!」


 爪先を後ろにすべらせるようにして、彼女は前のめりに転んだ。白い砂粒たちの絨毯じゅうたんに抱きつくようにして体が止まる。


「だいじょうぶ!?」

「――あははは!」


 ボクが駆け寄るよりも早く、彼女は跳ねるように起き上がった。

 白い水着を白い砂で飾って、彼女は笑った。


「あんまり嬉しすぎて足がもつれちゃった! でも、これが砂浜なのね! 砂がとても熱くてきれい! こけてみないとわからないね!」

「あぶなっかしいこけ方だよ。気をつけないと」

「気をつけるー!」


 彼女は笑いながら、波が濡らす陸と海の際に足を踏み入れた。

 白い波が彼女の白い足の甲を洗う。飛沫しぶきがあがる。太陽の光に輝く無数の真珠が彼女の足元で舞い上がる。


「つ――――」


 彼女は、今。

 着いた。

 海に、着いた――。


「つめたぁ――い!!」


 声が上がる。快哉が飛ぶ。

 波を蹴り、蹴り、蹴って、彼女は海を走る。

 風の翼で飛ぶように彼女は浜辺を、海を、浜辺を、海を駆ける。

 

「つめたい、つめたい、つめたぁい!」


 腕を広げ、見えない渦を起こしながら彼女はくるりと回り、くるくる、くるくると踊る。

 バレエのように、ワルツのように、軽く、鮮やかに、豊かに、可憐かれんに。

 深くなっていく水の前に、彼女の前に進もうとする気持ちは少しも鈍らない。


「つめたい! 気持ちいい! あはは、あははは、あははははっ!」


 いや、ますます速くなっていく。


「海だぁ――――――――!」


 波の力も何も蹴散らして、彼女の『海』への心は進んでいく。


「これが海! これが海なのね!! 私が毎日遠くから、病室から窓越しに見ていた海!」


 すねに、膝にと水位が上がっていく。それでも彼女はくるくると回っていた。

 まるで、自分が地球を回しているのだ、というように――。


「待って、待って待って待って」

「待たなーい!」

「待ってってば」


 ボクもそんな彼女に遅れて、服を浜に脱ぎ捨てながら追って海に入っていく――冷たい!


「じゅ、準備体操しないと。水は冷たいんだから!」

「だいじょうぶ! 準備体操代わりに走ったもの! こんな海を前にしてまどろっこしいことしてられないわ! そーれ、クロール!」

「うわあ」


 止めようと腕を伸ばしたボクに遠慮のない水飛沫みずしぶきを浴びせて、彼女は体の全部を海面に投げ出した。バタ足がさらに小さな水柱をいくつも立て、まともにそれを顔に浴びてボクはたじろぐ。


「うわっ、しょっぱいっ」


 考えてみればボクも海は初めてだ。口の中に入った海水の味がそう思い出させてくれる。


 体の中からあふれる力が発散されるように、彼女の細い体がいくつもの波の壁を越えていく。無駄な力が入ってさまになりきれない泳ぎ方かも知れないが、彼女の元気だけで突き進んでいく勢いがあった。


 これが、昨日まで病室から海を遠く眺めていた彼女と、同じなのか。

 いや、同じなんだ。

 彼女は病気になっていなければ、これくらい元気な女の子だったんだから。


「ああ、沖に向かうとあぶないよ! 波で体を持って行かれる!」

「えっ?」


 水をく腕の動きを止めて、肩まで浸かった彼女がこちらを振り向く。


「死神さんは心配性なんだから。どうせそんな遠くなんていけないもの。ここまで、ここまでならいいでしょ――あれっ!?」


 まるで海面の下でひとつ、底が抜けたように彼女の頭が突然に沈んだ。体の浮力が一瞬で失われたかのような落ち方だった。


しおりっ!?」

「わ、ああ、あぷっ、あふふっ」


 海面の水をつかむように彼女が腕を動かす。しかしそれが体を支えられるわけがない。爪を立ててもそれはむなしく滑るだけだ。


「あっ、脚が、脚がつって、うぷっ」


 彼女の顔が浮かんでは沈む――完全におぼれている!

 ボクは水を掻いて彼女の元に急いだ。が、水の壁のような重い抵抗がボクをはばむ。

 腕を暴れさせて体を引きずり込む力にあらがう彼女は遠い。手が届かない。

 だから、ボクは。


「栞!!」


 せいいっぱいの声を振り絞って。


「よく聞くんだ!! そこは――」


 叫んだ。


「そこは――立てるよ!!」

「え?」


 まるで下半身をサメにかじられているような表情の彼女が、拍子抜けした声を上げた。

 飛沫を撒き散らしていた腕の動きを止め、海水の中で体を立てる。


「あ」


 今まで嵐みたいに荒れ狂っていた海面がさざ波だけになり、その上に、彼女の白い肩がほんの少しだけ出ていた。


「ほら。まだここら辺は浅いんだ。準備体操しないから脚がつっちゃうんだよ。気をつけなきゃ」

「…………」

「栞?」


 放心した顔を見せている彼女にボクは近づき――迂闊うかつに近づいたのが、ダメだった。


「あはははは!」

「うわっ!」


 いきなり海面を横薙よこなぎに叩いた彼女が起こした波を、顔に受ける。


「うわ、目に入った、ちょ、ちょっと染みる」

「あはは、あははは、あははは!」


 浴びせられる水滴の向こうで、やっぱり彼女は笑っていた。


「死ぬかと思った!」

「もう」

「ごめんね、死神さん」


 水滴の弾幕がやむ。


「でも、ひょっとして私のこと、初めて名前で呼んでくれた?」


 え?

 ――あ。

 ――そう、なのか……?


「死神さん、ありがとう! さあ、いっぱい泳ごう!」

「あ、脚はだいじょうぶなの?」

「もう治った――!」


 再び彼女の体が海面の下に潜る。そんな彼女が起こした飛沫に当たりながら、ボクは青い空を見上げた。

 東の空に見える太陽はまだ、そんなに高くない。


 まだ、そんなに高くない――。

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